権十郎の芝居

 

権十郎の芝居

 


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デンマンさん。。。 最近、歌舞伎でも観たのでござ~ますかァ~?


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いや。。。僕は歌舞伎は面白いと思わないし、これまでに歌舞伎をテレビで観て感動したことはないのですよ。。。

それなのに、どういうわけで芝居を取り上げたのでござ~ますかァ~?

あのねぇ~、僕は久しぶりに三遊亭圓生の落語を聴いたのです。。。

 


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「権十郎の芝居」という演目なのですよ。

デンマンさんは落語にハマっているのですか?

歌舞伎はほとんど興味がないけれど、落語はハマっているかもしれません。。。古今亭志ん生、彼の次男の古今亭志ん朝、それに三遊亭圓生が僕のお気に入りの噺家ですよ。。。残念ながら3人共すでにあの世の人ですけれど。。。暇があるとこの噺家さんたちの落語を よく聴くのです。。。

。。。で、上の演目はどのようなお噺なのでござ~ますかァ~?

9代目の市川團十郎が、まだ河原崎権十郎と名乗っていた頃の噺なのですよ。。。

 

市川團十郎 (9代目)

 


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生誕: 1838年11月29日(天保9年10月13日)
死亡: 1903年(明治36年)9月13日)

 

九代目 市川 團十郞(団十郎)は明治時代に活躍した歌舞伎役者。屋号は成田屋。
定紋は三升(みます)、替紋は杏葉牡丹(ぎょよう ぼたん)。
俳号に紫扇(しせん)・團州(だんしゅう)・壽海(じゅかい)・三升(さんしょう)、雅号には夜雨庵(ようあん)。
本名は堀越 秀(ほりこし ひでし)。

五代目 尾上菊五郎、初代 市川左團次とともに、いわゆる「團菊左時代」を築いた。
写実的な演出や史実に則した時代考証などで歌舞伎の近代化を図る一方、伝統的な江戸歌舞伎の荒事を整理して今日にまで伝わる多くの形を決定、歌舞伎を下世話な町人の娯楽から日本文化を代表する高尚な芸術の域にまで高めることに尽力した。

その数多い功績から「劇聖」(げきせい)と謳われた。
また歌舞伎の世界で単に「九代目」(くだいめ)というと、通常はこの九代目 市川團十郎のことをさす。

 

修業時代

七代目 市川團十郎の五男で、愛人の子であったため中絶の危機にあったところを河原崎座の座元・六代目 河原崎権之助から堕ろすなら養子にほしいと請われ、生後すぐ養子となり三代目河原崎長十郎を襲名する。
義父母とも長十郎の将来のためにと、幼い時より踊りや三味線、さらに書道や絵画なども学ばせた。

朝早くから夕方まで休みなしで稽古をつけられ、夜は早いうちに寝るという手厳しいもので、後に九代目自身がこの当時のことを、「体が自分のものになるのは便所に入っている時くらいのものだった」と語っている。

丈夫な体が自慢だった実父の七代目 團十郎もさすがにこれを心配して意見したが、義母は平然と「他の子は砂糖漬けだが、うちは同じ砂糖漬けでも唐辛子が入ってあるよ」と答えたという。
弘化2年正月(1845年2月)、8歳のとき河原崎座『魁源氏曾我手始』の小奴升平実ハ源太丸で初舞台を踏む。

 

雌伏の時代

嘉永5年9月(1852年10月)将軍家に男子が生まれ長吉郎と名付けられたので、「長」の字をはばかり初代河原崎権十郎と改名する。
その2年後、兄の八代目 市川團十郎が大坂で自殺、この頃から次弟の権十郎がゆくゆくは「市川團十郎」を襲名することが期待されるようになる。
そのため養父母の教育はさらに厳しいものになり、ある日ひどい頭痛で舞台を休もうとしていたところ、養父が「貴様は何だ、役者ではないか。役者が舞台へ出るのは、武士が戦場へ行くのと同じことだ。
舞台へ行って死んでこい」と叱責されて無理矢理舞台に出されたこともあった[2]。

その後、父の高弟だった四代目 市川小團次が後見人となる。
しかし『三人吉三廓初買』のお坊吉三や、『八幡祭小望月賑』(縮屋新助)の穂積新三郎などの大役を与えられても、立ち振る舞いが堅く科白廻しにも工夫がないので「大根」だの「お茶壺権ちゃん」だのと酷評された

当時将軍家に献上される茶壺を護衛する役人の空威張りは巷では笑いの種だったが、権十郎はその役人よりもなお空威張りに見えたことを皮肉ったものである。
兄の当たり役『与話情浮名横櫛』(源氏店)の与三郎を勤めれば、外見は兄に似ていたが科白が重々しくて不評

『勧進帳』の弁慶を勤めれば、芝居が未熟だと小團次にこっぴどく叱られる。
散々の酷評に次ぐ酷評で、本人も嫌気して芸が伸び悩んだ

明治元年(1868年)秋には浪人の押し入り強盗によって養父が自宅で刺し殺され、自身も納戸に隠れて九死に一生を得るという惨事に遭遇。
そのときに聞いた養父の呻き声は終世忘れる事ができなかったという。
そんな不幸の中で相続した河原崎座の座元という重責をこなし、翌年三月に七代目河原崎権之助を襲名する。

しかし4年後には妻の甥にあたる河原崎蝠次郎に八代目を譲り、自らは河原崎三升を名乗る。
翌 1874年(明治7年)には非業の死を遂げた養父の遺志を継いで、安政2年(1855年)の失火全焼以後20年来絶えていた河原崎座を芝新堀町に再興。
これを養家への置き土産に実家の市川宗家に戻り、同年七月、37歳のとき、九代目 市川團十郎を襲名した。

 

飛躍の時代

市川宗家に戻って九代目團十郎を襲名した後も、團十郎はしばらくの間は河原崎座との縁が切れなかった。
河原崎座はその名を改め新堀座となっていたが、義理の甥の八代目権之助に座元の任は重く、すぐに経営難に陥って團十郎に泣きついたのである。

團十郎は結局新堀座の座元を兼ねて借財を背負わなければならなかった。
だが、1876年(明治9年)に十二代目 守田勘彌に招かれて新富座に出勤した頃からようやく芸が伸び始める

負債の埋め合わせのために地方回りをすることもたびたびあった。
1877年(明治10年)に西南戦争が起こるとそれを題材とした『西南雲晴朝東風』で西郷隆盛を演じ、大当たりした。

文明開化の時代にあって、明治19年に学者や政治家が集まった演劇改良会による演劇改良運動が起こり、従来の荒唐無稽な歌舞伎への反省から歌舞伎の革新を志し、団十郎も学術関係者や文化人と組んで時代考証を重視した演劇に取り組んだ。

