あめが下しる

 
2020年12月3日 (木曜日)
 

あめが下しる

 


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デンマンさん。。。あめが下しる とは いったいどういうことでござ〜ますかァ〜?


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実は、バンクーバー市立図書館で日本語の本を借りて読んでいたら次の箇所に出くわしたのですよ。。。

 


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天正10年(1582)5月28日の朝、愛宕山西坊で連歌師の里村紹巴(じょうは)らと連歌会を催している。
この時、主客であった光秀が発句を詠んでいるのだが、その句は謀反の決意を表したものといわれた。

「ときは今 あめが下しる 五月哉(さつきかな)」というものだ。

この“とき”は明智氏の本流である土岐(とき)氏であり、“あめ(天)が下しる”は“天下を治める(治【し】る)”という意味があると解釈されるのだ。

句の意味を理解した紹巴は「花落つる流れの末をせきとめて」(鼻が落ちて積もり、遣り水の流れをせき止めている)と詠み、暗に思いとどまることを勧めた。

だが信長への謀反の意志を、直前まで側近にも話していない光秀が、いつ秘密を漏らすかもしれない人たちに、わざわざ気づかれるようなことをするであろうか。

連歌会の数日後に本能寺の変が起こったので、後世の人がドラマチックな解釈を施したと考えるのが妥当であろう。

5月29日、百韻を神前に奉納した光秀は、急ぎ亀山城に引き上げた。
この年の5月は(旧暦の)小月であり、29日までしかなかった。
出陣予定の6月1日は、まさに翌日、目前だったのである。

 


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里村紹巴は知っていたか?

光秀が読んだ発句から、紹巴は謀反を察知したと描かれることが多い。
だが紹巴は信長のもとに出入りする人物だ。
光秀が危険を犯すとは思えない。

本来は「あめが下しる」ではなく「あめが下なる」であったと言う。
そうなれば単なる風景描写なので、紹巴は知らなかったといえる。

 

(写真はデンマン.ライブラリーより)

49ページ
時空旅人別冊「明智光秀 反逆の虚像と実像」
編集人: 末松敏樹
2020日2月19日発行
発行所:株式会社三栄

 

NHKの大河ドラマで『麒麟がくる』という明智光秀が主人公のドラマをやってますけれど、それに便乗した形で出版された本でござ〜まずかァ〜?

そういうことのようです。。。

行田市に帰省中にデンマンさんはテレビで『麒麟がくる』をご覧になったのですか?

観ました。。。僕は10月6日に成田について11月10日まで滞在していたのでNHKの総合テレビの日曜日の午後8時に始まる番組を五回観ることができました。

それでバンクーバーに戻ってから図書館で上の本を見つけたのでござ〜ますか?

そうです。。。日本語の図書の棚に日本語のDVDがあって、日本語の映画も観ようと思って探していたら、その横に歴史関係の本が並んでいて、上の本が目についたのですよ。。。一回り大きな本だったので、すぐに目についた。。。

。。。で、デンマンさんは上の箇所を読んで異論があるのですか?

いや。。。以前から上の句の解釈は眉唾ものだと思っていたのです。。。

どうしてでござ〜ますか?

織田信長を討つことは極秘にされ、光秀はほんの一部の者しか知らせてなかったのですよ。。。だから、連歌の会とは言え、そのような極秘のことを句に読み込むというのは愚か者のすることだと思ったのです。。。

つまり、後世の歴史家か俳人かが うがった解釈をしたとデンマンさんは主張するのですか?

そうです。。。もしも光秀が詠んだとしたら「あめが下しる」ではなく「あめが下なる」であったと僕も思いましたよ。。。そうであれば、発句の意味は「ときは今だと思っているのに、雨がしとしと降っているなァ〜。。。5月の雨かァ〜。。。(なんだか嫌な感じがするなァ〜。。。でも、決めたことだから、やらねばなるまい!)」という意味だと思いますよ。。。もちろん、カッコの中は明智光秀しか知らないわけです。。。

でも、デンマンさんだって、こじつけてうがった解釈をしていると思いますわァ〜。。。

だからこそ、光秀は連歌の会とは言え自分の心を打ち明けるような発句は読まなかったはずなのですよ。。。

けれども、気晴らしで光秀は発句を読む気になったのではありませか?

いや、決してそのようなことは考えられない。。。特に里村紹巴の前ではうかつな発句は詠めないのですよ。。。

それはどうしてでござ〜ますかァ〜?

