クラシックとじょんがら

 

2019年3月13日 (水曜日)

 

クラシックとじょんがら

 


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デンマンさん。。。、最近 クラシックと民謡にハマッてるのですか?


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。。。ん? オマエは僕がクラシックと民謡にハマッていると思うわけぇ~。。。

だってぇ、タイトルに クラシックとじょんがら と書いてあるじゃありませんかァ!

いや。。。 僕がハマッていると言うよりも、オマエこそクラシックと民謡にハマッてるんじゃないのォ~!?

その証拠でもあるのですかァ~?

あるのだよ。。。 オマエは次の記事を書いていたのだよ!

12.1 Zoltán Kodály (1882-1967)

何故、連弾用のピアノ曲を二台のピアノで弾くと、つまらないのだろう。弾いている二人だけではなくて、聴いている人にとっても、その曲が、なにか間が抜けて響くであろう事は容易に想像できることである。ところが、そうした作品をレコードで聴く場合は、やはり二台のピアノを使用しての録音のほうが良いであろう。ことは、少しばかり複雑である。
ところで、これはピアノ曲ではないが、あるレコードを聴きながら、いつか、この音楽は見てみたい、と想ったことがあった。そのレコードは、Zoltán Kodályの<<無伴奏チェロの為のソナタ>>(Op. 8)である。演奏はJ. Starker,録音はPeter Bartók であった。一寸ばかり有名なLP である。
しかし、この驚異的な録音で、この作品を耳にしても、否、むしろ驚異的な録音であるが故に、何故か、何かもどかしいような感じから逃れられない気持であったのである。私自身が弦楽器から離れて二十年以上になるので、中村紘子の言った<エロティクとすら言える楽器に対する感触>に於ける想像力が減退したのか、などとも思ったことがあった。
その後、ついに、例の曲を見ることができた。演奏は、私の尊敬する堤剛、Starkerの愛弟子(と、私は推察する)である。見て分かるところは解ったように感じとった。音楽を見てみたい、と思ったのは、演奏を見てみたい、ということだけではなかったのに気がついたのだ。この作品の調弦は(低弦二本が標準より半音低い)B, Fis, D, Aである。私は、Kodályが、そのように調弦された楽器を使って作曲したのか、そうした楽器の為に作曲したのか、或いは、彼の作曲上のidéeに基づいて作曲し調弦を指定したのか、が更に気になっていたのである。そこまで見ることは、もともと不可能であったものの、とにかく、演奏を観ていて楽しいことは確かであった。
私がそうしたことに興味をもったのは、私がヴィオラをヴァイオリンの移調楽器として扱って(ハ音記号をト音記号と想定して、譜面上の調性を属調にシフトし、三度下を奏く。ヴァイオリンの経験のないヴィオラの先生が、よくそんなことが出来るわねえ、と感心して(あきれかえって)いたが、そんなことは、瞬時に出来るのである。)いたせいもあるが、それに加えて、H.I.F. Biberの<<Die Rosenkranz-Sonaten>>に思いをはせるからでもあった。この曲集は、標準的な二曲を除いて、全て調弦、配弦がそれぞれに異なっている(scordaturaと言う)。それに、楽譜は実音で書かかれていないので、作曲家自身の間違いが散見される、とのことである。そのへんのところを、吉田秀和はKodályの作品について、<作曲としては、むしろshow pieceに属する>(This is my work)、と書いていたのであろうか。いや、そうではないであろう。彼は更に<幅のせまい表現の内容価>などと言う、一寸解らない言葉ではあるが、とにかく作品の価値判断を含むところまで話を進めている。私は、ここまで来ると、拘りを感じざるを得ないのである。私は、とにかくKodályの初期の作品が好きなのであるが、その私の個人的な嗜好を抜きにしても、アタックを含めた楽器の音色の変化は、いわゆる旋律やrythmeと同じレヴェルでの作品構成上のparamètreであることは、現代では、ほぼ常識であり、Bartókについては、不思議なことに、吉田も認めていたところではなかったか。
ことは、夾雑物、或いはそれと視られるものを含む対象を、どのように見るかにあると思う。何らかのコミュニティに(草子地: ここでは、共同体としての民族を含むことは、言うまでもないであろう。)音楽が属している場合には、音楽を含めた文化としてしか音楽は存在しなかった、と私は思う。Kodály自身は、民謡の傷痕は彼の作品には無い、と言っていたが、それは、何も、民謡のideomの使用も無かった、という意味ではあるまい(もし、そうであったとしたら、私はKodályの言うことは何も信用しない)。話はむしろ逆である。夾雑物と視られたものが、実は本体、本質であった、ということすら有り得るのである。西欧の音楽に慣れた耳にはprimitifに聞こえる音の動きから、BartókやKodályの音楽が進展したことは周知であろう。吉田秀和がBartókの<<Mikrokosmos>>が解らないのも無理はない。<幅のせまい…>などという言い方は、生来未だかつて、何ものをも創った事の無い人間の言い草であろう。繰り返すが、ことはもう少し複雑である。
偉い人の悪口を言ってもはじまらない。自分で考える楽しみがまだ残されている。
音楽が解る、ということは、耳が感じたことを意識が確認することだ、と私は考える。話は、音楽を離れてみても、よくわかる。困難を克服しようとしている姿、姿勢を見ることが、何事にもよらずに感動的なのである。いたいけな幼児の弾く小品が、商品化された、蒸留水の様な演奏よりも感動的な瞬間があるのはそのためである。それは、いたいけな子供を商品化するな、ということでもあろう。意識が確認する、というのは、何も演奏上の困難さだけではない。作曲上の困難さも同様なのである。J.S. Bachの<<Die Kunst der Fuge>>は、楽譜を見るだけでも充分に感動的である。眼で見たものを、意識が確認するからである。
そういえば、J.S. Bachの<<無伴奏チェロ組曲>>のどれをレコードで聴いても、特に演奏を見てみたい、とは思ったことがなかった。音楽は自立して整然とした佇まいをしている。むしろ、静けさを感じるほどに。