海外の演劇事情を知るため、欧米視察も考えた。
これがやがて「活歴」と呼ばれるようになる一連の演目を世に出すことになった。
しかし観客の支持は得られず、興行的には散々だった。
それ以降は古典作品の型の整備に取り組んだ。

1887年(明治20年)には演劇改良運動の一環として、明治天皇の御前で初の天覧歌舞伎を催すという栄誉に浴し、『勧進帳』の弁慶などを勤めた。
この天覧歌舞伎は外務大臣・井上馨邸で開催されたが、九代目は井上のほかにも演劇改良会を通じて伊藤博文や松方正義などの元老とも交流を持ち、歌舞伎俳優の社会的地位の向上につとめた。

1889年(明治22年)、歌舞伎座が開場、先任者の守田勘彌は座頭に九代目を招いた。
ここでも活歴を演じたたため客足が伸びず、おっぺけぺー節で一世を風靡していた川上音次郎の一座が歌舞伎座を使うこととなり、九代目は明治座に退いた。

音二郎一座が海外公演に出たのち再び歌舞伎座に招かれた際には、川上に汚された舞台に鉋をかけることを要求したという。
活歴を諦め再び歌舞伎に立ち戻った九代目は1893年(明治26年)に『勧進帳』で人気を回復。

この頃から九代目は五代目 尾上菊五郎・初代 市川左團次らとともに東京の劇界を盛り上げ、「團菊左」と呼ばれる明治歌舞伎の黄金時代を築いた

またこの時期に作者・河竹黙阿弥を得て『北条九代名家功』(高時)、『極付幡随長兵衛』(湯殿の長兵衛)、『天衣紛上野初花』(河内山)、『船弁慶』、『大森彦七』などを完成し、また福地桜痴と組んで『春興鏡獅子』『侠客春雨傘』などを創り上げるなど、数多くの名作を残した。

また父・七代目の撰した「歌舞伎十八番」18種を補足するかたちで、自らの得意芸を多く盛り込んだ「新歌舞伎十八番」32~40種も撰している。

晩年は『娘道成寺』の白拍子花子をオルガンやバイオリンの伴奏で勤めたりして、最後まで新しい歌舞伎を追求していた。
後進の指導にもあたり、十五代目 市村羽左衛門、五代目 中村歌右衛門、初代 中村鴈治郎、七代目 松本幸四郎、六代目 尾上菊五郎、初代 中村吉右衛門などの有望な若手を育てた。

 

家族と後継者

九代目は、明治歌舞伎の頂点にあって「劇聖」とまで謳われ、その存在はそれ自体が歌舞伎を体現するほど神格化されたものだったが、自らの後継者となると最後まで恵まれず、そして悩まされた。

男子だけでも5男を儲けた子福者の父・七代目とは対照的に、九代目が授かったのは2女のみだった。
そこで九代目は門人ながら早くから「天才」と呼ばれてその資質を見せていた五代目市川新蔵を養子とし、これを手塩にかけて育成して成田屋のお家芸を伝えていた。
新蔵もその期待に応えて芸を伸ばし、自然周囲からも「いずれは十代目團十郎」と期待されるようになっていった。

九代目が二人の娘に結婚を急がさず、むしろ梨園の外の知識人と自由に恋愛することを推奨するという、当時としては仰天するほど進歩的な考え方を持っていたのも、この新蔵が控えていてくれたからに他ならなかった。

ところが1897年(明治30年)、その新蔵が37歳で急死するという痛恨事に見舞われる。
眼病で片目を失明、眼帯をかけながら舞台を務めていたが、病状は快方に向かうことなく力尽きてしまったのである。
九代目の落胆ぶりは並大抵ではなかった。

それでもあえて長女の二代目 市川翠扇には恋愛結婚を許した。
日本橋の商家に生れ、慶應義塾に学び、日本通商銀行に就職した稲延福三郎というサラリーマンである。
しかもこれを婿養子に取るとまでいう。

福三郎は一介の銀行員だったが、その父はやがて東京市会議員になるほどの地元の名士で、福三郎の陽性な性格の中にもそうした育ちの良さが感じられた。
しかもなかなかの勉強家で、書画骨董の素養もあり、話題に豊富な文化人だった。
そしてなによりも、長女の良き伴侶として文句の付けようがない夫だった。

稲延福三郎が堀越福三郎として市川宗家に婿養子に入った2年後、團十郎はついに後継者の件についてはなんら手を打つことなく、静かにこの世を去った。


出典: 「市川團十郎 (9代目)」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

上のクリップを聴いてみれば分かるけれど、噺の中では若い権十郎はかなりの人気者なのです。。。でもねぇ~、上の説明にも書いてあるけれど、当時の権十郎は決してうまい役者ではなかったのですよ。。。

どのようなお噺なのでござ~ますか?

次のようなあらすじです。。。

落語のあらすじ

 


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江戸時代においては芝居(歌舞伎)は庶民の娯楽であったから、観るのは町人と職人が大半で、武士は大手を振って芝居小屋へ通うことは出来なかった。
しかも10年程前に、見物していた武士が主殺しの役を演じた役者に逆上して斬り掛かる事件があり、大小(刀)を芝居茶屋に預けることが義務付けられ、同時に武士の鑑識眼は馬鹿にされた。

江戸の町奉行の組与力を勤める藤崎与一郎は大の芝居好きで、母と下女との3人暮らしをしている21歳の下級武士である。

「お前、明日は芝居見物だそうね。でも、あなたの嫌いな権十郎の舞台なんでしょう?」と、母が怪訝そうに訊くと、「ええ、河原崎権十郎(山崎屋)は下手くそな役者で大嫌いなんですが、他の出演者が豪華なので見逃せないのです」、「でも、権十郎は若い人を中心に大変な人気者なんでしょう?」、「彼らは観る目がないんですよ」と、母子が話をしているところへ、同輩で無二の親友の寺井が訪ねて来た。

「明日、講武所で剣術の試合があるんだ。尊王攘夷と世の中が騒がしい折から、君も顔を出しておいた方がいいんではないか?」、「ありがとう、だが、明日はどうしても芝居を観に行きたいんだ。よろしく言っておいてくれ」と、藤崎の気持ちは変わらなかった。

翌日、芝居茶屋へ着くと顔馴染みの女将が枡席へ案内してくれた。
商家の夫婦、職人2名らの6人との相席で7人が入った枡席。幕が開いた。

商家の夫婦は「待ってましたッ、山崎屋ッ!」、「権ちゃんッ!」と声援を送る。
場内からも「山崎屋ッ!」の掛け声があちこちから掛かる。
人気度は随一で相席の6人も皆、権十郎のファンであった。

