倭の五王

 
2020年10月7日 (水曜日)
 
倭の五王

 


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デンマンさん。。。どういうわけで倭の五王を取り上げるのですか?


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先日、次の記事を書いたのですよ。。。

 


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『百田尚樹を読む』

 

実際に読んだ本が『日本国紀』だったのです。。。

つまり、その本の中に倭の五王が出てくるのでご〜ざますか?

そうです。。。次のように書かれてます。。。

 

倭の五王

 


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413年から478年にかけて、日本の5人の王が中国の東晋、宋、南斉、梁に少なくとも九回朝貢した記録が残っている。この五人の王は「倭の五王」と呼ばれていて、中国の記録によれば、その名は讃、珍、済(せい)、興、武となっている。

日本の歴史学者の間では、讃ー>履中天皇、珍ー>反正(はんぜい)天皇、済ー>允恭(いんぎょう)天皇、興ー>安康(あんこう)天皇、武ー>雄略(ゆうりゃく)天皇というのが一応の定説となっているが、私はまったく納得がいかない。

まず中国の記録の中にある名前が天皇の本名(諡号とは別)とまったく違う。
学者たちは、なぜ中国の史書でそんな名前が付けられたのかという理由をいろいろ挙げているが、いずれも相当強引なこじつけであるし、そこに法則性は一切ない。

また『古事記』にも『日本書紀』にも、前述の天皇が中国に朝貢したという記述はない。
さらに五人の王は、中国から安東大将軍倭国王などに任命されているが、そうした記述もない。

在野の歴史家である古田武彦氏などは、倭の五王は九州王朝の王だったのではないかとする説を述べている。

もっとも「倭の五王」に関する中国の史書の信頼性は高くないという説もある。
いずれにしても、三世紀から六世紀にかけての日本の王朝のことは、今のところよくわかっていないのが実情である。

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
イラストはデンマン・ライブラリーより)


27−29ページ 『日本国紀』
著者:百田尚樹
2018年11月28日 第5刷発行
発行所:株式会社 幻冬舎

 

なるほどォ〜、あたくしは平安文学が専門で、この時代のことは全く門外漢でござ〜ますけれど、「倭の五王」という人物たちが中国の歴史書に書かれていたということは存じ上げておりました。

そうですか。。。で、卑弥子さんはどう思いましたか?

別に、どうも思いませんわ。。。ただ、そういう事実があったのかと思ったでけですわ。。。で、デンマンさんは、どういうわけで特に倭の五王を取り上げるのですか?

あのねぇ〜、百田氏は個人的な意見を書いている。。。次のように。。。

日本の歴史学者の間では、讃ー>履中天皇、珍ー>反正(はんぜい)天皇、済ー>允恭(いんぎょう)天皇、興ー>安康(あんこう)天皇、武ー>雄略(ゆうりゃく)天皇というのが一応の定説となっているが、私はまったく納得がいかない。

デンマンさんは百田氏の意見に対してはかなり懐疑的ですけれど、この意見についても独断と偏見だと思っているのでござ〜ますか?

いや。。。彼のこの意見に関しては全く同感です。。。「学者たちは、なぜ中国の史書でそんな名前が付けられたのかという理由をいろいろ挙げているが、いずれも相当強引なこじつけであるし、そこに法則性は一切ない」。。。確かに、そういう感想を僕も持ちました。。。

在野の歴史家である古田武彦氏などは、倭の五王は九州王朝の王だったのではないかとする説を述べている、と書いてありますけれど、この説は学会では認められていないのでござ〜ますか?