蛇足(コーダ):
ついでながら、話は逸れるが、J. Brahmsの<<Symphonie in e-moll>>(Op. 98)の冒頭開始、震い付きたくなるような弦の響きが必要なところであるが、そうした演奏に久しく接してないのを、私は残念に思っている。


52-53ページ
『前奏曲集―あるアマチュアの覚書-作品 1の1』より

デンマン注: 太田将宏が会費を滞納したようで上のリンク先は削除されてます!

あのさァ~、いつも思うのだけれど、オマエの文章はとっても読みづらいのだよ! 英語やドイツ語やラテン語が入り混じっている。。。

デンマンさん! 人のことは言えませんよ! デンマンさんの文章だってぇ、長くて読み始めると、じきに飽きてしまうのですよ。。。

それは、オマエの個人的な見解だと思うのだよ! 僕の記事は、日本語が解る世界のネット市民の 多くの皆様に読まれているのだよ!

134ヵ国のネット市民の皆様に読まれていることを自慢したいのですか?

いや。。。 自慢したいわけじゃない! オマエが「デンマンさんの文章だってぇ、長くて読み始めると、じきに飽きてしまうのですよ」と言ったから、僕の長い記事でも まめに読んでくれる常連さんが居る、と言いたかったまでだよ。。。 とにかく、オマエの文章は読みづらいので、多くの人が上の文章を読み飛ばしたと思うのだよ。。。

マジで。。。?

