白い姫君

 
2022年4月21日 (木曜日)
 

白い姫君

 


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デンマンさん。。。、白い姫君 というのはどこの国の姫君ですか?


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イギリスの姫君ですよ。。。

白い姫君がいるということは赤い姫君も居るのですか?

居るのです。。。ベティさんはイギリスで起こった薔薇戦争というのを聞いたことがありますか?

詳しいことは知りませんが、15世紀頃にヨーク家とランカスター家が王位を争って戦争したということは英国史の受業で聞いたことがありますわ。。。

 

薔薇戦争

 


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薔薇戦争(Wars of the Roses)は、百年戦争終戦後に発生したイングランド中世封建諸侯による内乱であり、実状としては百年戦争の敗戦責任の押し付け合いが次代のイングランド王朝の執権争いへと発展したものと言える。

また、フランスのノルマンディ公2世ギヨームがイングランドを征服したノルマン・コンクエストの後、アンジュー帝国を築いたプランタジネット家の男系傍流であるランカスター家とヨーク家の、30年に及ぶ権力闘争でもある。

最終的にはランカスター家の女系の血筋を引くテューダー家のヘンリー7世が武力でヨーク家を倒し、ヨーク家のエリザベス王女と結婚してテューダー朝を開いた。

1455年5月にヨーク公リチャードがヘンリー6世に対して反乱を起こしてから、1485年にテューダー朝が成立するまで(1487年6月のストーク・フィールドの戦いまでとする見方もある)、プランタジネット家傍流のランカスター家とヨーク家の間で戦われた権力闘争である。

ヨーク家とランカスター家は、ともにエドワード3世の血を引く家柄であった。

ランカスター家が赤薔薇ヨーク家が白薔薇をバッジ(記章)としていたので薔薇戦争と呼ばれているが、この呼び名は後世のこととされる。

百年戦争中に、ランカスター家はプランタジネット朝を倒してランカスター朝を成立させていた。1422年、フランス王に対する勝利を重ね百年戦争における優位を確立したランカスター朝二代のヘンリー5世が死去し、生後9ヵ月のヘンリー6世がイングランド王に即位した。

1430年代以降、大陸での戦況が不利になるとフランスから嫁いだ王妃マーガレット・オブ・アンジューやサマセット公エドムンド・ボーフォートをはじめとする国王側近の和平派(ランカスター派)とプランタジネット家傍流のヨーク公リチャードを中心とした主戦派(ヨーク派)とが権力闘争を繰り広げるようになった。

イングランドは百年戦争に敗れ、ヘンリー6世は精神錯乱を起こして闘争を収拾できなかった。
両派は対立を深め、1455年に第1次セント・オールバーンズの戦いで両派間に火蓋が切られた。
以後30年間、内戦がイングランド国内でくり広げられる。

勝利したヨーク公は権力を掌握するが、マーガレット王妃率いるランカスター派の巻き返しを受けてヨーク派が窮地に陥ると1459年に戦いが再開した。

1460年のノーサンプトンの戦いでヨーク派が勝利してヘンリー6世を捕らえ、ヨーク公は王位を目前にするものの、スコットランドの援助を受けたマーガレット王妃の反撃を受けてウェイクフィールドの戦いで戦死した。

1461年、マーガレット王妃はウォリック伯リチャード・ネヴィルを破ってヘンリー6世を奪回するが、ロンドンの占領に失敗する。
ヨーク公の嫡男エドワードがウォリック伯と合流してロンドンに入城し、新国王エドワード4世に推戴されてヨーク朝が成立した。’
タウトンの戦いでヨーク派が大勝し内戦の勝敗は決した。
1465年にはヘンリー6世も捕らえられ、幽閉されている。(第一次内乱)

王位に就いたエドワード4世であったが、成立した政権は不安定であった。
エドワード4世は身分違いのエリザベス・ウッドヴィルとの結婚を独断専行させ、ウッドヴィル一族を重用したこと、そして外交政策の意見の相違からウォリック伯の反逆を招いた。

1469年にウォリック伯は王弟クラレンス公ジョージとともに反乱を起こしてエドワード4世を一時屈服させるが、翌1470年にエドワード4世が両人を反逆者と宣告すると国外逃亡を余儀なくされた。

