クラシック鑑賞 3

 

2018年1月11日 (木曜日)

 

クラシック鑑賞 3

 


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デンマンさん。。。、どういうわけでオイラを呼び出したのですかァ~?


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タイトルに書いたとおりだよ!

あれっ。。。 もしかしてクラシックを鑑賞するために オイラを呼び出したのですか?

そうだよ。。。

マジで。。。? デンマンさんは、オイラとマジでクラシックを鑑賞するつもりなのですかァ?

オマエは不満なのォ~?

いいえ。。。 デンマンさんと共にクラシックを鑑賞することができるなんてぇ~、天にも昇るよな気持ちですよ。。。 この際、スキップして喜んでもいいですか?

あのさァ~、いくらなんでも、それはオーバーじゃないのォ~? オマエが以前のようにスキップして喜んだら、この記事を読みに来たネット市民の皆様が呆れて他のブログへ飛んでしまうのだよ!

分かりました。。。 じゃあ、スキップして喜びたいのですけれど、デンマンさんが そのように言うのであれば、じっと我慢したいと思います。。。で、いったいどのようなクラシックの曲を鑑賞するのですか?

オマエが“前奏曲集”の中で書いていた記事から選んだのだよ。。。 ちょっと読んでごらんよ!

4.2 Wolfgang Amadeus Mozart

Mozart には、全てがある、と言った人がいた。この風な言い方はずるいと思う。何故か。全てはないのではないか、とおずおずと反論を試みたところで、お前にはMozart が解っていない、等との託宣が下されるのがおちであるからか。いやそれだけではない。Mozart に無いものは何んだろう、と考え始めた途端に、ああ、そういうnegative な詮索は心無い、と自己規制させるからでもある。考える自由を<天才Mozart >を暈にきて奪ってるからである。
いや冗談では無い。何事によらず、否定的な命題を証明するという事には、心情的な困難を伴うものである。
答えは、突然にむこうの方からやって来た。Mozart に無いものは、言ってみれば、こういうことを言ったらひとから嫌がられるだろうけれど、言わなければならないことは敢えて言う、とでもいった態度である。それは、Mozart 自身の証言にもあった。ここがL. v. Beethoven ともA. Schoenberg とも決定的に違う。
更に不思議なことには、今まで私の出逢った<Mozart 愛好家>とか<Mozartian>とか称する人々には、他の作曲家の音楽を受けつけない人が多い。Wolfgang Amadeus Mozart 自身、加えて彼の作品を演奏する演奏家の多くも、そんなには狭量ではないにも拘らずに、である。むしろ<Mozart 専門家>だとか<Mozart弾き>などと呼ばれる事を、心外に思っていない演奏家を探す方が難しいくらいである。
<Mozart 愛好家>は逆である。よい例がHenri Geon である。ある文章に行き当たる迄、私は彼に非常に好感を持っていた。この人は、他のMozartianとは違って、Mozart には良きものを見ようとして、他には悪しきもの ―― Mozart にしか無いもの以外はa prioriに悪いもの ―― を見ようとする態度、つまり、偏見が無いとおもっていた。その文章とは、ああ、あのBach でさえ無限旋律の傾向から逃れられなかった。―― という非常に狡猾な言い方である。英語には<silly> という、こうした場合に適当な表現がある。
理由。その一: 敵は本能寺。彼の言いたい事は、Richard Wagner に対してである事は明白であろう。さもなくば、無限旋律は無条件に悪いとした様な書き方はしなかったであろう。彼がBachについて何の例をも出さなかったのは意図的だと思うが、ここではそれは問わない。彼に、むしろ、こちらから自由に例をだせる条件を与えられたことに感謝したいくらいである。
Bach の<<Johannes-Passion>>でも<<Mattaeus-Passion>>でも、終曲(厳密に言えば、<<Johannes-Passion>>では、最後のchoral の手前の曲)その他の箇所で無限旋律的なページが出てくる事は、私でも知っている。しかしながらそれらも、しかるべき処に始まり、しかるべき時に必然的に終わっている。
一方、Mozart の<<Violinkonzert in B-dur >>(Nr.1, K.207)でも<<Violinkonzert in D-dur >>(Nr.2, K.211)でもいい、それらの第二楽章、一体あれはなんだ。それらこそ無限旋律以外の何ものでもないじゃあないか。無限旋律の例としては、Wagner よりもMozart を引き合いに出しても、見当違いにはならない程ではないか。しかしながら<Mozart 愛好家>は、そこ、楽章の終わりに、
無理してまで余韻を聞く。けれども、少しでも音楽をあるがままに聴こうとする人々は、はてな、とMozart に聞き返したい気持ちになるのだ。それを、はぐらかすように、第三楽章が始められるのである。
私だってWagner 流の解決を引き延ばした和声に支えられて、だましだまし紡ぎ出される旋律には辟易する時がある。しかし、そう言ったとしても、無限旋律を否定する根拠にはならない事ぐらいは自覚しているのである。
要するに、彼らは自分の好きな対象を肯定したいのだ。ということは、つまり、自分の好きな対象は善きものである、といった不可思議な前提を通して、自分自身を肯定したい、というような幼児的な欲求から抜ききれていないということか。何も自分自身を肯定しなくても、人生は過ごせるのに……。私は、私には、音楽を聴くのに<Mozart>という品質保証のスタンプは不要である。
理由。その二: 繰返す様であるが、Bach を引き合いに出した事である。あのBach でさえ……とは何と欺瞞的、偽善的な切り出し方であろうか。そこには、あの批判し難いBach を批判せずに済ませたい、と見せかけたい、という意図が見え透いている。
要するに、こういう手合いは、音楽一般が解っていないだけではなく、Mozart の音楽すら解っていないのではないだろうか。私は、Mozartを愛しているので、彼の音楽にMiniaturの宇宙をみる。<Mozartian>の多くは、自身は夜郎自大で、Mozartには、矮小化した宇宙を見てはいないか。この手の人にはこう言っておこう。私たちは、あなた方よりも、余程、ありのままのWolfgang Amadeus Mozart を愛しています、と。