僕だってぇ、読みたくなかった。。。 でも、この記事を書く都合があるので、次のように読み易くして読んだのだよ。

12.1 コダーイ・ゾルターン

    (1882-1967)


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何故、連弾用のピアノ曲を二台のピアノで弾くと、つまらないのだろう。
弾いている二人だけではなくて、聴いている人にとっても、その曲が、なにか間が抜けて響くであろう事は容易に想像できることである。

ところが、そうした作品をレコードで聴く場合は、やはり二台のピアノを使用しての録音のほうが良いであろう。ことは、少しばかり複雑である。
ところで、これはピアノ曲ではないが、あるレコードを聴きながら、いつか、この音楽は見てみたい、と想ったことがあった。
そのレコードは、コダーイ・ゾルターンの≪無伴奏チェロの為のソナタ≫(作品8)である。

 


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演奏はヤーノシュ・シュタルケル,録音はピーター・バルトーク であった。
一寸ばかり有名なLP である。

しかし、この驚異的な録音で、この作品を耳にしても、否、むしろ驚異的な録音であるが故に、何故か、何かもどかしいような感じから逃れられない気持であったのである。
私自身が弦楽器から離れて二十年以上になるので、中村紘子の言った<エロティクとすら言える楽器に対する感触>に於ける想像力が減退したのか、などとも思ったことがあった。

その後、ついに、例の曲を見ることができた。
演奏は、私の尊敬する堤剛、ヤーノシュ・シュタルケルの愛弟子(と、私は推察する)である。
見て分かるところは解ったように感じとった。

音楽を見てみたい、と思ったのは、演奏を見てみたい、ということだけではなかったのに気がついたのだ。
この作品の調弦は(低弦二本が標準より半音低い)シ, ファの半音上, レ, ラである。

私は、コダーイ・ゾルターンが、そのように調弦された楽器を使って作曲したのか、そうした楽器の為に作曲したのか、或いは、彼の作曲上のアイデアに基づいて作曲し調弦を指定したのか、が更に気になっていたのである。
そこまで見ることは、もともと不可能であったものの、とにかく、演奏を観ていて楽しいことは確かであった。

私がそうしたことに興味をもったのは、私がヴィオラをヴァイオリンの移調楽器として扱って(ハ音記号をト音記号と想定して、譜面上の調性を属調にシフトし、三度下を奏く。ヴァイオリンの経験のないヴィオラの先生が、「よくそんなことが出来るわねえ」、と感心して(あきれかえって)いたが、そんなことは、瞬時に出来るのである。)いたせいもあるが、それに加えて、ハインリヒ・ビーバーの≪ロザリオのソナタ集≫に思いをはせるからでもあった。

 


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この曲集は、標準的な二曲を除いて、全て調弦、配弦がそれぞれに異なっている(変則調弦あるいは特殊調弦と言う)。
それに、楽譜は実音で書かかれていないので、作曲家自身の間違いが散見される、とのことである。

そのへんのところを、吉田秀和はコダーイ・ゾルターンの作品について、<作曲としては、むしろショーピースに属する>(「名曲のたのしみ」)、と書いていたのであろうか。
いや、そうではないであろう。
彼は更に<幅のせまい表現の内容価>などと言う、一寸解らない言葉ではあるが、とにかく作品の価値判断を含むところまで話を進めている。

私は、ここまで来ると、拘りを感じざるを得ないのである。
私は、とにかくコダーイ・ゾルターンの初期の作品が好きなのであるが、その私の個人的な嗜好を抜きにしても、アタックを含めた楽器の音色の変化は、いわゆる旋律やリズムと同じレヴェルでの作品構成上のパラメータであることは、現代では、ほぼ常識であり、バルトークについては、不思議なことに、吉田も認めていたところではなかったか。

ことは、夾雑物、或いはそれと視られるものを含む対象を、どのように見るかにあると思う。
何らかのコミュニティに(草子地: ここでは、共同体としての民族を含むことは、言うまでもないであろう。)音楽が属している場合には、音楽を含めた文化としてしか音楽は存在しなかった、と私は思う。

コダーイ・ゾルターン自身は、民謡の傷痕は彼の作品には無い、と言っていたが、それは、何も、民謡のイディオムの使用も無かった、という意味ではあるまい(もし、そうであったとしたら、私はコダーイ・ゾルターンの言うことは何も信用しない)。
話はむしろ逆である。
夾雑物と視られたものが、実は本体、本質であった、ということすら有り得るのである。