ウォリック伯は宿敵であったマーガレット王妃と和解してランカスター派と手を結び、イングランドに上陸してエドワード4世を国外に追いやり、ヘンリー6世を復位させた。

だが、エドワード4世はブルゴーニュ公の援助を受けて、翌1471年にイングランドへ攻め入り、バーネットの戦いでウォリック伯を敗死させ、さらにテュークスベリーの戦いでランカスター軍を打ち破ってマーガレット王妃を捕らえた。

ヘンリー6世とエドワード王子は殺害され、ランカスター家の王位継承権者はほぼ根絶やしにされた。(第二次内乱)

1483年に再び転機が訪れた。エドワード4世が急死すると、王弟グロスター公リチャードはエドワード4世の幼い遺児エドワード5世と母后エリザベス・ウッドヴィルの一族を排除し、諸侯や市民の推戴を経てリチャード3世として即位する。

リチャード3世の即位に反対する勢力によって国内は再び混乱した。
フランスに亡命していたランカスター派のリッチモンド伯ヘンリー・テューダーは、1485年に兵を率いてイングランドに上陸すると、ボズワースの戦いでリチャード3世を撃ち破った。(第三次内乱)

ヘンリー・テューダーはヘンリー7世として即位するとエドワード4世の王女エリザベス・オブ・ヨークと結婚してヨーク家と和解し、新たにテューダー朝が開かれた


出典: 「薔薇戦争」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

つまり、白い姫君 の白は ヨーク家の白薔薇 のことですか?

そういうことです。。。王女エリザベス・オブ・ヨーク白い姫君 なのですよ。。。

でも、どういうわけで 白い姫君 を取り上げたのですか?

実は、バンクーバー市立図書館で DVD を借りて次の映画を見たのですよ。。。

 


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『拡大する』


『実際のページ』

 


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The white princess is a tale of power, family, love and betrayal, charting one of the most tumultuous times in British history uniquely from the point of view of the women. The tempestuous marriage between Elizabeth of York and King Henry VII officially marks of the conclusion of the War of the Roses, but the real battle for the throne is far from over.

This eight-episode series sees England ostensibly united by the marriage of Elizabeth of York and Henry VII, but their individual and partisan rift runs deep, and the war that furies between them portends to tear the kingdom apart again.


ホワイトプリンセスは、権力、家族、愛、裏切りの物語であり、女性の視点から英国の歴史の中で最も激動の時代の1つを独自に描いている
ヨーク家のエリザベスとヘンリー7世の間の波乱含みの結婚は、薔薇戦争の終結を公(おおやけ)に表明しているけれど、王位をめぐる本当の戦いはまだ終わってない。

イギリスは表面上はヨーク家のエリザベス王女とヘンリー7世の結婚によって統一されるが、彼らの個人的および党派的な裂け目は深く、彼らの間の憎悪は王国を引き裂く新たな火種となる。この八つのエピソードでは、その過程を描いてゆく。


(デンマン訳)
DVD カバーの説明より

 

 

面白そうですわねぇ〜。。。で、デンマンさんは、この映画のどこに引き付けられたのですか?

女性の視点から英国の歴史の中で最も激動の時代の1つを独自に描いている と上の説明に書いてあるけれど、普通、日本史でも、女性の活躍はまず語られることは少ない。。。古代では、卑弥呼と持統天皇(女帝)。。。中世では源頼朝の妻の北条政子ぐらいですよ。。。

上の映画では、女性の活躍が描かれているのですか?

そうです。。。上のウィキペディアの説明を読んでも、女性が表舞台に出てきて活躍しているようには見えない。。。でもねぇ〜、映画では、タイトルを見れば分かるように男性でなく女性が取り上がられている。。。映画の中では、女性が見えない部分で歴史を動かしているのが実によく分かるように描かれている。。。

つまり、英国史では、白い姫君 である王女エリザベス・オブ・ヨークが重要な役割を果たしているのですか?

タイトルから、この王女が主人公なのだけれど、僕が驚いたのは、本当の歴史上の主人公は、むしろ、テューダー朝を立ち上げたヘンリー7世のお母さんなのですよ。。。

 

マーガレット・ボーフォート

 


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1443年5月31日 – 1509年6月29日

 

マーガレット・ボーフォート(Margaret Beaufort)は、薔薇戦争期のイングランドにおけるランカスター派の貴族階級の女性である。’
ボーフォート家出身。生涯4度結婚したが、唯一の子供が後のイングランド王でテューダー朝の始祖ヘンリー7世である。