藤崎は苦虫を噛み潰すような顔をして、「相変わらず下手くそだな権十郎は、この大根役者!」と思わず口走った

これを聞いた商家の夫婦が咎めて来た。
「権十郎のどこが下手くそなのです?」、「素人芝居だよ、あいつの演技は」、「わざと素人っぽく演じているのよ」と、応酬が続く。

同席の職人が「うるさいね、あんたも役者へ斬り掛かった侍と同類かね?」と、仲裁というより藤崎を揶揄し、夫婦の味方をした

藤崎は怒り心頭に発したが無礼討ちも出来ず、ぐっと我慢をした。
茶屋の若い衆が気を利かして藤崎を別席へ連れて行き、場は収まった。

刀を受け取って芝居小屋を出た後、藤崎はいつもの鰻屋へ入り、鬱憤晴らしに酒を飲み始めた。
芝居見物のお定まりのコースで、例の4人組も後から入って来て、藤崎を見てひそひそ話や含み笑いをしながら食事を始めた。
藤崎は自分が馬鹿にされているのを感じ、酒の勢いもあって殺意を抱いた。

先に店を出て、待ち伏せした。雨が降り始めていた。
やがて4人が通り掛り、藤崎は夫婦を斬り殺し、職人2人は逃げて行った。

酔いが覚めて後悔した藤崎は母に全てを打ち明け、切腹しようとした。
母はこれを止め、組頭に相談することにした。

組頭は「成り行きをみよう」という裁断を下した。
職人の証言で、芝居好きの腕の立つ侍という線で捜査が行われたが、芝居茶屋の女将が「まったく知らない一見(いちげん)さんでした」と嘘の証言をしてくれたこともあって、奉行所は通りすがりの正体不明の辻斬りと断定し、捜査は終わった。

寺井が訪ねて来て、「犯人はお前だろう?」と言う。
藤崎はこれを認めて経緯を話し、「今後一切、芝居と酒を断つ」と約束した。
文久2年のことでした。

6年後の明治元年、明治新政府(官軍)と彰義隊(徳川家側)が東京・上野の寛永寺一帯で対峙した。
藤崎も寺井も彰義隊に加わっていた。

いよいよ明日は決戦という夜、藤崎の姿が見えない。
「逃げ出したか?」と、同志は言うが、寺井には分かっていた。
深夜に柵を乗り越えて藤崎は帰って来た。

寺井が出迎えると、「この世の名残に芝居を観に行っていた。権十郎が見違えるほど実に上手くなっていたのには驚かされた。あの夫婦の鑑識眼の方が高かったのだ。恥じると共に改めて申し訳ないと思っている」と打ち明ける。

翌日、戦いの火ぶたは切られた。
藤崎は大向こうから「待ってました、藤崎屋ッ!」という掛け声を聞いたような思いで敵陣へ斬り込み、討ち死にした。
懐にはお経本の代りに芝居の番付を抱いていた。

権十郎は後の日本一の大看板、九代目市川團十郎である。

 

こういうあらすじなのですよ。。。

どうして若い頃の権十郎が まるでアイドルのような人気者に仕立て上げたのでしょうか?

そうしないと噺が面白くならないからでしょう! 権十郎の芝居を見て多くの観客から「大根役者!」という掛け声がかかったとしたら、この落語の話にはならなかったのですよ。。。

でも実際の権十郎は、むしろ大根役者だったのでござ~ますかァ?

そうですよ。。。歴史的事実としては、上のウィキペディアに書いてあるとおりだったと僕は思います。。。でもねぇ~、大根役者として落語に登場させたのでは、この噺にはならないでしょう!?

。。。で、当時のお芝居は昼間だけだったのでござ~ますか?

そうだったのです。。。現在では夜、芝居見物するのが当たり前だけれど、当時は昼間だけだった。。。

どうしてでござ~ますか?

電気がなかったし、色々と不便なことがあったのでしょう。。。

でも、昼間働いている庶民にとっては、観に行けないでしょう!

あのねぇ~、貧乏人の庶民は、観に行けなかった。。。観に行けたとしても、せいぜい立ち見席だった。。。なぜならチケットが高かったのですよ。。。

 

■江戸時代の歌舞伎チケット代

 

四世鶴屋南北が活躍した、文化・文政期、おおよそ以下の通りです。
交換相場は、金1両=銀60匁=銭4000文とします。1両=8万円で計算。

 


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・ 上桟敷席(最上等席=二階などの特別席)が、銀35匁(47000円)

・ 下桟敷席(別名、鶉桟敷席=一階の舞台正面席)が、銀25匁(33000円)

・ 高土間席(1等席)が、銀20匁(27000円)

・ 平土間席(2等席)が、銀15匁(20000円)

・ 切り落とし席(3等席=立ち見)が、銭132文(2640円)。

切り落とし席は、土間の枡席のことで、ひとマスに7人詰め込まれた。

今と違って、正面の枡席の方が左右の席より安かった。
またこれだけのチケット代が掛かるので、女性は着物も新調し髪も結い直して前の晩から準備、一大行楽になった。


出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 (以下同様)

 

だから、裕福な人か、よほどの芝居好きでない限り歌舞伎を観にはゆかなかった。。。

確かに、今でも歌舞伎座にお芝居を観にゆくのは、よほどの芝居好きですわよねぇ~。。。

それに、今と違って余計にお金がかかる。。。

それは、どう言うわけでござますかァ~?

普通、芝居茶屋を通して劇場に入ったからですよ。。。

 

■芝居茶屋

 

江戸時代の芝居小屋に専属するかたちで観客の食事や飲み物をまかない、チケットの手配、小屋への案内、幕間の休憩所、終演後の食事歓談。通常は、そこを通して劇場に入った。

芝居小屋からは目と鼻の先にあった。

大茶屋、小茶屋が有り、小茶屋のなかには、出方と言って接客用の店構えのない仕出し専門のものもあり、こうした茶屋では出方とよばれる接客業者を専属で抱えていた。

出方は訪れた観客を座席まで案内したり、仕出し茶屋でこしらえた小料理・弁当・酒の肴などを座席に運んだりした。

落語「鍋草履」に出てくる料理持ちが出方である。

その経営者や使用人のなかからは、後代に大名跡となる歌舞伎役者も生まれた。
その代表的な役者は、八代目市村羽左衛門、四代目市川團十郎、初代尾上菊五郎、六代目市川團十郎、五代目澤村宗十郎、初代實川延若、初代市川右團次、三代目澤村田之助、二代目河原崎権十郎、五代目中村時蔵等がいる。