認められてないのですよ。。。学会の閉鎖性がその理由だと僕は思っているのです。。。

 

九州王朝説


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九州王朝説は、古田武彦によって提唱された、7世紀末まで九州に日本を代表する王朝があり、太宰府がその首都であったとする説である。

邪馬台国から5世紀の「倭の五王」までを九州に比定する論者は、古くは鶴峰戊申から太平洋戦争後では長沼賢海らがいるが、本説はこれらを7世紀まで敷衍した点に特徴がある。

当初古田は九州倭国は白村江の敗戦により滅亡したと考えていたが、近年の九州王朝説では7世紀末まで存在したとする見方をとっている。

近年、古田以外の多くの研究者から多くの発表がなされ、古田の同説に対する影響力は低下してきている。

本説は古田の「多元的古代史観」の主要な部分を占める。
古田は、「倭」とは九州のことであり「邪馬壹國(邪馬臺國)」は倭国の前身であるとし、その後、九州に倭国が成立したが、663年(天智3年)「白村江の戦い」の敗北により滅亡にむかったとしている。

現在、本説は、井上光貞、榎一雄、山尾幸久を始めとする複数の東洋史・日本史学者等から批判されており、主要な百科事典や邪馬台国論争史を著述した研究書においては記載されていない。

注:下記に記された内容は、古田史学会で発表された論文や九州王朝説支持者の著作の内容などを含むため、古田説とは異なる。また互いに矛盾する箇所もある。

 

経緯

古事記や日本書紀の記述は中国の史書に記されている邪馬台国(邪馬壱国)や倭の五王の記述とは食い違う部分が少なくない。

例えば、日本書紀では魏に朝貢した倭王は神功皇后であるとされているが、日本書紀において神功皇后一人の業績とされる記述は魏志倭人伝では卑弥呼・壱与という二人の女王の業績とされており、明らかに矛盾している。

こうした矛盾は江戸時代から議論の対象となっていた。松下見林は異称日本伝において中国史書の内容は信用できないとして日本書紀を基準に解釈すべきことを主張し、邪馬台国も倭の五王もすべて日本書紀の記述に合致するように解釈し直したが、その内容は倭王武を雄略天皇と清寧天皇の二人に比定するなど現代の文献史学の水準からは稚拙な面も存在し、松下の邪馬台国畿内説や倭の五王近畿天皇家説は現在のように広く受け入れられていたわけではなかった。

多くの国学者に影響を与えた本居宣長は馭戒慨言において邪馬臺国や倭の五王は本来の倭王である近畿天皇家ではなく、熊襲や任那日本府が倭王を僭称したとする熊襲偽僭説を主張した。この熊襲偽僭説を完成させたのが鶴峯戊申であり、彼は中近世文書に頻出する大宝以前の古代逸年号についても古代の九州年号である、と主張するなど現在の九州王朝説に近い主張となっていた。

こうした流れの中、在野の研究者であったものの親鸞研究等で学界からも一定の評価をされていた古田武彦の著書『失われた九州王朝』がベストセラーとなった。

さらに彼の九州王朝説による論文「多元的古代の成立」は史学雑誌にも掲載されるなど、学界・アマチュアの双方で彼の説は一定の評価を受け、井上光貞や安本美典らとの間で論争となった。そして市民の古代研究会が結成されると古田の学説は「古田史学」と呼ばれ、主にアマチュアの研究者の間で一世を風靡することとなった。

一方、東日流外三郡誌を巡る論争での古田の学界での影響力の低下、市民の古代研究会の分裂、さらには学術論文の体裁を得ていないアマチュア論文の乱立もあり現時点では九州王朝説は一時期ほどには広まってはいない。しかしながら、古田の学説を継承する古田史学の会は新春講演会に定説派の学者も招聘し、大阪府立大学の講師が幹部を務めるなど、いまなお活発な活動をしている。近年では平成30年に所功が著書『元号 年号から読み解く日本史』で否定的に、百田尚樹が著書『日本国紀』で肯定的に、それぞれ扱うなど今でも歴史家や著名人の注目を集めている学説である。

 

主な主張

(以下は古田説の概要ではなく、学者・在野を問わず、各論者の説を纏めたもの。)