マーガレット・ボーフォートは、サマセット公ジョン・ボーフォートとマーガレット・ビーチャムの娘として生まれた。
父方の祖父は初代サマセット伯ジョン・ボーフォートであり、マーガレットはランカスター公ジョン・オブ・ゴーントとその愛人であったキャサリン・スウィンフォードの曾孫にあたる。

祖父は両親の正式な結婚を受けて後に異母兄ヘンリー4世と教皇の許可により庶子から嫡出子へと地位を上げたが、条件として子孫であるボーフォート家は王位継承権を放棄させられていた。

マーガレットは4回結婚しているが子供はただ1人、13歳で産んだ後のヘンリー7世だけである。

 

度重なる政略結婚

1444年、わずか1歳で父を亡くしたマーガレットは、政界の実力者だったサフォーク公ウィリアム・ド・ラ・ポールの後見を受けて育ち、1450年2月に7歳にも関わらずサフォーク公の息子ジョンが最初の結婚相手となった。

しかし同年5月にサフォーク公は暗殺され、ジョンとの結婚は1453年に無効にされた。
又従兄のイングランド王ヘンリー6世が自分に子供がいなかったため、マーガレットを王位継承者に指名することを考えたためだった。

ヘンリー6世は1455年、マーガレットを自分の異父弟リッチモンド伯エドマンド・テューダーと再婚させた。
エドマンドはキャサリン王太后(ヘンリー5世の未亡人)と2番目の夫オウエン・テューダーとの長男だった。

後にヘンリー・テューダーの即位に際してこのキャサリン王妃の再婚の合法性について議論されることになるが、法的には問題なかったと考えられる。

ところが同年から薔薇戦争が始まり、第一次セント・オールバンズの戦いでヘンリー6世の側近だった叔父のサマセット公エドムンド・ボーフォートがヨーク派に殺され、ヘンリー6世もヨーク派に捕らえられランカスター派とボーフォート家は存亡の危機を迎えた。

その余波でエドマンドもヨーク派に捕らえられ1456年11月1日に獄死した時、マーガレットは妊娠しており、翌1457年に息子ヘンリー(後のヘンリー7世)が生まれた。

マーガレットは1459年にヘンリー・スタッフォード卿(バッキンガム公ハンフリー・スタッフォードの息子)と3度目の結婚をして、ヘンリーは1461年にリッチモンド伯に叙されたが、同年にヨーク派の捕虜となりウィリアム・ハーバート(後にペンブルック伯)の保護下に置かれた。

戦況はますますランカスター派が劣勢になり、1464年と1471年に従兄弟のサマセット公ヘンリー・ボーフォートとエドムンド・ボーフォート兄弟がそれぞれヘクサムの戦いとテュークスベリーの戦いで敗死、ボーフォート家は男系が途絶えてしまった。

1469年にヨーク派で内紛が起こりエッジコート・ムーアの戦いでペンブルック伯が戦死、ヘンリーは解放されエドマンドの弟ジャスパー・テューダーに引き取られ、1470年にヘンリー6世の復帰で一時ランカスター派が頂点に立ったが、翌1471年にエドワード4世の反撃でヘンリー6世は廃位され獄死、ヘンリーとジャスパーはフランス、次いでブルターニュへの亡命を余儀無くされた。

 

息子ヘンリーを国王にするために

1471年にスタッフォード卿が亡くなった後、マーガレットは1473年から1482年の間にトマス・スタンリー卿と4度目の結婚をしている。
トマス・スタンリーはその時々の権力者にうまく追従する傾向があったようで、この時もヨーク派に属している。

ランカスター派のマーガレットとヨーク派のトマスとの結婚は政略結婚だったといわれている。
この間、マーガレットは大陸で亡命生活を起こっているヘンリーの身を案じ、ヨーク派のブルターニュに対するヘンリーの引き渡し要求を彼に報せて逃亡に手を貸す一方、エドワード4世に取り入りヘンリーのイングランド帰国に尽力している。

マーガレットはエドワード4世の弟リチャード3世の宮廷に入り、夫トマスと共に1483年7月のリチャード3世の戴冠式に出席している。
しかし、従甥で3番目の夫の甥でもあるバッキンガム公ヘンリー・スタッフォードの陰謀に加わりリチャード3世打倒とヘンリーの即位を企て、露見してバッキンガム公が11月に処刑されると立場が危うくなった。

トマスの取り成しで辛うじて命拾いしたが、リチャード3世に息子エドワード5世を殺された前王妃のエリザベス・ウッドヴィルと密かに結び、その娘でエドワード5世の姉エリザベス・オブ・ヨーク(白い姫君)と息子ヘンリーを婚約させた。