西欧の音楽に慣れた耳には素朴で初歩的に聞こえる音の動きから、バルトークやコダーイ・ゾルターンの音楽が進展したことは周知であろう。
吉田秀和がバルトークの≪ミクロコスモス≫が解らないのも無理はない。

 


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<幅のせまい…>などという言い方は、生来未だかつて、何ものをも創った事の無い人間の言い草であろう。
繰り返すが、ことはもう少し複雑である。

偉い人の悪口を言ってもはじまらない。
自分で考える楽しみがまだ残されている。
音楽が解る、ということは、耳が感じたことを意識が確認することだ、と私は考える。

話は、音楽を離れてみても、よくわかる。
困難を克服しようとしている姿、姿勢を見ることが、何事にもよらずに感動的なのである。
いたいけな幼児の弾く小品が、商品化された、蒸留水の様な演奏よりも感動的な瞬間があるのはそのためである。
それは、いたいけな子供を商品化するな、ということでもあろう。

意識が確認する、というのは、何も演奏上の困難さだけではない。
作曲上の困難さも同様なのである。
バッハの≪フーガの技法≫は、楽譜を見るだけでも充分に感動的である。
眼で見たものを、意識が確認するからである。

 


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そういえば、バッハの≪無伴奏チェロ組曲≫のどれをレコードで聴いても、特に演奏を見てみたい、とは思ったことがなかった。

音楽は自立して整然とした佇まいをしている。

むしろ、静けさを感じるほどに。

 

 

追記(コーダ):

 

ついでながら、話は逸れるが、ブラームスの≪交響曲第4番ホ短調≫(作品98)の冒頭開始、

 


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震い付きたくなるような弦の響きが必要なところであるが、

そうした演奏に久しく接してないのを、私は残念に思っている。


赤字はデンマンが強調)

52-53ページ
『前奏曲集―あるアマチュアの覚書-作品 1の1』より

デンマン注: 太田将宏が会費を滞納したようで上のリンク先は削除されてます!

つまり、オイラが上の記事の中で民謡を取り上げたので、その記事を引用して クラシックとじょんがら というタイトルをつけたのですか?

いや。。。 そういうわけじゃないのだよ。。。 実は、先日 次の記事を書いてオマエとクラシックと民謡のことで語り合ったのだよ。。。

 


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『クラシックと民謡』

 

。。。で、上の記事の中でオマエが次のように書いていた。


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私は、民謡の発生に思いを廻らせるときに、

昔の民衆の創造性が信じられる。

 

しかし、私は、私自身を含めて、

現代の大衆を信じてはいない。

この汚染されきった世界に住むことは、

あまり幸福とは言えないという気持ちである。

だから、私は久しく《パシフィック231》に対しても

反感すらもっていた。

オマエが、「私は、私自身を含めて、現代の大衆を信じてはいない」と呆れた事を書いたことから、この点についてやり取りが長くなってしまって、実は、僕が言いたかった事が語りきれなかったのだよ。。。

つまり、今日は、その続きを語り合うということですか?

そういうことなのだよ。。。 オマエが、コダーイ・ゾルターンについて書いた記事の中でも民謡を取り上げていたので、その記事を長々と引用したのだけれど、今日はコダーイ・ゾルターンは、付録のようなもので、僕にとってはどうでもいいのだよ。。。

。。。で、デンマンさんは、何が言いたかったのですか?

まず、次のリストを見て欲しいのだよ。。。

 


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『拡大する』

『ん? クラシックと津軽じょんがら節?』

 

これはライブドアの 僕の『徒然ブログ』の日本時間で3月5日の午後6時5分から午前7時51分までの約2時間の「生ログ」なんだよ。。。 赤枠で囲んだ箇所に注目して欲しい。。。 

あれっ。。。 3月5日の午後7時48分に 『ん? クラシックと津軽じょんがら節?』 を読んだネット市民がいたのですねぇ~。。。 もしかして、上の写真のきれいなお姉さんが読んだのですかァ~?