 

茶屋代を払ったり世話人にはチップをやらなかればならない。。。チェケット代金だけでは済まない。。。弁当代や酒代も払わねばならない。。。もちろん、弁当代や酒代は現在でも自腹だけれど。。。

なるほどォ~、ずいぶんとお金がかかるのですわねぇ~。。。

とにかく、芝居を見にゆくには5時頃に起きて、6時には茶屋に入って、それから7時には芝居が始まり、5時に終わったとして、それから茶屋で食事をしながら芝居の話で盛り上がる。。。家に帰るのは8時から9時ですよ。。。丸一日がかりの芝居見物です。。。

映画も、テレビも、野球も、プロレスもない。。。スマホも、ネットもなかった頃ですから、芝居見物は相撲と並んで一大娯楽だったのでしょうねぇ~。。。

そういうことです。。。

ところで、見物していた武士が主殺しの役を演じた役者に逆上して斬り掛かる事件があり、大小(刀)を芝居茶屋に預けることが義務付けられたようですけれど、どう言う事件だったのでござ~ますかァ~?

次のような事件だったのです。。。

 

■武士の刀傷事件

 


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斬り捨て御免は正当防衛的な行為と認識されていた。
しかし、それはあくまで建前であり、喧嘩による斬り捨て御免も「無礼討ち」として処理されていた。

あくまでも正当防衛の一環であると認識されているため、結果的に相手が死ぬことはあっても、とどめを刺さないのが通例である。
また無礼な行為とそれに対する切捨御免は連続している必要があり、以前行われた無礼を蒸し返しての切捨御免は処罰の対象となった。

無礼討ちには、武士に対する名誉侵害の回復という要素と、その生命を脅かす攻撃から自身の身を守る正当防衛の要素が含まれていた。

幕府直轄地である江戸で町民に危害を加えた場合は、江戸幕府への反逆行為とみなされる恐れがあった。
このため諸藩は江戸在勤者に対し、直接切捨御免には言及していないものの、「町民と諍いを起こさずにくれぐれも自重すべき」旨の訓令をたびたび発した記録が残っている。

このため、簡単には斬れない事情を知っていた町民の中には、粋をてらったり、度胸試しのために故意に武士を挑発する言動をする者もいたという。

そのようなトラブルを避けるために江戸中期以降にはこのような芝居小屋・銭湯・遊廓などの大抵の公共施設では刀を預ける刀架所が下足所の横に設けられた。

この噺のように、激高して舞台に飛び上がって役者へ斬り掛かった侍は、明らかに自身への正当防衛でも無く、名誉毀損でも無く、身柄を拘束されていて、江戸市中で起こったことなので、厳しく処罰された。

実際の話は、安政4年(1857)4月14日、肥後細川藩士の小倉力次郎が、浅草・猿若町の森田座で観劇中興奮して舞台へ飛び上がった

この時の出し物は鶴屋南北作「天竺徳兵衛韓噺(てんじくとくべい いこくばなし)」で、市川市蔵が天竺徳兵衛に扮し、母親を殺害するシーンで起こった。

どんな名演技で有ったか、勤番侍の力次郎、芝居であることを忘れて徳兵衛に切りつけてしまった。
幸い市蔵は浅傷だったが、止めに入った裏方2人が重傷を負って大騒ぎ、直ぐ人を走らせたので、北町奉行所から与力服部孫九郎が出役、暴れる力次郎に縄を打った。
召し捕った藩士はどう処分されたかというと、重罪は幕府法で処罰して、その旨を所属藩へ通知する。

しかし、軽罪は所属藩へ身柄を渡して処罰させる。
小倉力次郎は乱心と言うことで、特に内済(和解)にしたようである。

 

いくら名演技でもあれ、芝居であることを忘れて役者に飛びかかるなんて、狂人と思われても仕方がありませんわねぇ~。。。

乱心したとあるので、やはり、狂人扱いになって和解したのですよ。。。肥後細川藩に帰った小倉力次郎が、その後どうなったのか? 調べてみたけれど、ネットで調べてもその後のことはどこにも書いてない。。。おそらく、切腹は免(まぬが)れても、狂人扱いになって座敷牢で一生を終えたのかもしれません。。。

落語の噺の藤崎与一郎も、ちょっと異常ですわよねぇ~。。。いくらムカついたからと言って、意見が対立したご夫婦を斬り殺すことはないと思うのでござ~ますわァ~。。。

「無礼討ち」がまかり通っていた時代ですからねぇ~。。。そういう事件も実際にあったのですよ。。。辻斬りや試し切りが行われていたのだから。。。

今の時代は、江戸時代から比べると、ずいぶんとマシな時代になったものですわねぇ~。。。

でもねぇ~、いつの時代にも狂気に走る人はいるものですよ。。。

あらっ。。。現代にもそういう人がおりますかァ~?

鉄砲を自作して安倍晋三元首相を撃ち殺した山上徹也容疑者がいるではありませんかァ~! 江戸時代の侍でも、こういう事件は夢にも思いつかないものですよ。。。

 


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でも、安倍晋三元首相は役者ではござ~ませんわァ~。。。

山上容疑者の目から見たら、憎き大根役者だったのですよ。。。

そうかしら。。。?

山上容疑者に訊いてみないとわかりませんけどねぇ~。。。

ところで、明治元年、明治新政府(官軍)と彰義隊(徳川家側)が東京・上野の寛永寺一帯で対峙した時に藤崎与一郎は友人の寺井と共に彰義隊に加わっていたということですけれど、相手の官軍の志士たちは歌舞伎を見に出かけたのでござ〜ましょうか?

そんな暇はなかったでしょう。。。当時は、明治維新を目前にして幕末の事件続きでしたからねぇ〜、江戸に出てきた志士たちは目明しや同心の目から逃げ回っていたのですよ。。。芝居小屋などの人目のつくところに出てゆくはずがないのです。。。ちなみに、当時の志士たちが写っている写真が残っています。。。

 


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『拡大する』

 

この写真は写真家の上野彦馬が慶応元年(1865年)に撮影したものです。。。

あらっ。。。そうそうたる幕末の志士たちが写ってますわねぇ〜。。。

この志士たちの殆どは田舎の下級武士たちですよ。。。当時の歌舞伎の入場料は高かった。。。歌舞伎を見るどころではなかったでしょう。。。

赤枠で囲んであるのは上野公園に銅像がある西郷さんではござ〜ませんかア!

 


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銅像のお顔は、写真とは全く似てませんわねぇ〜。。。

この銅像が完成したとき、未亡人になった奥さんが見て「うちの人は こげんな顔はしておらんかった」と言ったそうですよ。。。

この銅像の作者は写真を見なかったのでござ〜ますかァ?