紀元前から7世紀末まで日本を代表した政権は一貫して九州にあり、倭(ゐ)、大倭(たゐ)、俀(たゐ)と呼ばれていた。

倭の五王(讃、珍、済、興、武)も九州倭国の王であり、それぞれ倭讃、倭珍、倭済、倭興、倭武と名乗っていた。

筑紫君磐井(倭わい)は倭(九州)の王(武烈天皇)であり、継体は九州南部の豪族である。磐井の乱は継体による九州内の九州倭国に対する反乱であり、継体が武烈朝を武力討伐した記事である。

九州倭国の継体朝において日本で初めて独自の元号(九州年号)が建てられた。

隋王朝との対等外交を行った「俀王姓阿毎 字多利思北孤 號阿輩雞彌」は、九州倭国の倭国王であった。

九州王朝の始まりは後に天孫降臨として神話化される出来事であり、天孫降臨の舞台となった場所は福岡県の糸島近辺である。また九州王朝の前には出雲王朝が存在しており、国造制・部民制の原型は既に出雲王朝の時代から存在していた。

神武天皇は1世紀から2世紀頃に実在しており、神武東征も基本的に史実である。
九州王朝の分家として大和王朝(近畿天皇家)は成立した。

古田は近畿天皇家の天皇については、基本的に九州王朝の分王朝の大王として近畿に実在した、と考える。記紀には景行天皇の「九州大遠征」をはじめ、九州王朝の大王・天子の記事からの「盗用」はあるものの、例えば景行天皇自身が九州王朝の大王であった、とは古田は主張していない。

乙巳の変については、近畿天皇家内部における「親九州王朝派」の蘇我氏が粛清された事件であるとする。
万葉集の古い歌の殆どは九州で詠まれたものである。

 

九州王朝説の歴史と問題点

九州王朝説の提唱者である古田は親鸞研究での堅実な実績で知られ、当初は『史学雑誌』78-9や『史林』55-6、56-1など、権威あるとされる研究誌での公表を行い、一定の評価を得ていた。

九州王朝説に関しても、一時期は高等学校日本史教科書の脚注で「邪馬台国(邪馬壱国とする説もある)」と言及されたこともある。

しかしその後、勤務校の紀要を除けば、学術雑誌や学会発表などの手段によって自己の主張を公表する過程を踏むことが少なくなり、学界からの反応がなくなった。

歴史学、考古学等の研究者は、本説の内容に関して、考古学の資料解釈の成果とそぐわないこと等をもって、検証に耐えうる内容ではないとしており、当初古田が権威あるとされる研究誌での公表を行っていた頃には評価とあわせ批判をしていたものの、主要な百科事典や邪馬台国論争史を著述した研究書においても記載されていない。

その一方で、一般市民や在野の研究者の中には熱心な支持者が存在し、従来の古代日本史学をいまだ皇国史観の影響下にあるものと見て、本説はそれに代わる新しい史観であり、「日本古代史の謎や矛盾を無理なく説明できる」と主張している。また本説からは多くの亜流が生まれている。

九州王朝説は根拠に示すとおり多くの証拠があるにも拘らず日本古代史学界からは黙殺されている。それは以下のような理由による。

通説とあまりにかけ離れており日本古代史学界の多くの研究成果を否定することになる。
古田武彦やその支持者が史料批判など歴史学の基礎手続きを尊重していない。
古田武彦の漢文の読み方が恣意的である。

 

問題点に対する九州王朝説側からの意見等

九州王朝説からすると「古代ヤマト王権の存在を裏付ける都城などの遺跡、官僚機構の存在を示す木簡などの一次資料は全く存在せず、通説は二次資料・三次資料である記紀を鵜呑みにしたヤマト王権一元論を前提にその他の資料を無視したり曲解しており、資料の扱いが恣意的である」となる。

『日本書紀』の神代巻に「筑紫」は14回出現するが「大和」は1回も出現しないことなどから、神代の舞台は九州であるとする意見は九州王朝説に限らず多いが、九州王朝説の一部の論者の中には上記のように「壬申の乱」の舞台までも九州であるとして、記紀の殆どは「九州倭国」の史書からの盗用であり、「古代ヤマト王権」の文献資料など存在しないとする見方もある。