そうなのだよ。。。 神奈川県川崎市多摩区に住んでいる津島 久留美 (つしま くるみ)さんが読んだのだよ。。。

デンマンさん!。。。 お願いですからオイラに久留美さんを紹介してください。。。 お願いします。。。

あのさァ~、いい年して男性ホルモンを全開して 目をぎらつかせながら ウェブカムに近づいてくるなよ! んもおおおォ~!

また、IPアドレスを調べて 久留美さんが 『ん? クラシックと津軽じょんがら節?』 を読んだことを突き止めたのですかァ~!?

そうだよ。。。

 


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。。。で、久留美さんは川崎市で何をしているのですか?

川崎市高津区にある洗足学園音楽大学で作曲の勉強をしているのだよ。。。

 


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あれっ。。。 将来は日本を背負って立つような作曲家を目指しているのですか?

そういうことだよ。。。

じゃあ、ぜひともオイラに久留美さんを紹介してください。。。

あのさァ~、オマエには心優しい奥さんがいるのだよ。。。 どうして久留美さんを紹介して欲しいわけぇ~?

ワイフとは日本語が通じなくなってから、もう何年にもなりますから、久留美さんと日本語でクラシックについて話がしたいのです。。。

実は、オマエがそう言うだろうと思ったのだよ。。。

それで、久留美さんが出てくるアクセス解析のリストを持ち出してきたのですか?

オマエは意外にオツムの回転が早いのだねぇ~?

これでも早稲田の理工学部数学科を優秀な成績で卒業しましたから。。。 うへへへへへへへ。。。

あのさァ~、久留美さんを紹介してもらえると思って、ヨダレを垂(た)らしながら シャツの胸元をビチャビチャに濡らしているけれど、みっともないから ハンカチで そのヨダレをふけよう!

。。。で、なぜ久留美さんを取り上げるのですか?

もう一度、オマエが書いたことを読み返してごらんよ!


(ireba04.png)

 

私は、民謡の発生に思いを廻らせるときに、

昔の民衆の創造性が信じられる。

 

しかし、私は、私自身を含めて、

現代の大衆を信じてはいない。

この汚染されきった世界に住むことは、

あまり幸福とは言えないという気持ちである。

だから、私は久しく《パシフィック231》に対しても

反感すらもっていた。

つまり、現代の大衆の一人である久留美さんも、オマエは信じてないということだよなァ~。。。?

いいえ。。。 久留美さんならば、オイラは信じることができます。。。 なぜなら、作曲を勉強している人に悪い人も、心の汚染された人もいないからです。。。

でも、オマエは 「この汚染されきった世界に住むことは、あまり幸福とは言えないという気持ちで。。。 だから、オマエは久しく《パシフィック231》に対しても反感すらもっていた」 のだろう!?

そうです。。。

だったら、オマエの住んでいる世界と久留美さんの住んでいる世界は別世界だよなァ~?

いいえ。。。 クラシックと民謡に対して造詣の深いオイラと久留美さんは清らかな美しい音楽の世界の住人です! うへへへへへへへへ。。。

そうやって うすら馬鹿笑いを浮かべて 手のひらを返したように噓っぱちを並べている場合じゃないだろう! ちょっと次の記事を読んで欲しい。

“たかが音楽、されど音楽、

 それ以上でも以下でもない。”

。。。だと、僕も思いますね。
音楽は人生でもない。
人生は音楽でもない。
されど音楽、それ以上でも以下でもない。

 


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ここで、もう一度恵美子さんに登場してもらいますが、
僕は、クラシックが何たるものか?と分からないうちに恵美子さんが演奏した“乙女の祈り”を聴いて感動したんです。
もちろん、可愛いと思っていた恵美子さんが弾いたから、中学生の僕は、なおいっそう感動したのです。

僕がピアノを独習で習い始めたのは、この経験があったからで、それがクラシックであったからではないのです。
いづれにしても、一つの曲がある人物によって演奏された事で僕に感動を引き起こした。
その感動が、僕をピアノに近づけさせた。