弟の西郷従道の顔を参考にして作ったそうです。。。

 


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確かに弟の西郷従道によく似ていますわ。。。

 


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【ジューンの独り言】


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ですってぇ~。。。

確かに、名演技を観たとしても、まるで現実に起きていることだと錯覚して役者を斬りつけるなんて、ちょっと考えられませんわよねぇ~。。。

あなたは、テレビでドラマを見て、嫌な役者にムカついて、役者に殴りかからずとも、テレビをぶっ壊したことがありますかァ~?

ええっ。。。「そんな事は、どうでもいいから、もっと他に面白い話をしろ!」

あなたは、そのような強い口調で あたくしに ご命令なさるのですかァ~?

分かりましたわァ。。。。

では、あなたもビックリするような

忠臣蔵のとっても古い映画をご覧くださいまし。。。

なんと。。。昭和3年(1928年)制作の『忠臣蔵』ですわよう!

無声映画ですけれど、弁士の方がなかなかうまい説明をしてくださいますわ。。。

つい、引き込まれて観てしまうのですわ。。。

浅野内匠頭がどうしてヘマをしでかしたのか?

そのへんのところが詳しく映像に残っております。

観るだけの値打ちがありますわ。。。

では、どうぞ。。。

 

 

ところで、どうして小百合さんが

「軽井沢タリアセン夫人」と呼ばれるのか?

 


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あなたは ご存知ですかァ?

実は簡単な事なのですわよう。

小百合さんは軽井沢に別荘を持ったのですわ。

小さな頃から軽井沢に住むことが夢だったのですってぇ~。。。

分からない事ではござ~ませんわァ。

そもそも小百合さんが軽井沢に興味を持ったのは、朝吹登水子のエッセーなどを読んだことがきっかけだったとか。。。

現在、朝吹登水子の山荘、睡鳩荘(すいきゅうそう)は軽井沢タリアセンに移築されて公開されています。


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それで、小百合さんは軽井沢タリアセンを訪れては睡鳩荘に足を運んで少女の頃の事を思い出すのが楽しみなんですってよ。

そういう訳で、デンマンさんが小百合さんのことを「軽井沢タリアセン夫人」と呼ぶようになったのですわ。

軽井沢・雲場池の紅葉

軽井沢のイルミネーション

秋の旧軽井沢銀座ぶらり散歩

とにかく、明日もデンマンさんが興味深い記事を書くと思いますわ。
だから、あなたも、お暇なら、また読みに戻ってきてくださいまし。
じゃあねぇ~~。


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ところで、平成の紫式部こと、卑弥子さんは見かけによらず、京都の女子大学で腐女子に「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授という肩書きを持っています。

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『ハマガソ』

『歴史ロマン@バンコク』

『平安のキス』

『大久保独裁政権』

『愛情ゲットの呪術』

『源氏物語とおばさん』

『たこつぼ探し』

『光源氏の弟』

『勝負服』

『大伴家持の野心』

『そこが天才の偉いとこか?』


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『生パンツカテゴリー』

『大衆文学』

『車中も亦臭し』

『聖徳太子の母親』

『笑える電報』

『忠臣蔵のウソ』

『天照大神@マレーシア』

『エロ@韓国』

『レオタード姿@女子大』

『美人と接吻』

『パンツに下痢』

『阿仏尼』

『楊貴妃@満州』

『ズロースを探して』

『四睡図』


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『レオタード姿』

『熟女のうずき』

『苫田郡香タ美』

『エロエロ』

『ハーレーダビッドソン』

『貂蝉(ちょうせん)』

『平成の卑弥子』

『北国方言』

『人妻』

『温泉で濡れ濡れ』

『痴漢バス』

『フォローしました』

『どこの応天門』

『浜野矩随』

『空白の150年』


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『150年の空白』

『愛情の呪術』

『美術芸術ヌード』

『あんどん かつどん』

『とろり人妻』

『キャドバリーチョコ』軽井沢タリアセン夫人の小百合さんが扮するゴディバ夫人 Sayuri
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小間物屋

 

小間物屋

 


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デンマンさん、。。。今日は小間物屋さんのお話でござ〜ますかァ~?


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そうです。。。卑弥子さんも小間物屋さんにはお世話になっているでしょう?

あたくしが、どういうわけで小間物屋さんにお世話になっているのでござ〜ますかァ〜?

卑弥子さん。。。惚(とぼ)けないでくださいよう。。。京都の卑弥子さんの家に一月に一度やって来る行商人の小間物屋さんに、最近、人気の張形(はりがた)を注文したでしょう!?

 


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いったい、いつ頃のお話をしているのでござ〜ますかァ〜? 行商人の小間物屋さんなんてぇ〜、江戸時代のお話ですわァ〜。。。あたくしの家には、そのような行商人などやってきませんわよう。。。それに、あたくしは張形など注文した覚えはござ〜ません。。。失礼しちゃうわああああァ〜!

 

張形

 


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鼈甲(べっこう)製の張形: 日本では江戸時代に大奥で使われていたとされる。
中が空洞になっており、湯に浸した綿を詰め、人肌に温めて利用したという。

 

記録に残る日本最古の張形は、飛鳥時代に遣唐使が持ち帰った青銅製の物が大和朝廷への献上品に含まれていたという記述があり、奈良時代に入ると動物の角などで作られた張り形が記録に登場している。

江戸時代に入ると木や陶器製の張り形が販売され一般にも使われ始めた。大
奥など男性禁制の場において奥女中が性的満足を得るために使用する例も見られた。

江戸時代には陰間もしくは衆道という男色の性文化が存在し、キリスト教的文化圏と違って肛門性愛に対するタブーが存在しなかったため、女性用だけでなく男性が自分の肛門に用いることもあった。
明治に入ると近代化を理由に取り締まり対象となり、多くの性具が没収され処分された。

売春そのものは禁止されていなかったために、性風俗店での使用を前提とした性具は幾度も取り締まられながらも生き残っていった。
しかし終戦を迎えた1948年の薬事法改正から厚生大臣の認可が必要となった。

そのためそれまで認可されていない性具は販売が不可能となった。
そこで業者は張形に顔を彫り込んで「こけし」もしくは「人形」として販売を行なうこととなった。

そのため日本の性具は人、もしくは動物の顔が造形されるようになった。
そのため形状の似ている「こけし」という名称が使用された。

また電動式のものは「マッサージ器」もしくは「可動人形」「玩具」として販売されている。
インターネットの発達にともない規制の少ない海外製品も個人で購入できるようになったために、現在では顔のあるものは減ってきており、「ジョークグッズ」の一種として扱われることが多い。