蛇足(コーダ):
家内が、あなたは、negativeなことばかり言う、と言って私を批判した。それはそうだ。何事であれ、否定するという事は、肯定する事よりも論理的にも難しいからである。肯定と否定は非対称的であり、難しい事は、面倒くさい事とは違い、それなりに楽しい場合もあるのである。
K. Marx は生前に言っていたそうだ。彼はMarxistではない、と。Mozart も言っているかもしれない、彼はMozartianではない、と。
私は天才ではないので、天才の何たるかを知る由も無い。ただ、私が外から眺めている限りは、天才とは、なにか、傍若無人に振舞える才能のようにも見て取れないこともない。唯一人の例外と言ってもよいのがJ. S. Bach である。Bach は天才か?
L . v. Beethaven の中にMozart を捜すのはやめましょう。


21-22ページ
『前奏曲集―私はアマチュアである-作品 1の2』より

振り返ってみると、デンマンさんと共にクラシックを鑑賞するなんて今年になってから初めてのことですねぇ~。。。

確かに、そうなのだよ! でもさァ~、オマエの上の文章は とにかく読みづらいのだよ! おそらく、この記事を読み始めたネット市民の皆様の半分以上が、オマエの読みづらい文章を途中まで読んで 他のブログへ飛んでしまったと思うのだよ!

それほどオイラの文章は悪文でしょうか?

オマエの文章ほど読みづらい悪文を 僕は他に見たことがないよ!

マジで。。。?

僕には、到底、オマエの文章を最後まで読む気になれず、仕方がないから次のように楽しく、面白く読めるように編集し直したのだよ。。。 オマエも読んでごらんよ。。。

4.2 ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト


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モーツァルト には、全てがある、と言った人がいた。
この風な言い方はずるいと思う。
何故か。
全てはないのではないか、とおずおずと反論を試みたところで、お前にはモーツァルト が解っていない、等との託宣が下されるのがおちであるからか。
いやそれだけではない。

モーツァルトに無いものは何んだろう、と考え始めた途端に、ああ、そういうネガティブな詮索は心無い、と自己規制させるからでもある。
考える自由を<天才モーツァルト>を暈にきて奪ってるからである。

いや冗談では無い。
何事によらず、否定的な命題を証明するという事には、心情的な困難を伴うものである。
答えは、突然にむこうの方からやって来た。

モーツァルトに無いものは、言ってみれば、こういうことを言ったらひとから嫌がられるだろうけれど、言わなければならないことは敢えて言う、とでもいった態度である。
それは、モーツァルト 自身の証言にもあった。
ここがベートーヴェンともアルノルト・シェーンベルク とも決定的に違う。


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更に不思議なことには、今まで私の出逢った<モーツァルト 愛好家>とか<モーツァルティアン>とか称する人々には、他の作曲家の音楽を受けつけない人が多い。
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト自身、加えて彼の作品を演奏する演奏家の多くも、そんなには狭量ではないにも拘らずに、である。
むしろ<モーツァルト 専門家>だとか<モーツァルト弾き>などと呼ばれる事を、心外に思っていない演奏家を探す方が難しいくらいである。