これが後にヘンリーの王位継承権を強化することになった

 


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映画の中の白い姫君とマーがレット(右)

 

1485年8月22日、ヘンリーがリチャード3世と雌雄を決したボズワースの戦いでは、トマスはリチャード3世の側についている(ただし布陣はしたが参戦はしなかったため、実質的には中立)。リチャード3世はトマスが継子に味方するのを恐れてトマスの長男ジョージを人質に取っていたため、うかつに動けなくなっていたのだった。

結局トマスが寝返ってヘンリーに加勢するのは、大勢がヘンリーに傾きかけたタイミングであった。だが、戦闘が終わった戦場からリチャード3世のかぶっていた王冠を見つけ出し、ヘンリーの頭にかぶせたのはトマスだった。

 

教育者として

晩年のマーガレットは宮廷から引退して信仰生活と教育振興に余生を捧げた。
1495年にヘンリー7世夫妻がランカシャーを訪問した時はダービー伯と共に歓待したが、以後はロンドンかサリーの別荘で過ごした。

1497年にはドーセットのウィンボーンに大衆向けの無料の学校を開校する意思を表明、1509年にマーガレットが亡くなると、この願いはウィンボーン小学校として実現する。
学校の場所と名前はそれ以来変化して、今日では「エリザベス女王の学校」としてドーセットで最も大きく、国内でも有数の大きさの学校である。

また1502年、ケンブリッジ大学に自分の名を冠した「レディ・マーガレット神学教授」のポストを新設した

それにとどまらずケンブリッジ大学の拡充を推し進め、ダービー伯と1504年に死別して一段落した1505年、マーガレットはロチェスター司教ジョン・フィッシャーの協力で「ゴッズ・ハウス」(God’s House)を再建・拡大し、ケンブリッジ大学クライスツ・カレッジを開学した。

3年後の1508年にもケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジ設立を計画したが、実現は死後の1511年までかかった。

オックスフォード大学の発展にも関与しいくつか講座開設を働きかけ、オックスフォード大学最初の女子校であるレディ・マーガレット・ホール校はマーガレットの名前にちなんだものである。

 


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文化の後援者としても活動、ウェストミンスター寺院のヘンリー7世礼拝堂建設を監督、死後はここに葬られた。
イングランドで印刷業を始めたウィリアム・キャクストンを援助、自らもフランス語の本を英語に翻訳しトマス・ア・ケンピスの『キリストに倣いて』の第4版を翻訳している。

1509年4月21日にヘンリー7世に先立たれ、2ヶ月後の6月29日に後を追うように66歳で死去、ヘンリー7世礼拝堂に埋葬された。


出典: 「マーガレット・ボーフォート」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

このお母さんがすごいのですよ。。。現在で言えば、教育ママゴンです。。。何が何でも、子供を東大の法学部に入れて、財務省か経産省の官僚にし、事務次官で退職したら衆議院議員に立候補させて末は首相になるようにコネを作り、根回しをしてゆくという女傑ですよ。。。

つまり、ヘンリー7世が子供の頃から、国王の座を目指すように教育したのですか?

そういうことです。。。このマーガレット自身が、波乱に富んだ人生を歩んできたのですよ。。。驚いたことに1457年に13歳でヘンリー7世(ヘンリー・チューダー)を産んでいる。。。現在では、ちょっと考えられない!。。。父はリッチモンド伯エドマンド・テューダー。。。でも、誕生の3カ月前に父親は死去していた。

国王の座につけるような立場にあったのですか?

いや。。。全くその可能性はなかった。。。ヘンリーの祖父オウエン・テューダーはウェールズ君主の血をひくけれど、イングランド王ヘンリー5世の未亡人でフランス王女であるキャサリン・オブ・ヴァロワの納戸係秘書を務める下級貴族に過ぎなかった。

その下級貴族が、どのように上級貴族になったのですか?