 

信仰の対象

日本では特に男性外性器の形のものをさすことが多い。
陽物崇拝では、子孫繁栄を願ったお守りとしても用いられた。
現在の日本でも、木製の巨大な男性器像が神社に祭られている場合がある。

たとえば神奈川県のかなまら祭は男根を模した神輿が練り歩く奇祭として知られ、毎年4月第一日曜日に行われている。
日本国外でもよく知られ、国内外から、梅毒やエイズの等の性病の難を避ける祈願で観光客を集めている

この他にも地域信仰で体の悪い所(手足や耳・鼻といった部分)を模した木製の奉納物を神社に収める風習も見られ、古代のアニミズムにその源流を見出す事ができる。
これらの人体の模造品は、その機能を霊的なものとしてシンボル化したり、または霊的な災い(祟り)による病気を代わりに引き受けてくれるものとして扱われた。


出典: 「張形」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

卑弥子さんは春風亭柳朝の『蛙茶番』という噺を聴いていたら、「張形」が出てきたので、何事も経験だからぜひ使ってみたいと言ったではありませんかァ〜!

 


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デンマンさんは、きっと いやらし夢でも見たのですわよう。。。あたくしは、そのような「おとなのおもちゃ」には興味がござ〜ませんわァ〜。。。つまり、今日は小間物屋さんが扱っている「張形」のお話ですかァ〜?

いや。。。「左甚五郎の張形」の話は、すでに記事に書きましたから、今日は別の話題です。。。

 


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『左甚五郎の張形』

 

実は、先日、三遊亭圓生さんの『小間物屋政談』を聴いたのですよ。。。

 


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小間物屋政談

 

京橋の小間物屋の主人である相良屋小四郎は、自らが売り物を背負って売り歩く、背負い行商人である

 


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ある時、少しばかり金が入ったので上方まで遠出して商いに出ようとするのだが、道中箱根山のあたりで腹の具合が悪くなったので、森の中へ入って用を足すことにする。

すると、どこからか助けを呼ぶ声が聞こえたので、声のする方へ行ってみると、樹木に肌襦袢一枚で縛り付けられている男を発見する。
なんでもその男は江戸一番の小間物屋の主人、若狭屋甚兵衛という者で、病の療養の旅の道中、追い剥ぎにあったためにこのような姿になったのだという。
事態を知った小四郎は自分の着替えの着物一式と少しばかりの銭、それともしお礼をいただけるのであればと自分の名前と住所を書いた紙を甚兵衛に渡し、別れた。

甚兵衛は小四郎にお礼を言いながら京橋へ帰ろうとするのだが、帰路で泊まった旅館にて病をこじらせ、急逝してしまう。
旅館の者はこの死体の身元を調べようとしたたところ、先程の小四郎の名前と住所が書かれた紙が出てきたため、遺体を小四郎のものだと勘違いしてしまい、また小四郎の着物を着てるばかりか、顔まで小四郎に瓜二つであるため、知らせを聞いて駆けつけた大家までもこの遺体を小四郎だと勘違いし、そのまま甚兵衛の遺体は小四郎だとして葬儀もあげられてしまう…

そして葬儀が終わって数週間がたったある日。
小四郎に留守を頼まれていた大家は小四郎の女房である、おトキに縁談を持ってくる。
というのも、おときは夫の死(?)により、未亡人となってしまったものの、まだ夫なき身になるのには若すぎると考えた結果であるため、おトキも納得をし、小四郎の遠戚に当たる三五郎なら店を守るのにも男性としてもいいということで三五郎との縁談をまとめてしまう。

しかし、婚礼を済ませ、すでに夫婦として過ごしているところに、死んだはずの小四郎が帰ってきてしまう。
最初、2人は幽霊が出たと大騒ぎするが、事態を聞いた大家が小四郎の幽霊と話をしたところ、小四郎の死体だと思っていた男性の遺体は若狭屋甚兵衛であり、それが小四郎だと勘違いされることとなった原因も説明され、ようやく間違いに気づく。

しかし、すでに二人は仲の良い夫婦として暮らしており、引き離すわけにはいかないということで大家は小四郎に本当に幽霊になることを勧める。
小四郎もこれには納得がいかないため、南町奉行・大岡越前の守(かみ)に訴えを出した。

 


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仮におトキをとり返せたとしても、元のようにやってゆくのは難しい。
なぜなら、三五郎と夫婦として暮らしたことを小四郎は良くは思っておらず、そういう引け目があるために、おトキも気まずい思いをするに違いなかった。

小四郎と三五郎は従兄弟同士でもあり、血を分けた者たちの争いを見るのもよろしくはないということで、お奉行様までも小四郎に死ぬことを勧める。

しかし、お奉行様の話はこれで終わりではなかった。
お奉行様が言うには、小四郎がこのような事件に巻き込まれたのは そもそもは山中で若狭屋甚兵衛を助けたためであり、その若狭屋もちょうど主人を失ったことで悩んでいるところであることから小四郎に、若狭屋の跡取りとなることを勧める。

思えば、相良屋は主人自らが売りに出なければならないような小さな小間物屋であるが、それに比べて若狭屋は奉公人は大勢いる。

 


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おまけに莫大な財産も有り、その上、器量の良い後妻・おトシがついてくるのだから小四郎にとってこれほど上手い話はない。

小四郎は迷わず若狭屋の新たな主人・若狭屋小四郎となる道を選び、「これだけの身代だけでなく、おまけでこんな綺麗な女と結ばせてくれたお奉行様への御恩は一生かかっても背負いきれません」と言う。

するとお奉行様は「なに。お前はもう大きな店の主人となったんだ。だから、もう背負う必要はない」と寛大な返しをするのであった。

 

大岡越前守が名裁きをするのですわねぇ〜。。。

そうなのですよ。。。

このような話が実際にあったのでございましょうかァ〜?

僕は似たような話があったと思うのですよ。。。でも、大岡越前がこの裁判を担当したというのは嘘です。。。

あらっ。。。大岡越前守はこの裁判に関わってないのでござ〜ますかァ〜?