恵美子さんに会いたいからピアノを弾き始めたわけじゃない。
なぜなら、恵美子さんに会ったのはあの時が初めで最後。
僕の演奏を聴いてもらった事で僕の“片思い”は完結したのです。
でも、それからも、僕は時々“乙女の祈り”を弾いたものでした。

あの感動を自分のものにしたいから。。。

しかし、今の僕はすっかり忘れていて、この曲を弾く事さえできないんですよね。
あれだけハマッた“乙女の祈り”だったのに。。。

つまり僕にとって。。。
音楽は人生でもない。
人生は音楽でもない。
されど音楽、それ以上でも以下でもない。

現在、“乙女の祈り”を聞いてもジーンとこないのですよ。懐かしいとは思いますが。。。
しかし、“津軽じょんがら節”を津軽三味線で聴く時、僕の魂はゆさぶられます。


『ん? クラシック興味ある?』より

あれだけハマッタ“乙女の祈り”を聞いてもジーンとこないのに、
“津軽じょんがら節”を津軽三味線で聴く時、僕の魂はゆさぶられる。

なぜなのか?
“昔の民衆の創造性”とは、具体的にどのようなものなのか?

その答えを見出すために、僕は“津軽じょんがら節”の成り立ちを遡(さかのぼ)って行ったのです。

津軽じょんがら節は津軽民謡の代名詞のようなものですが、
元は新潟・十日町市の「新保広大寺」という唄だと言われています。

これは広大寺の和尚・白岩亮端の時代に起きた農地の耕作権をめぐる土地争いが原因で、
広大寺の和尚を追い出すために歌った「悪口唄」でした。

それが越後で大流行し、やがて越後瞽女(ごぜ)のレパートリーとなります。
これが全国に流行するのですが、それが津軽化したものが「じょんがら節」です。

津軽でも民衆の心に長く記憶される事件が起こりました。
慶長2(1597)年、南津軽郡浅瀬石城主・千徳政氏が、大浦為信に滅ぼされたのです。

しかし、政氏の死後も為信は追討をやめず、ついに政氏の墓まで暴こうとします。

 


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その戦いで炎上した千徳氏の菩提寺・神宗寺の僧・常椽(じょうえん)は、
それを抗議する意味をこめて本尊を背負って、
上川原に身を投げたと言います。すさまじい話なんですよね。
こうした悲劇を歌った口説節が、じょんがら節であると言います。

つまり、民衆の中から沸き起こった歌なんですよね。
11代にわたって津軽の東の山根に繁栄した千徳家が滅亡。
落城とともに神社・仏閣がすべて焼き払われる。

この時千徳家代々の菩提寺である神宗寺に奉仕していた常椽和尚が、
先祖代々の位牌を背負って逃げた。

ところが、捕らえられそうになったので
白岩の断崖から浅瀬石川(上川原)に身を投じて一生を終えたのです。

年を経た夏に、川原で遊んでいた子供達が常椽和尚の変わり果てた遺体を砂の中にみつけ、
村人が相談して墓をつくり、ねんごろに弔ったと言われています。

その後、その場所を常椽川原(じょうえんがわら)と呼ぶようになったそうです。
それから毎年、お盆には常椽川原に集まり供養をし、
代々の城主をはじめ先祖の霊を慰め、
常椽和尚を偲ぶために即興で歌われたのが「津軽じょんがら節」の始まりだと言われています。

常椽川原もいつしか上川原(じょうがわら)となり、更には「じょんがら」と言われるようになったわけです。

つまり、“民衆の創造性”から生まれた唄というものは、
もともとのクラシックのようにorder-madeではなかったのですよね。

民衆の中から沸き起こった歌。
血と汗と涙。。。
そのような苦労の中で民衆の口により歌い継がれて現在の我々にまで知られるようになった。

現在の僕が、あれだけハマッタ“乙女の祈り”を聞いてもジーンとこないのに、
“津軽じょんがら節”を津軽三味線で聴く時、僕の魂はゆさぶられる。
それは、やはり、この唄が血と汗と涙の中で民衆によって受け継がれてきたからではないのか?