ヘンリーの祖父は女主人のキャサリンと結婚したのですよ。。。その間に生まれのがエドマンド、つまり、ヘンリー7世の父親です。。。ヘンリー6世の異父弟ということになり、フランス王家の縁者ともなって、リッチモンド伯に封じられて上級貴族の仲間入りをしたのです。。。

要するに、ヘンリーの王位継承権は主に母方のボーフォート家に由来するのですわねぇ〜。

そうです。。。母マーガレット・ボーフォートはエドワード3世の三男のジョン・オブ・ゴーントの子であるジョン・ボーフォートの孫なのです。。。だけど、ジョン・ボーフォートは両親が結婚する前に生まれた私生児だった。。。後に従兄に当たるリチャード2世が嫡出子として認められた時、王位継承権を放棄させられていた。さらに女系の血筋であることもあって、ヘンリーの王位継承権には疑問符が付いていた。

それが、どういうわけで王位継承権がヘンリーに巡り回ってきたのですか?

1483年までに、ヘンリー6世と息子の王太子エドワード・オブ・ウェストミンスター、さらに他のボーフォート家の成員が死に絶えてしまった。。。そういうわけで、ヘンリーがランカスター家一門の最年長の一員となったのですよ。。。

それで母親が、ヘンリーが王座につくように、いろいろと背後で動いたのですか?

そうです。。。ヘンリーの属するテューダー家がウェールズ君主の末裔であることを活用して、ウェールズからの援軍および軍の通行権を確保した。。。ヘンリーは、いつかウェールズを抑圧から解放するとされる“予言の子”の候補であると見なされており、そういうわけで、ヘンリーはウェールズ君主の赤いドラゴンの旗を聖ゲオルギウス十字の旗と共に掲げた。

それで、ヘンリーと母親は、どう動いたのですか?

1456年、父エドマンドは戦場でヨーク家側に捕えられ、ヘンリーの誕生3か月前に死んでいた。幼年時代は叔父ジャスパー・テューダーの保護を受け、ウェールズで暮らした。1461年にヨーク家のエドワード4世が王位に着くとジャスパーは追放され、ヨーク派のペンブルック伯ウィリアム・ハーバートがヘンリーと母を保護した。だけど1469年にペンブルック伯は処刑され、1470年にランカスター家のヘンリー6世が復位し、ジャスパーは追放から戻ってヘンリーを宮廷に連れて行った。

ヘンリーの王位は目前になったのですねぇ〜。。。

ところが、翌1471年にヘンリー6世と王太子エドワードが殺されてエドワード4世が復位すると、ヘンリーはランカスター家の血を引く最後の男子となり、ヨーク派から命を狙われるようになった。そのため、叔父ジャスパーに連れられてフランスに渡り、ブルターニュ公に匿われて続く14年間をブルターニュ公国で過ごしたのですよ。

母親のマーガレットもブルターニュに渡ったのですか?

いや。。。彼女はイングランドにとどまった。。。1480年に、ヨーク派のトマス・スタンリーと再婚し、ヘンリーをヨーク朝のリチャード3世に代わる王の候補として運動していたのです。。。運動が実を結んで1483年に、ヘンリーはエドワード4世の長女エリザベス・オブ・ヨーク(白い姫君)と婚約した。。。兄弟たちが叔父リチャード3世によってロンドン塔に幽閉されて亡くなっていたと思われていたため、エリザベスはエドワード4世の世継ぎとなっていた。。。

つまり、白い姫君と結婚することによりヘンリーは王位につくという考えですか?

初めは、そう考えていた。。。1483年、支援者であるブルターニュ公フランソワ2世の援助で、ヘンリーはイングランドに上陸しようとした。。。ところが、嵐のために計画は失敗し同調者のバッキンガム公ヘンリー・スタッフォードはリチャード3世に処刑されてしまった。リチャード3世はブルターニュ公国の宰相を動かしてヘンリーを追放しようとしたが、ヘンリーはフランス王国に逃げた。エドワード4世の妹マーガレット・オブ・ヨークが嫁いだブルゴーニュ公国はヨーク朝を支援していたため、これと対立するフランス王ルイ11世から軍勢と装備を援助され、ヘンリーは2度目の攻撃の準備を行ったのです。

。。。で、今度の戦いは、どうなったのですか?

フランス兵とスコットランド兵を率い、叔父ジャスパーやオックスフォード伯ジョン・ド・ヴィアーと共にランカスター派の拠点であるウェールズのペンブルックシャーに上陸し、イングランドに進軍した。父を通じてウェールズ王の血をひくヘンリーの軍勢は、ウェールズ兵を加えて5000に膨れ上がった。。。ヘンリーはノッティンガムとレスターでも援軍を得て、1485年8月22日のボズワースの戦いでリチャード3世の8000の軍に勝った

リチャード3世の方が優勢なのに勝ったのですか?