関わってません。。。越前守の経歴を読んでみてください。。。

 

大岡忠相

 


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大岡 忠相(おおおか ただすけ)は、江戸時代中期の幕臣、大名。
大岡忠世家の当主で、西大平藩初代藩主。
生家は旗本大岡忠吉家で、父は美濃守大岡忠高、母は北条氏重の娘。

忠相の子孫は代々西大平藩を継ぎ、明治時代を迎えた。
大岡忠房家の第4代当主で、9代将軍徳川家重の御側御用人として幕政においても活躍した大岡忠光(後に岩槻藩主)とは遠い縁戚(忠相と忠光の父・忠利がはとこ)に当たり、忠相とも同族の誼を通じている。

 

人物

8代将軍・徳川吉宗が進めた享保の改革を町奉行として支え、江戸の市中行政に携わったほか、評定所一座に加わり、関東地方御用掛、奏者番、寺社奉行を務めた。
越前守だったことと『大岡政談』や時代劇での名奉行としてイメージを通じて、現代では大岡越前守または大岡越前守忠相公として知られている
通称は求馬、のち市十郎、忠右衛門。諱は忠義、のち忠相。

 

大岡政談

 


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江戸町奉行時代の裁判の見事さや、江戸の市中行政のほか地方御用を務め広く知名度があったことなどから、忠相が庶民の間で名奉行、人情味あふれる庶民の味方として認識され、庶民文化の興隆期であったことも重なり、同時代から後年にかけて創作「大岡政談」として写本や講談で人々に広がった。

「徳川天一坊」、「村井長庵」、「越後伝吉」、「畔倉重四郎」、「後藤半四郎」、「小間物屋彦兵衛」、「煙草屋喜八」、「縛られ地蔵」、「五貫裁き」、「三方一両損」などのエピソードがある。

これらは日本におけるサスペンス小説の原初的形態を示すものと言える。
忠相の没後から講釈師による原型が作られると、幕末から明治にかけて発展し、歌舞伎などの素材などに使われ、また現代にいたってもTVドラマ化されている。

史学的検証では、数ある物語のうち忠相が町奉行時代に実際に裁いたのは享保12年(1727年)の「白子屋お熊事件」のみであることが指摘されている。

 


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『白子屋お熊事件』

 

現代に「大岡裁き」として伝えられているものの多くは、関東郡代や忠相の同僚である北町奉行・中山時春の裁定したもの(「直助・権兵衛」)や忠相没後の事件も含まれている。

また尾佐竹猛は、旧約聖書の列王記にあるソロモン王の英知として、互いに実子と主張し1人の子を取り合う2人の母親に対する調停の伝承など、聖書などに記される裁判物語がイスラム圏を経由し、北宋の名判官包拯の故事(「縛られ地蔵」と同様の逸話)になった後、エピソードに翻案され含まれたとする説を提唱。

永禄3年(1560年)に、豊後でイエズス会の宣教師がクリスマスにソロモン裁判劇を行なったという記録もあり、木村毅は『比較文学新視界』「ソロモン裁判と大岡政談」(昭和50年(1975年))でチベットの伝説や釈尊(釈迦)の伝説が日本のキリシタンの影響で紛れ込んだとする。

中東系(インド系では釈迦前世物語)では、実子を取り合う母親のうち一人は人食い鬼としている。

通常、大岡は庶民の味方、正義の武士として物語に登場する。
だが、学習院大学名誉教授の大石慎三郎は、大岡に関する伝記史料として信ずるに足りるのは『大岡忠相日記』がほとんど唯一のものである、とする。
この日記は、私生活を記したいわゆる日記ではなく、公人としての忠相の職務日録であり、行政官僚としての町奉行を活写しており、大岡政談とほとんど関係ないことが示されている。

しかし、町火消し制度の創設や小石川養生所の設置などの事例に「政治家はかくあるべし」という江戸庶民の願望が仮託されて、「政談」に結晶されたという見方もされている。


出典: 「大岡忠相」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

『小間物屋政談』の面白いところは、若狭屋甚兵衛が、病の療養の旅の道中、追い剥ぎにあって困っているところを 小四郎は自分の着替えの着物一式と一両を与えたのです。。。つまり、情けをかけてやった。。。「情けは人の為ならず」という格言を、「情けをかけると、それはかえって人のためにも、自分のためにもならないから、情けをかけるべきではない」と考えている人が結構いるけれど、この話の前半は、その具体例なのですよ。。。情けをかけたために、結果として、小四郎は死人と間違えられて、大家さんが早とちりをして、小四郎の妻のおトキは三五郎と再婚することになってしまった。

そうですわねぇ〜。。。情けをかけたことが災難と不幸をもたらしたのですわァ〜。。。

 


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でも、実は、「情けは人の為ならず」という格言は、「情けをかけると、その情けは回り回って自分が困っている時に、誰かが自分に情けをかけてくれることになる」というのが本当の意味なのですよ。。。

『小間物屋政談』の後半では、小四郎は大家さんにも、お奉行さんにも死ぬことを勧められるのですわねぇ〜。。。

そうです。。。誰が考えても、小四郎さんはふんだり蹴ったりの情けない境遇になってしまう。。。ところが、最後の場面で、大岡越前守が名裁きをする。。。

小四郎がこのような事件に巻き込まれたのは そもそもは山中で若狭屋甚兵衛を助けたためであり、その若狭屋もちょうど主人を失ったことで悩んでいるところであることから小四郎に、若狭屋の跡取りとなることを勧めたのですわねぇ〜。。。

そういうことです。。。小四郎が情けをかけたことで、妻のおトキを失ったとは言うものの、3万両の身代と26歳の美貌のおトシと新しい生活を始めることになったというわけです。。。つまり、「情けは人の為ならず」という格言は、前半では説得力がないけれど、後半で誰もが納得できるエピソードとして、この噺が終わるのですよ。。。

 


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【ジューンの独り言】


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ですってぇ~。。。

あなたも、情けをかけると損したような気持ちになりますけれど、迷わず人には情けをかけるようにしてくださいねぇ。。。

ええっ。。。「そんなことは、どうでもいいから、何か他に面白い話をしろ!」

貴方が、そう言うのであれば、デンマンさんがピンタレストで「ランジェリー 下着」のページを立ち上げました。。。

覗いてみてください。。。男性ならば、ムンムン、ムレムレになって元気をだしてください。。。

女性であれば、若い頃を思い出して、若やいだ気分になってくださいねぇ~。。。

 


(shitagi23-06-30.jpg)


『拡大する』

『実際のページ』

 

ええっ。。。「そんなことは、どうでもいいから、何か他に面白い話をしろ!」

貴方は、そのようなムカついた口調で 更に、あたくしに御命令するのですかァ~?

分かりましたわァ~。。。

じゃあ、ショッキングなニュースでもお伝えします。。。

かつて「セサミストリート」で子どもたちに慕われていた人気者のビル・コスビーは、芸能界では幅を利(き)かせて大きな“権力”を握り、百人近い女性に対してセックスを迫ったのです。。。

 

 

子どもたちに性的ないたずらをしなかったことが せめてもの罪ほろぼしですわァ~。。。

ええっ。。。「そんな事は、どうでもいいから、もっと他に面白い話をしろ!」

あなたは、そのような強い口調で 更に あたくしに ご命令なさるのですかァ~?