<モーツァルト 愛好家>は逆である。
よい例がアンリ・ゲオンである。
ある文章に行き当たる迄、私は彼に非常に好感を持っていた。

この人は、他のモーツァルティアンとは違って、モーツァルト には良きものを見ようとして、他には悪しきもの―― モーツァルトにしか無いもの以外は先験的に悪いものを見ようとする態度、つまり、偏見が無いとおもっていた。
その文章とは、ああ、あのバッハ でさえ無限旋律の傾向から逃れられなかった、という非常に狡猾な言い方である。
英語には<silly> という、こうした場合に適当な表現がある。

理由。その一: 敵は本能寺。
彼の言いたい事は、リヒャルト・ワーグナー に対してである事は明白であろう。
さもなくば、無限旋律は無条件に悪いとした様な書き方はしなかったであろう。

彼がバッハについて何の例をも出さなかったのは意図的だと思うが、ここではそれは問わない。
彼に、むしろ、こちらから自由に例をだせる条件を与えられたことに感謝したいくらいである。

バッハ の<<ヨハネ受難曲>>でも<<マタイ受難曲>>でも、終曲(厳密に言えば、<<ヨハネ受難曲>>では、最後の合唱の手前の曲)その他の箇所で無限旋律的なページが出てくる事は、私でも知っている。
しかしながらそれらも、しかるべき処に始まり、しかるべき時に必然的に終わっている。

一方、モーツァルト の<<ヴァイオリン協奏曲 イ長調>>(Nr.1, K.207)でも<<ヴァイオリン協奏曲 ニ長調>>(Nr.2, K.211)でもいい、それらの第二楽章、一体あれはなんだ。

ヴァイオリン協奏曲 イ長調

 Nr.1, K.207 – Adagio

ヴァイオリン協奏曲 ニ長調

 Nr.2, K.211 – Andante

 

それらこそ無限旋律以外の何ものでもないじゃあないか。
無限旋律の例としては、ワーグナー よりもモーツァルトを引き合いに出しても、見当違いにはならない程ではないか。

しかしながら<モーツァルト 愛好家>は、そこ、楽章の終わりに、無理してまで余韻を聞く。
けれども、少しでも音楽をあるがままに聴こうとする人々は、はてな、とモーツァルトに聞き返したい気持ちになるのだ。
それを、はぐらかすように、第三楽章が始められるのである。

私だってワーグナー流の解決を引き延ばした和声に支えられて、だましだまし紡ぎ出される旋律には辟易する時がある。
しかし、そう言ったとしても、無限旋律を否定する根拠にはならない事ぐらいは自覚しているのである。

要するに、彼らは自分の好きな対象を肯定したいのだ。
ということは、つまり、自分の好きな対象は善きものである、といった不可思議な前提を通して、自分自身を肯定したい、というような幼児的な欲求から抜ききれていないということか。
何も自分自身を肯定しなくても、人生は過ごせるのに……。
私は、私には、音楽を聴くのに<モーツァルト>という品質保証のスタンプは不要である。

理由。その二: 繰返す様であるが、バッハ を引き合いに出した事である。
あのバッハ でさえ……とは何と欺瞞的、偽善的な切り出し方であろうか。
そこには、あの批判し難いバッハ を批判せずに済ませたい、と見せかけたい、という意図が見え透いている。

要するに、こういう手合いは、音楽一般が解っていないだけではなく、モーツァルトの音楽すら解っていないのではないだろうか。
私は、モーツァルトを愛しているので、彼の音楽に小さな宇宙をみる。
<モーツァルティアン>の多くは、自身は夜郎自大で、モーツァルトには、矮小化した宇宙を見てはいないか。

この手の人にはこう言っておこう。
私たちは、あなた方よりも、余程、ありのままのヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト を愛しています、と。

 

蛇足(コーダ):

 

家内が、「あなたは、ネガティブなことばかり言う」、と言って私を批判した。


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それはそうだ。
何事であれ、否定するという事は、肯定する事よりも論理的にも難しいからである。
肯定と否定は非対称的であり、難しい事は、面倒くさい事とは違い、それなりに楽しい場合もあるのである。

マルクスは生前に言っていたそうだ。
彼はマルクシストではない、と。

モーツァルトも言っているかもしれない、
彼はモーツァルティアンではない、と。

私は天才ではないので、天才の何たるかを知る由も無い。
ただ、私が外から眺めている限りは、天才とは、なにか、傍若無人に振舞える才能のようにも見て取れないこともない。

唯一人の例外と言ってもよいのがバッハである。
バッハは天才か?
ベートーヴェンの中にモーツァルトを捜すのはやめましょう。

赤字はデンマンが強調。)


21-22ページ
『前奏曲集―私はアマチュアである-作品 1の2』より

『前奏曲集』より

やっぱり、ネガティブな事ばっかり言ってると 人から嫌われるものなのでしょうか?