あのねぇ〜、リチャード3世側の多くの貴族は日和見(ひよりみ)し、リチャード3世の味方であったノーサンバランド伯ヘンリー・パーシー、およびウィリアム・スタンリー卿とヘンリーの継父トマス・スタンリー (初代ダービー伯爵)の兄弟は、決定的なタイミングでヘンリーの側に寝返ったのですよ。。。リチャード3世は戦死し薔薇戦争は事実上終結した。

それでヘンリーは王位についたのですか?

いや。。。イングランドが女系の王位継承権を認めているために王位継承権者は数多く、ヘンリーがすぐに王座につくことはできなかった。。。

。。。で、どうしたのですか?

ヘンリーのランカスター家はヨーク家と和解し、エドワード4世の王女エリザベス・オブ・ヨーク(白い姫君)と結婚することでヘンリー7世として王座を確かなものにしたのです。。。

ところで、日本史にはマーガレットのような女性は居ないのですか?

僕も考えてみたのですよ。。。マーがレットが生きていた15世紀の後半に、同じような野望に燃えていた女性が居るだろうか?。。。思い当たるのは日野富子ですよ。。。ちょうど同じ時期に日本で生きていた女性です。。。でも、野望に燃えていたけれど、むしろ悪女として日本史では知られている女性です。。。

一体、どういう女性なのですか?

次のような女性ですよ。。。

 

日野富子

 


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誕生:永享12年(1440年)
死去:明応5年5月20日(1496年6月30日)

 

日野 富子は、室町時代後期から戦国時代前期の女性。
室町幕府8代将軍・足利義政の正室(御台所)。

父は蔵人右少弁・日野重政、母は従三位・北小路苗子(北小路禅尼)。兄弟に勝光(兄)、永俊(11代将軍足利義澄の義父)、資治(日野兼興の養子)、妹に良子(足利義視室)。9代将軍・足利義尚の母。従一位。

正式名は氏姓+諱の藤原朝臣冨子。
「従一位冨子」の本人署名が後世に伝わる。

当時の呼称は主に将軍正室の意味の「御台」、夫の死後もしばしばそのように呼ばれている。
夫婦喧嘩により別居した時には、居住地を取って「東山殿」と呼ばれるようになった夫に代わって「室町殿」と呼称された記録もある(親元日記)。
大正2年(1913年)の日本史概説書では「藤原富子」。

しばしば中世の夫婦別姓(氏)の例として挙げられるが、実際に本人が「日野富子」を名乗った事実は確認されていない。
当時の社会通念からすると、正室が実家の苗字を名乗るはずはなく、氏姓(本姓)と苗字を混同した後世の誤解だという批判がある。

また前近代の日本で、男性が未婚の若い女性に実名を尋ねることはしばしば求婚を意味し、実名呼称回避の慣習が男性以上に強力だったため、女性はもっぱら仮名 (通称)を名乗り、極めてフォーマルな場合以外実名は名乗らないのが原則であった。

 

生誕と結婚

山城国(京都府)の生まれ。室町幕府の足利将軍家と縁戚関係を持っていた日野家の出身で、義政の生母・日野重子は富子の大叔母にあたる。

富子も康正元年(1455年)8月27日に16歳で義政の正室となり、長禄3年(1459年)1月9日には第1子が生まれるが、その日のうちに夭折した。
それを義政の乳母の今参局が呪いを掛けたせいだとし、彼女を琵琶湖沖島に流罪とし(本人は途中で自刃)、義政の側室4人も追放した。

 

応仁の乱

富子は寛正3年(1462年)と翌4年(1463年)に相次いで女子を産むが、男子を産むことは出来なかった。
寛正5年(1464年)に義政は実弟で仏門に入っていた義尋を還俗させ、名を足利義視と改めさせ細川勝元を後見に将軍後継者とした。

しかし翌寛正6年(1465年)に富子は義尚を出産、富子は溺愛する義尚の擁立を目論み、義尚の後見である山名宗全や実家である日野家が義視と対立した。
これに幕府の実力者である勝元と宗全の対立や斯波氏、畠山氏の家督相続問題などが複雑に絡み合い、応仁の乱が勃発した

富子は戦いの全時期を通じて細川勝元を総大将とする東軍側にいたが、東西両軍の大名に多額の金銭を貸し付け、米の投機も行うなどして、一時は現在の価値にして60億円もの資産があったといわれる