里村紹巴という人物を知れば、卑弥子さんだった僕の考え方に同意すると思いますよ。。。

 

里村 紹巴


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大永5年(1525年) – 慶長7年4月14日(1602年6月2日)

 

里村 紹巴(さとむら じょうは)は、戦国時代の連歌師。
里村姓は後世の呼称であり、本姓は松井氏ともいわれる。
号は臨江斎・宝珠庵。奈良の生れ。
長男に里村玄仍、次男に里村玄仲、娘婿に里村昌叱。

 

略歴

連歌を周桂(しゅうけい)に学び、周桂の死後、里村昌休(しょうきゅう)につき、のち里村家を継いだ。

その後公家の三条西公条をはじめ、織田信長・明智光秀・豊臣秀吉・三好長慶・細川幽斎・島津義久・最上義光など多数の武将とも交流を持ち、天正10年(1582年)、明智光秀が行った「愛宕百韻」に参加したことは有名である。

本能寺の変後には豊臣秀吉に疑われるも難を逃れた。

40歳のとき宗養の死で連歌界の第一人者となるが、文禄4年(1595年)の豊臣秀次事件に連座して近江国園城寺(三井寺)の前に蟄居させられた。

連歌の円滑な進行を重んじ連歌論書『連歌至宝抄』を著したほか、式目書・式目辞典・古典注釈書などの著作も多く、『源氏物語』の注釈書『紹巴抄』、『狭衣物語』の注釈書『下紐』などが現存している。

近衛稙家に古今伝授をうけた。門弟には松永貞徳などがいる。

紹巴は豊臣秀吉が帰依していた高野山の木食応其と親交が深く、また最上義光の連歌師、一花堂乗阿など時宗の僧とも交流があり、後に里村家からは宝永5年(1707年)に時宗の遊行上人を継承した遊行48代賦国(ふこく)が出た。

里村家は徳川宗家に仕え、幕府連歌師として連歌界を指導した。

紹巴の子孫が里村本家(北家)と呼ばれ、娘婿の里村昌叱の子孫が里村南家と呼ばれた。

 

逸話

辻斬りに遭遇したが、逆に刀を奪い取って追い払ったことがあり、これを信長に賞賛された、と、弟子の貞徳が伝えている。


出典: 「里村 紹巴」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

この当時は、もちろんテレビ、ラジオ、新聞やインターネットもない。。。だから、諸国を巡っている連歌師は知的文化人であるとともに、言わばフリーランス・スパイだったのですよ。。。

つまり、お金をもらって情報を提供していたのでござ〜ますか?

あからさまにお金を要求したわけではないけれど、戦国大名がなぜ連歌の会を開いたかと言うと諸国の情報が知りたかったからですよ。。。当然、連歌師は滞在中に豪華なもてなしを受けて、旅立つときには かなりの餞別(せんべつ)をもらうわけです。。。

それが言わば連歌師が受ける報酬というわけでご〜さますかァ〜?

そういうことですよ。。。だから、織田信長とも親交のある里村紹巴に明智光秀が心の内を打ち明けるような発句を読むはずがないのです。。。おそらく、上の発句は本能寺の変が起こってから、しばらく経って別の連歌師の創作だという可能性が強い。。。

でも。。。、でも。。。、連歌師は諸国を巡って、マジで情報をかき集めていたのでござ〜ますかァ〜?

あのねぇ〜、それは明智光秀の時代に始まったことじゃない。。。現在では「連歌の会」は全く廃れて、連歌師が存在しているとすれば化石的な存在だろうけれど、当時は 大勢の連歌師がいたのですよ。。。その人達も言わばフリーランス・スパイだった。。。例えば、僕が生まれ育った行田市。。。ここは戦国時代には成田氏が治めていた。。。

 

成田氏の文化


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成田氏の祖は藤原鎌足(614-669年)に始まり、13代行成(972-1027年)の子忠基を初祖とし、その15代親泰(1464-1524年)が延徳3年(1491年)に忍城を築城すという。 (略)

成田氏の文化程度と財宝は驚く程で、如何にその勢力が大きかったか想像出来る。
氏長は特に学芸を愛して連歌の道は、その史上に残る人であった。

当時の連歌の第一人者“宗長”も永正6年(1509年)忍城に来たことが『宗長日記』に出ているし、天正13年(1585年)兼如も来ている。
兼如は家康の連歌の師となった人である。

天正15年(1587年)氏長はたくさんの連歌師を招き、春日神社で大連歌会を行い、奉納連歌百韻をかかげたとあるのをみても、成田氏の文化程度を知ることが出来る。

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)


201-203ページ 『行田史跡物語』
著者: 大澤俊吉
1979(昭和54)年12月20日 初版発行
発行所: 歴史図書社

 

里村紹巴が生まれる一世代前の連歌の第一人者“宗長”も永正6年(1509年)忍城に来たことが『宗長日記』に出ているし、天正13年(1585年)兼如も来ている。。。

あらっ。。。当時の有名な連歌師は京都から遠い関東の草深い田舎まで出かけていったのですわねぇ〜。。。

成田氏は藤原氏の血筋を引いていた。。。関東にありながら成田氏の文化程度と財宝は驚く程だったのですよ。。。つまり、当時の行田は“小京都”だったのです。。。

そうだったのでござ〜ますかァ〜? 知りませんでしたわ。。。

天正15年(1587年)成田氏長はたくさんの連歌師を招き、春日神社で大連歌会を行ったのです。。。

 


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   神楽殿


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『拡大する』

 

今でも春日神社は行田市の谷郷地区にあるのです。。。当時の様子が絵にも描かれている。。。

 


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成田氏長は、このようにして たくさんの連歌師を招き、春日神社で大連歌会を行ったのでござ〜ますかァ?