芸能プロダクションがミーハーの歌手を育てて広めたわけでもない。
そうやって金儲けをするために歌われてきたわけではない。

テレビやラジオで宣伝して広めたわけでもない。
演奏会や、音楽会を開いて広めたわけでもない。
紅白歌合戦があったわけでもない。
レコード会社が儲かるからと言ってレコードに録音したわけでもない。

私は、民謡の発生に思いを廻らせるときに、昔の民衆の創造性が信じられる。

しかし、私は、私自身を含めて、現代の大衆を信じてはいない。

この汚染されきった世界に住むことは、あまり幸福とは言えない、という気持ちである。

つまり、太田さんが言うところのこの汚染されきった世界こそ、
すぐ上に書いた芸能プロダクションであり、
テレビやラジオの功利主義であり、
演奏会や音楽会の商業主義であり、
紅白歌合戦と言う馬鹿騒ぎであり、
レコード会社の儲け主義ではないだろうか?

僕が“津軽じょんがら節”を聴いて魂をゆさぶられるのは、
“民衆の創造性”に僕の心の琴線が触れたからだと僕は信じています。

本尊を背負って、上川原に身を投げた常椽(じょうえん)和尚の無念な気持ち。
その和尚に同情を寄せる村人たち。
その中で和尚を悼(いた)み偲ぶ唄が生まれ、その悲劇と共に民衆に歌い継がれてゆく。
僕は、このような悲劇のことは何も知らない。

しかし、その悲劇性と、農民の気持ちが、この歌の響きの中に、旋律の中に込められている。
そして、その唄が津軽三味線で奏(かな)でられるとき、僕の魂をゆさぶる。

そういうことだと思うのですが。。。
あなたはどう思いますか?

次のリンクをクリックして、柴田三兄妹の“津軽じょんがら節”を聴いてみてください。


『ん? クラシックと津軽じょんがら節?』より
(2006年7月9日)

つまり。。。、つまり。。。、デンマンさんは“津軽じょんがら節”を聴いてその悲劇性と、農民の気持ちが、この歌の響きの中に、旋律の中に込められている。 そして、その唄が津軽三味線で奏(かな)でられたとき、デンマンさんの魂がゆさぶられたのですか?

そういうことだよ。。。

要するに、オイラが次のように言ったことに対してデンマンさんは共感したというわけですねぇ~。。。


(ireba04.png)

 

私は、民謡の発生に思いを廻らせるときに、

昔の民衆の創造性が信じられる。

僕も、そして 津島久留美さんも、“津軽じょんがら節”を聴いて民衆の創造性を信じたのだよ。。。

 


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じゃあ、オイラもデンマンさんと津島久留美さんのお仲間ですねぇ~! うへへへへへへ。。。

いや。。。 オマエは農民も信用していないだろう!?

いいえ。。。 オイラも“津軽じょんがら節”を聴いて農民の創造性を信用することができました。。。 うしししししし。。。


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【レンゲの独り言】


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ですってぇ~。。。

あなたも現代の大衆を信じることができますか?

ええっ。。。 「そんな事はどうでもいいから、もっと面白い話をしろ!」

あなたにとって、日本での幸せはどうでもいいのですか?

分かりましたわ。。。

では、話題を変えます。

たいていデンマンさんは 太田さんに対して かなり辛らつな批判をしています。

太田さんにしてみれば、コケにされたと思えるので、

次のサイトで抗議録を公開したのですわァ。。。


(kogiroku9.png)

『実際の抗議録』

デンマン注:しかし太田将宏が上の抗議録を掲載したサイトは消滅してしまいました!

 

デンマンさんも上の抗議録を読んで ムキになって反論しています。

『嘘を書く日記』

 

太田さんは、これに対しては反論ができないのか、それ以降 無言で通しています。

でも、そのうち 忘れた頃にまたコメントを書き込むかもしれません。。。

あなたは、どう思いますか?