文明3年(1471年)頃には室町亭(京都市上京区)に避難していた後土御門天皇との密通の噂が広まった。
当時、後土御門天皇が富子の侍女に手を付けていたことによるものだったが、そんな噂が流れるほど義政と富子の間は冷却化していた

文明5年(1473年)に山名宗全、細川勝元が死去し、義政が隠居して義尚が元服して9代将軍に就任すると、兄の日野勝光が新将軍代となった。
義政は完全に政治への興味を失い、文明7年(1475年)には小河御所(上京区堀川)を建設して1人で移った。

文明8年(1476年)に勝光が没すると、富子が実質的な幕府の指導者となった。
「御台一天御計い」するといわれた富子に八朔の進物を届ける人々の行列は1、2町にも達した

11月に室町亭が焼失すると義政が住む小河御所へ移る。
しかし、文明13年(1481年)になって義政は長谷聖護院の山荘に移ってしまった(その後長らく義政とは別居)。

文明9年(1477年)にようやく西軍の軍は引き上げ、京都における戦乱は終止符を打ったが、この翌日、富子は伝奏・広橋兼顕に「土御門内裏が炎上しなかったのは、西軍の大内政弘と申し合わせていたから」という趣旨の発言をしている。

 

応仁の乱後

長禄3年(1459年)以降、京都七口には関所が設置され関銭を徴集していた(京都七口関)。
この関所の設置目的は内裏の修復費、諸祭礼の費用であったが、富子はほとんどその資金を懐に入れた

これに激高した民衆が文明12年(1480年)に徳政一揆を起こして関所を破壊した。
富子は財産を守るために弾圧に乗りだし、一揆後はただちに関の再設置に取りかかったが、民衆だけでなく公家の怨嗟の的となった。

義尚は成長すると富子を疎んじ始め、文明15年(1483年)には富子をおいて伊勢貞宗邸に移転し、酒色に溺れた
このため富子は一時権力を失った。

しかし延徳元年(1489年)に六角高頼討伐(長享・延徳の乱)で遠征中の義尚が25歳で没した。
息子の急死に富子は意気消沈したが、義視と自分の妹良子の間に生まれた足利義材(後の義稙)を将軍に擁立するよう義政と協議し、同年4月に合意が行われた。

延徳2年(1490年)正月に義政が没すると、義材が10代将軍となった。
しかし後見人となった義視は権力を持ち続ける富子と争い、富子の邸宅小河邸を破壊し、領地を差し押さえた。
翌年の義視の死後、親政を開始した義材もまた富子と敵対した。

明応2年(1493年)、義材が河内に出征している間に富子は細川政元と共にクーデターを起こして義材を廃し、義政の甥で堀越公方・足利政知の子・義澄を11代将軍に就けた(明応の政変)。
その3年後、明応5年(1496年)に富子は57歳で死去した。

 

人物

その活動に対する庶民からの評価は決して高くなく、戦乱で苦しむ庶民をよそに巨万の富を築いた「悪女」「守銭奴」と評された。
夫の義政が東山山荘の造営のため費用捻出に苦心していたときは、一銭の援助もしていないことから「天下の悪妻」とも呼ばれる。

一方で、火災で朝廷の御所が焼け、修復するため膨大な費用が必要になったときは自身の蓄財から賄ったりしていた。
幕府財政は贈答儀礼や手数料収入などに頼ったものに切り替わりつつあり、富子の蓄財もその文脈で考える必要があるとも指摘されている。
富子の遺産は7万貫(約70億円)に達していたという。

学問にも熱心であり、関白・一条兼良に『源氏物語』の講義を受けている。
将軍家御台所とはいえ、関白が女性に講義をするのは異例であるが、富子はこのために莫大な献金を行っている。

義尚の急死とそれに続く義政の病没によって、幕府内部が動揺する中で40年近く幕府とともに歩んできた富子は「御台」として引き続き幕府内部に大きな影響を与えてきた。明応の政変における将軍追放も「御台」富子の支持があって初めて可能であったと言われている。

応仁の乱の原因として義尚の後見人を山名宗全に頼んだことが挙げられるが、近年の研究で『応仁記』が記した虚構ではないかとされている。
理由として、富子が自身の妊娠中に妹の良子を義視に嫁がせてその基盤強化に力を貸していること(男子が生まれてもそれが成人する可能性が低かったこと当時、義視との連携を維持して万一の場合に義視と実妹の子が将軍職を継ぐのが富子としては望ましかった)、富子が宗全に依頼した出来事は『応仁記』以外の記録には見当たらず、義尚が生まれる前に宗全が諸大名と連携、その中に義視がいたことが挙げられている。