そういうことです。。。 連歌会が終われば、参加者を歓迎するために 当然、お祝いの夜店などを出すわけですよ。。。

 


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これは、現在も続いている春日神社のお祭りです。。。 この時に、当時の連歌の第一人者“宗長”の従者の吾作さんが京都で習い覚えた“まんじゅう”を作って、参加者に食べさせたというのです。。。

それで、“おまんじゅう”が関東に広まったのでござ〜ますか?

そういうことです。。。 僕の祖先の加藤次郎佐衛門も、そのときの連歌会に出席していた。。。 この次郎さんは加藤家の当主の弟で、つまり、次男坊だったために 当時は30才過ぎても部屋住みの居候(いそうろう)をしていたのです。。。 ノー天気な人だったけれど、書、絵画、連歌の道に長(た)けていたばかりじゃなく、食道楽でもあった。。。 それで、“まんじゅう”に非常に興味を持って吾作さんから、その作り方を教わったのですよ。。。

マジで。。。?

卑弥子さんは僕の言うことが信じられないのですかァ~?

だってぇ~、今から 500年以上も昔のお話でしょう!?

その程度で驚かないでください。。。卑弥子さんも、もう一度 次の記事を読んでください。。。

 


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『デンマンの祖先は百済からやって来た』

 

実は、僕の祖先は百済の王族の血を引いているのですよ。。。 白村江(はくすきのえ)の戦い(663年10月)で敗れて日本へ逃げてきたのです。。。 徳川時代には忍城下で“木のくりもの屋”をしていたのだけれど、それ以前は、後北条氏に仕えていた騎馬武者だった。。。 要するに、成田氏の忍城に出仕していたのです。。。

思い出しましたわ。。。 そういう加藤家の歴史があったのですわねぇ〜。。。

そうです。。。だから、僕の言うことを信じてくださいね。。。「連歌師には心の内を明かしてなならない」。。。この当時からの常識だったのですよ。。。こういう話が代々伝えられてきた。。。連歌師に話したらすぐに広まってしまうのですよ。。。だから、明智光秀が織田信長を討ち取ろうなどということを発句に込めることは絶対になかったのです。。。。

 


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【卑弥子の独り言】


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ですってぇ〜。。。

もし、あなたが女性ならば、済子内親王のような勇気を持ってくださいねぇ〜。。。

ええっ。。。「その話は、今で言うなら女性週刊誌のエロい噂なのよ。。。マジで受け止めたら きっと馬鹿な目に遭うのだわ。。。そんな事はどうでもいいから、他にもっと面白い話をしてくださいな!」

分かりましたわァ。。。

では、あなたもビックリするような

忠臣蔵のとっても古い映画をご覧くださいまし。。。

なんと。。。昭和3年(1928年)制作の『忠臣蔵』ですわよう!

無声映画ですけれど、弁士の方がなかなかうまい説明をしてくださいますわ。。。

つい、引き込まれて観てしまうのですわ。。。

浅野内匠頭がどうしてヘマをしでかしたのか?

そのへんのところが詳しく映像に残っております。

観るだけの値打ちがありますわ。。。

では、どうぞ。。。

 

 

ところで、どうして小百合さんが

「軽井沢タリアセン夫人」と呼ばれるのか?

 


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あなたは ご存知でござ~♪~ますかァ?

実は簡単な事なのですわよう。

小百合さんは軽井沢に別荘を持ったのですわ。

小さな頃から軽井沢に住むことが夢だったのですってぇ~。。。

分からない事ではござ~ませんわァ。

そもそも小百合さんが軽井沢に興味を持ったのは、朝吹登水子のエッセーなどを読んだことがきっかけだったとか。。。

現在、朝吹登水子の山荘、睡鳩荘(すいきゅうそう)は軽井沢タリアセンに移築されて公開されています。


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それで、小百合さんは軽井沢タリアセンを訪れては睡鳩荘に足を運んで少女の頃の事を思い出すのが楽しみなんですってよ。

そういう訳で、デンマンさんが小百合さんのことを「軽井沢タリアセン夫人」と呼ぶようになったのですわ。

軽井沢・雲場池の紅葉

軽井沢のイルミネーション

秋の旧軽井沢銀座ぶらり散歩

とにかく、明日もデンマンさんが興味深い記事を書くと思いますわ。
だから、あなたも、お暇なら、また読みに戻ってきてくださいまし。
じゃあねぇ~~。


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