とにかく、ネットには “めちゃキモい”人たちがウヨウヨしています。

太田将宏さんは、まだ良い方ですわ。

中には、まるで得意になって、愚かな事をして遊んでいる オツムの足りない人たちがたくさん居ます。

また、見かけは普通のブログでも、悪徳スパマーが手を変え品を変えて 悪徳サイトへ誘い込もうとしています。

スパムコメントで褒められると、ついついその気になって、

相手のブログへ飛んでゆき、お返しに、あるいはお礼にと思って

読者に登録してしまったりするものですわァ。

どうか スパマーの思う壺にはまらないでくださいね。

悪徳スパマーは悪徳サイトへ誘おうと

てぐすね引いて待っているのですから。。。

悪徳サイトを利用して、

メールアドレスで登録したりすると、

あなたのメールアドレスは第3者や第4者に売られてしまう危険性があります。

あなたは、そのようなスパム・コメントや 成りすましスパマーには

騙されないと思い込んでいるでしょう?

でもねぇ~、もしかすると騙されているかもよ。。。

とにかく気をつけてくださいね。

次回も、さらに面白い話題が続きます。

あなたも、どうか、また記事を読みに戻ってきてください。

では。。。


(hand.gif)

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(30june.jpg)

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■ 『葛飾北斎と太田将宏』

■ 『女の性的飢餓感』

■ 『敵に塩を送る』

■ 『虚構とウソ』

■ 『手紙と絶交』

■ 『短気は損気』

■ 『不思議な日本語』

■ 『乙女の祈りだわ』

■ 『自作自演じゃないよ』

■ 『マリリンdeアイドル』

■ 『マリリンに誘われて』

■ 『かい人21面相事件』

■ 『悪名と名声』

■ 『嘘を書く日記』

■ 『増長慢』

■ 『自然に耳を傾ける』

■ 『老人極楽クラブ』

■ 『伯母と叔母』

■ 『民主主義とロックンロール』

■ 『後奏曲集@危険』


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■ 『女3人で姦しい』

■ 『クラシック鑑賞 1』

■ 『クラシック鑑賞 2』

■ 『クラシック鑑賞 3』

■ 『クラシック鑑賞 4』

■ 『クラシック鑑賞 5』

■ 『クラシック鑑賞 6』

■ 『クラシック鑑賞 7』

■ 『クラシック鑑賞 8』

■ 『クラシック鑑賞 9』

■ 『クラシック鑑賞 10』

■ 『クラシック鑑賞 11』

■ 『レゲエ@ジャマイカの夜』

■ 『クラシック鑑賞 12』

■ 『クラシック鑑賞 13』

■ 『クラシック鑑賞 14』


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■ 『クラシック鑑賞 15』

■ 『ヒルデガルトとジャンヌ・ダルク』

■ 『クラシック鑑賞 16』

■ 『クラシック@ルブリン』

■ 『田原総一郎と出版業界』

■ 『クラシック鑑賞 17』

■ 『ヒルデガルトと紫式部』

■ 『グールドとバッハ』

■ 『乙女の祈りと子猫のワルツ』

■ 『クラシック鑑賞 18』

■ 『クラシック鑑賞 19』

■ 『信じて跳べ』

■ 『クラシック鑑賞 20』

■ 『クラシック鑑賞 21』

■ 『クラシック鑑賞 22』

■ 『愛と赦し』

■ 『テルミン』

■ 『ヘンデルと自殺』

■ 『バッハとビートルズ』

■ 『人生と偏差値』

■ 『サルトルと現実主義者』

■ 『政治について』

■ 『クラシック馬鹿とエロ松永』

■ 『ティンパニストの本』

■ 『男の美学』

■ 『バッハ・コレギウム・ジャパン』

■ 『中村紘子とワンワン』

■ 『字が汚い!』

■ 『美しき青きドナウ』

■ 『字が汚い人』

■ 『犬死@太田将宏』

■ 『官能的な音楽』

■ 『クラシックと民謡』


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『きれいになったと感じさせる

下着・ランジェリーを見つけませんか?』

『センスあるランジェリー』


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