当たり前だろう! 当たり前田のクラッカ~!


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デンマンさん、こういうクラシック鑑賞という真面目な時に 100年も前のギャグを飛ばさないでくださいよ! そんな昔のギャグなど覚えている人は1000人のうちで一人か二人ですよ!

とにかく、ネガティブな事ばっかり言ってると家族にもマジで嫌われることを オマエは自覚していたのだよ!

マジで。。。? その証拠でもあるのですか?

あのさァ~、これまでに何度も何度も引用したのだよ! オマエは惚けているので、敢(あ)えて、ここに再度引用するからじっくりと読んでごらんよ!

 

私は、この曲集を書き終えたとき、老人見習いから、正真正銘の老人になるのではないか、と思うこの頃である。
真の老人とは、もはや、失うべき何ものも無くなった人のことを言うのではないか。

長女は、私から去った。
次女は、中立を保つ為に、この家に寄りつかない。
家内と言えば、日本語も通じなくなってから何年にもなる。

私には、S.Kierkegaard の言った、一番易しく一番難しいこと、すべてを捨てること、が、案外、無理なくできるのではないか。
いや、その時には、捨てるべき何ものも見当たらなくなった境地であろう。

その意味では、老人になる前に、不慮の死で亡くなった人は気の毒である。
私は、若い時に、死ぬのはいいが風邪をひくのは嫌だ、などと言って、粋がって与太をほざいていた。
今も、願わくは、あまり苦しむことなく死を迎えられたなら、それにこしたことはない、と考えている。

Kierkegaard は、また、永遠とは有限が無限に出会う瞬間である、と言っていた。
私の人生に、かつて、そのような瞬間があったであろうか。
いや、それもまた、超越の命題であろう。

私の人生は、無明に迷ったそれに終わるのかもしれない。
しかし、私の背後には、母の祈りがあった。

ある麻薬中毒患者が、お母さん、僕は、こんな遠くまで来てしまった、と淋しげに呟いていたが、私は、麻薬中毒者ではないけれど、その気持ちが解かっている、と思う。
どのみち、人生は、rehearsal無しの、ぶっつけ本番なのである。

しかし、私は、F.M.Dostoevsky の「白痴」にある、あの「イッポリトの告白」に書かれているように、もし、生まれる前に、この条件を知らされていたとしたならば、私は、生まれるてくることを肯(がえ)んじなかったであろう、とは思っていない。
私は、感謝して死ねるように、今からでも、心の準備をしておこう。

S.D.G

コーダ(蛇足):

私の懐疑なるものが、深いのか、深くないのか、私自身も知る由もない。
仮に、深かったとしても、そもそも、懐疑の深さというものは、誇るべきものであるのか、という疑問が残る。


【デンマン注:】 改行を加え読み易くしました。あしからず。

S.Kierkegaard: キルケゴール (1813-1855) デンマークの哲学者

S.D.G.: Soli Deo Gloria (ラテン語) To God Alone the Glory(英語) 神に栄光あれ。

F.M.Dostoevsky: ドストエフスキー (1821-1881) ロシアの小説家・思想家


56-57ページ Michel-Richard de Lalande
『後奏曲集(後書きばかり)』 作品3
著者: 太田将宏
初版: 1994年1月 改定: 2006年9月

『馬鹿やって人気?』にも掲載
(2015年8月18日)

デンマンさん! んもおおおォ~! いったい何度引用すれば気が済むのですかあああァ~。。。

オマエが分かっているくせに惚けたから、くどいとは思ったけれど引用したのだよ!

オイラは、それほどネガティブなことばかり言っているとは思いません。。。

オマエは独断と偏見でそう思っているだけで、客観的に見るとオマエはネガティブなことばかり言っているのだよ!

その証拠でもあるのですか?

オマエは、まだ他にも証拠が欲しいのォ~?

いけませんか?

オマエが そう言うのであれば、他にも まだ証拠はあるのだよ! オマエは止せばいいのに、ネットで僕のことについて ある事、無い事を含めてネガティブな事ばかりを書いてネットで公開したのだよ!


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『実際の抗議録』

やっぱり、こういう抗議録をネットで公開してはいけませんか?

あのさァ~、日本もカナダも言論の自由・表現の自由が保障されてるから、ネットで何を書いても何を言ってもいいよ。。。 責任を持って正々堂々と主張すべきことは主張すべきだよ。。。 でもなァ~、オマエのようにネガティブなことを書けばネット市民の皆様が喜ぶと思って、ネガティブナ事だけを重箱の隅を突っつくように書くのは人の道に反する行いなのだよ!