九州王朝説は九州王朝一元論に陥り易いが、これは記紀の基になった九州王朝の史書が九州王朝一元論によって書かれていたためにそう観えるのであり、現実を正確に反映しているわけではない。

古田武彦は自分の仮説は九州王朝と大和王朝の双方の存在をみとめる「多元王朝説」なのであって九州王朝一元説は支持しないと明言している。


出典: 「九州王朝説」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

確かに、『日本書紀』の神代巻に「筑紫」は14回出現するが「大和」は1回も出現しないことなどから、神代の舞台は九州であるとする意見は九州王朝説に限らず多いと書いてありますけれど、九州王朝説を全否定するのは無理がありますわねぇ〜。。。

地理的に見ても、中国の漢字文化が最初に伝わったのは九州に違いないのです。。。九州を通り越して近畿地方に伝わったなどとは考えにくい。。。やはり、九州王朝の分家として大和王朝(近畿天皇家)は成立したと考えるのが、地理的なことを考えれば極めて自然なのですよ。。。

そうですわねぇ〜。。。倭の五王(讃、珍、済、興、武)も九州倭国の王であり、それぞれ倭讃、倭珍、倭済、倭興、倭武と名乗っていた、と考えれば、色々とこじつけることもないのですわ。。。倭の五王を九州王朝の王と考えたほうがしっくりするのに、どうして学会では無理矢理 日本書紀の天皇に結びつけるのでしょうか?

 


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九州王朝説を採用すると、従来の古代史研究者は、自分の立場を自分で崩すことになるのですよ。。。要するに、九州王朝説が地動説ならば、倭の五王を大和王朝の天皇に比定するのは天動説です。。。

じゃあ、いずれ地動説の九州王朝説が常識となる日が来るのですわねぇ〜。。。

そうなると僕は信じてますよ。。。

 


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【卑弥子の独り言】


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ですってぇ〜。。。

あなたも、地動説を信じていますか?

「そんな事は当たり前じゃないか! 古代史などどうでもいいから、他にもっと面白い話をしろ!」

あなたは、そのような強い口調で あたくしに命令するのでござ〜ますかァ〜?

分かりましたわァ〜。。。

では、あなたもビックリするような

忠臣蔵のとっても古い映画をご覧くださいまし。。。

なんと。。。昭和3年(1928年)制作の『忠臣蔵』ですわよう!

無声映画ですけれど、弁士の方がなかなかうまい説明をしてくださいますわ。。。

つい、引き込まれて観てしまうのですわ。。。

浅野内匠頭がどうしてヘマをしでかしたのか?

そのへんのところが詳しく映像に残っております。

観るだけの値打ちがありますわ。。。

では、どうぞ。。。

 

 

ところで、どうして小百合さんが

「軽井沢タリアセン夫人」と呼ばれるのか?

 


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あなたは ご存知でござ~♪~ますかァ?

実は簡単な事なのですわよう。

小百合さんは軽井沢に別荘を持ったのですわ。

小さな頃から軽井沢に住むことが夢だったのですってぇ~。。。

分からない事ではござ~ませんわァ。

そもそも小百合さんが軽井沢に興味を持ったのは、朝吹登水子のエッセーなどを読んだことがきっかけだったとか。。。

現在、朝吹登水子の山荘、睡鳩荘(すいきゅうそう)は軽井沢タリアセンに移築されて公開されています。


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それで、小百合さんは軽井沢タリアセンを訪れては睡鳩荘に足を運んで少女の頃の事を思い出すのが楽しみなんですってよ。

そういう訳で、デンマンさんが小百合さんのことを「軽井沢タリアセン夫人」と呼ぶようになったのですわ。

軽井沢・雲場池の紅葉

軽井沢のイルミネーション

秋の旧軽井沢銀座ぶらり散歩

とにかく、明日もデンマンさんが興味深い記事を書くと思いますわ。
だから、あなたも、お暇なら、また読みに戻ってきてくださいまし。
じゃあねぇ~~。


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