実際に義視を排除したかったのは義尚の養育係である伊勢貞親で、文正の政変の一因にこの動きに山名宗全・細川勝元らが反発したことにあるのではないか、と推測されている。


出典: 「日野富子」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

マーガレットは権力に拘(こだわ)っていたようですけれど、日野富子という女性はお金に固執(こしつ)していたようですわねぇ〜。。。

そうなのですよ。。。マーガレットと違い、子供の教育にも失敗し、夫を操(あやつ)ることもできなかった。。。つまり、夫にも子供にも頼れないから、頼れるのはお金だけだと思ったのでしょう!

それで日本史では悪女ということになってしまったのですかァ〜?

そういうことです。。。お金に執着(しゅうちゃく)すると そういうことになるのですよ。。。


(laugh16.gif)

【ジューンの独り言】


(bare02b.gif)

ですってぇ~。。。

あなたも権力よりもお金の方が大切だと思いますかァ〜?

ええっ。。。「そんな事はどうでもいいから、他にもっと面白いことを話せ!」

あなたは、そのような強い口調で わたしにご命令なさるのですかァ〜?

分かりましたわァ。。。

デンマンさんが10年以上も前にアンケートを作りました。

 


(wp91228.gif->june21-11-29.jpg)


『拡大する』

『もう一度クリスマスのページ』

 

上のリンクをクリックすると、

右側のサイドコラムにたくさんの質問が出てきます。

ひとつひとつ見ながら ぜひアンケートに答えてみてください。

ええ。。。、「そんな暇ないよ!」

じゃあ、たまには、古代のお話も読んでみてくださいね。

意外に面白いですわよ。。。

あなたも古代の謎に挑んでくださいねぇ~。。。


天武天皇と天智天皇は


同腹の兄弟ではなかった。

天智天皇は暗殺された

定慧出生の秘密

藤原鎌足と長男・定慧

渡来人とアイヌ人の連合王国

なぜ、蝦夷という名前なの?

平和を愛したアイヌ人

藤原鎌足と六韜

古事記より古い書物が


どうして残っていないの?

今、日本に住んでいる人は


日本人でないの?

マキアベリもビックリ、


藤原氏のバイブルとは?

ところで、他にも面白い記事がたくさんあります。

興味のある方は次の記事も読んでみてくださいね。


(sylvie500.jpg)


『角さんと原発と天罰(2013年1月5日)』

『真紀子落選(2013年1月14日)』

『野火(2013年1月18日)』

『タイタニックと国際化(2013年2月1日)』

『宮澤理恵@Macao(2013年2月28日)』


(sunwind2.gif)

『チョコレートと軍産複合体』

『チョコレートと甘い権力』

『CIAの黒い糸』

『美しい日本語再び』

『宮沢りえブーム?』

『また、宮沢りえ?』

『浅間山噴火とフランス革命』

『なぜアクセスが急増したの?』

『気になる検索ワード』

『なぜ塩野七生批判』

『その検査、ムカつく!』

『宮沢りえと床上手な女』

『MH370ミステリー』

『なぜ死刑廃止?』

『真犯人はそこにいる』

『MH370ミステリー裏話』

『お裁きを信じますから』

『ジャルパックと国際化』

『古代ローマのセックス』


(nopan05.png)

『CIAとノーパン』

『エロいローマ再び』

『エロいけれどためになる話』

『えろあくにめ温泉』

『エロいけれどためになる』

『地球上のネット普及率』

『原発はダメだったのに』

『スカートをはいた兵隊』

『行田シンドローム』

『幻の暴走機関車』

『CIA@NOパンツ』

『エリュトゥラー海案内記』

『IPアドレスの謎』


(ext200.jpg)

『地球外生物』

『パスカルの悩み』

『めっちゃアクセス』

『ミラーサイトで金儲け』

『5,216 アクセス!』

『信じられない!』

『アクセス急増!』

『超アクセス急増!』

『地球を飛ぶ』

『UFOと大津波』

『あと1時間で死ぬと判ったら』

『6000日@GOO』

『パシフィックリムの旅』

『雨のニューヨーク』

『いいねde嫌われる』

とにかく、今日も一日楽しく愉快に
ネットサーフィンしましょう。
じゃあね。バーィ。


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『スパマー HIRO 中野 悪徳業者』

 


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ィ~ハァ~♪~!

メチャ面白い、


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