でも。。。、でも。。。、世間では“人の不幸は蜜の味!”と言いますけど。。。

しかし、その“他人の不幸と思って言った事”を本人が聞くと オマエの心優しい奥さんでもムカつくのだよ!


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やっぱり、家庭の平和を保つためにも ネガティブなことは言わない方がいいのでしょうか?

ネガティブなことを言うのだったら、相手が納得できるように ちゃんと責任を持って言うべきなんだよ!

オイラが責任を持たずに、ただやたらネガティブなことをダラダラと言っているとデンマンさんは断言するのですか?

そうだよ! オマエがネットで公開した僕に対する「抗議録」はクリックして読もうとすると、すでに消滅しているのだよ!


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『実際の抗議録』

。。。つうことわァ~、オマエが後ろめたさを感じて「抗議録」を取り下げたか? あるいは、会費を払うのが家計に響くので、会費を払うのを無視したか? いづれにしても、責任を持って正々堂々とネットで「抗議録」を公開したことにならないのだよ!

やっぱり、一度「抗議録」をネットで公開したならば、責任を持って断固、公開し続けるべきだとデンマンさんは主張するのですか?

そうだよ! ネガティブな事を書いたり言うときには、それぐらいの心構えをもって臨(のぞ)むべきだよ。。。

やっぱり、オイラは人間的に問題を抱えているのでしょうか? 最近、検索してみたのですが、実は、デンマンさんのおかげで オイラはネットで悪名を轟(とどろ)かせてしまったのですよ!


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『拡大する』

『現時点での検索結果』

あのさァ~、実は、オマエがクラシックに関して造詣が深いことに僕は尊敬の念を抱いているのだよ。。。

マジで。。。? その割には、これまでにオイラをさんざ馬鹿にしてきましたよねぇ~。。。

人間は誰でも完璧ではないのだよ。。。 当然、僕もオマエも完璧ではない! 50の長所があれば50の短所もある。。。 オマエの長所の一つがクラシックに関する造詣の深さだよ。。。

デンマンさんはオイラのクラシックの知識に対してマジで感心しているのですか?

そうだよ。。。 でもなァ~、オマエの表現の仕方は まったく自分本位で、読む人のために書いてない! クラシックに興味のない人にとっては、まるでデタラメな外国の文章を読んでいるようで、何がなんだか さっぱり理解できないのだよ!

つまり、デンマンさにとっても、理解できないのですか?

その通りだよ。。。 だから、これからクラシックのことを書くときには、草葉の陰からオマエを見守っている寅さんでも理解できるように書いて欲しいのだよ!


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【レンゲの独り言】


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ですってぇ~。。。

これまで、太田さんはデンマンさんに さんざ馬鹿にされたので

そのお返しをしているようですわァ。

だから、太田さんは次のサイトで抗議録を公開したのです!


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『実際の抗議録』

デンマン注:しかし太田将宏が上の抗議録を掲載したサイトは消滅してしまいました!

 

デンマンさんも上の抗議録を読んで ムキになって反論しています。

『嘘を書く日記』

 

太田さんはこれに対しては反論ができないのか、それ以降 無言で通しています。

でも、そのうち忘れた頃にまたコメントを書き込むかもしれません。。。

あなたは、どう思いますか?

とにかく、ネットには “めちゃキモい”人たちがウヨウヨしています。

太田将宏さんは、まだ良い方ですわ。

中には、まるで得意になって、愚かな事をして遊んでいる オツムの足りない人たちがたくさん居ます。

また、見かけは普通のブログでも、悪徳スパマーが手を変え品を変えて 悪徳サイトへ誘い込もうとしています。

スパムコメントで褒められると、ついついその気になって、

相手のブログへ飛んでゆき、お返しに、あるいはお礼にと思って

読者に登録してしまったりするものですわァ。

どうか スパマーの思う壺にはまらないでくださいね。

悪徳スパマーは悪徳サイトへ誘おうと

てぐすね引いて待っているのですから。。。

悪徳サイトを利用して、

メールアドレスで登録したりすると、

あなたのメールアドレスは第3者や第4者に売られてしまう危険性があります。

あなたは、そのようなスパム・コメントや 成りすましスパマーには

騙されないと思い込んでいるでしょう?

でもねぇ~、もしかすると騙されているかもよ。。。

とにかく気をつけてくださいね。

次回も、さらに面白い話題が続きます。

あなたも、どうか、また記事を読みに戻ってきてください。

では。。。


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