分かりましたわァ。。。。

では、あなたもビックリするような

忠臣蔵のとっても古い映画をご覧くださいまし。。。

なんと。。。昭和3年(1928年)制作の『忠臣蔵』ですわよう!

無声映画ですけれど、弁士の方がなかなかうまい説明をしてくださいますわ。。。

つい、引き込まれて観てしまうのですわ。。。

浅野内匠頭(あさの たくみのかみ)がどうしてヘマをしでかしたのか?

そのへんのところが詳しく映像に残っております。

観るだけの値打ちがありますわ。。。

では、どうぞ。。。

 

 

ところで、どうして小百合さんが

「軽井沢タリアセン夫人」と呼ばれるのか?

 


(sayuri5.gif)

 

あなたは ご存知ですかァ?

実は簡単な事なのですわよう。

小百合さんは軽井沢に別荘を持ったのですわ。

小さな頃から軽井沢に住むことが夢だったのですってぇ~。。。

分からない事ではござ~ませんわァ。

そもそも小百合さんが軽井沢に興味を持ったのは、朝吹登水子のエッセーなどを読んだことがきっかけだったとか。。。

現在、朝吹登水子の山荘、睡鳩荘(すいきゅうそう)は軽井沢タリアセンに移築されて公開されています。


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それで、小百合さんは軽井沢タリアセンを訪れては睡鳩荘に足を運んで少女の頃の事を思い出すのが楽しみなんですってよ。

そういう訳で、デンマンさんが小百合さんのことを「軽井沢タリアセン夫人」と呼ぶようになったのですわ。

軽井沢・雲場池の紅葉

軽井沢のイルミネーション

秋の旧軽井沢銀座ぶらり散歩

とにかく、明日もデンマンさんが興味深い記事を書くと思いますわ。
だから、あなたも、お暇なら、また読みに戻ってきてくださいまし。
じゃあねぇ~~。


(hand.gif)

メチャ面白い、

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ところで、平成の紫式部こと、卑弥子さんは見かけによらず、京都の女子大学で腐女子に「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授という肩書きを持っています。

卑弥子さんの面白い話をもっと読みたい人は
下のリンクをクリックして読んでみてくださいね。


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女帝の業(ごう)

女帝の業(ごう)

 

防人の歌碑の前に立つ小百合さん

 

投稿日時: 2008/09/22 03:58 (ロンドン時間)
日本時間: 9月22日 午前11時58分
バンクーバー時間: 9月21日 午後7時58分

防人の歌碑のところまで行って、
新しい道を探して 見つかった時の 新鮮さ。
長男や次男のこと、デンマンさんのことも
忘れて 自分だけのことで 走り回ってました。

■ 『ビバ! 白鳥の湖 (2008年6月15日)』
(防人の歌碑については上の記事を読んでみてね。)

“防人の歌”。。。懐かしいですねぇ~。

そうです。そうです。
あの防人の歌の歌碑も、小百合さんと一緒に見たいものですね。

 

日の暮れに

うすひの山を

越ゆる日は

背なのが袖も

さやに振らしつ

 

(巻第十四 東歌 三四〇二

詠み人知らず)

現代語訳:

日の暮れ時に、碓氷の山の峠を越える日に、我が夫が、別れの時に目につくほどはっきりと袖を振っていたわ。

(峠を越えて去ってゆく夫を慕う妻の心情を詠んでいる。)


 

ひなぐもり

うすひの坂を

越えしだに

妹が恋しく

忘らえぬかも

 

(巻第二十 四四〇七

他田部子磐前 [おさたべの子いわさき])

現代語訳:

ひなくもり(碓氷を導く枕詞)碓氷の坂を越える時は、国へ置いてきた妻のことが恋しくて忘れられない。

(碓氷峠越えの別れの恋歌。)


■ 『夢のホテル (2008年5月8日)』より

 

昭和25年ごろの手書きのマップを見つけ
コピーして 今大切に見てます。
大きくして額に入れようかな~ 

本当に 雲場池のところに ニュー グランドホテル
と書いてあった。 

 


(lodge25.jpg)


(lodge24.jpg)

&nbsp

1度見てみたい 竈岩(かまどいわ)
白人はジャイアントチェアー と呼んでいたらしい。
南のプリンススキー場の裏側なので 見たこと無いです
ごめん ごめん 私の事ばかり

うん、うん、うん。。。

小百合さんの事を、もっともっと書いてくれてもいいよう。

 

私 今月末と思ったら 10月末 よね。
ネットカフェ・コンコルドであわてて デンマンさんの旅程表を見たから勘違いしてました。

あと1ヶ月ですね。

まだ1ヶ月以上ありますよう。
でも、1ヶ月なんてすぐに経ってしまいますからね。

僕は1ヶ月分の記事を用意しなければならないので、
この1ヶ月間は大変です。

 

これ SUBMIT できるかな
何だか お気に入りが減ってるし、マウスはどっか
無くなってるし やりずらいなー

これが 現実の世界ですよ、今日も次男坊と喧嘩がはじまりそうー。

では 今日も洗たく 掃除…
今から始めます。

では、また。。。

小百合より

 

そうですよう。そうですよう。
軽井沢は、小百合さんにとって“今一つの世界”なのですよう。

日常茶飯事から開放されて、小百合さんの“夢とロマンの生活”を軽井沢に求めているのですよう。

つまり、それこそ小百合さんの“女の世界”です。
デンマンの“ロマンポルノ天国”と重なると思うのですよう!
うしししし。。。

行田で元気に再会しましょうね。
“恍惚のハグ”を楽しみにしていますよう!
じゃあね。

 


投稿日時: 2008/09/22 07:16 (ロンドン時間)
日本時間: 9月22日 午後3時16分
バンクーバー時間: 9月21日 午後11時16分

『帰省スレッド』より
ロンドンの“ビーバーランド e-XOOPS”

 

また、防人の歌でござ~♪~ますか?

そうですよう。防人に狩り出された人たちは苦労したのですよう。苦労どころか、3年こき使われて九州から関東平野まで歩いて帰ってくる途中で、追いはぎや山賊に襲われて亡くなってしまった人もたくさん居たのですよう。

つまり、上の歌は今生(こんじょう)のお別れの歌なのですか?

そうですよう。もう2度と会えないかもしれないと思いながら防人は九州に出かけて行ったのですよう。

。。。んで、大伴家持のおじ様は防人の世話をする役目についていた事があるのでござ~♪~ますか?

そうなのですよう。だから、防人の悲劇をたくさん見たのですよう。

。。。んで、万葉集にも防人の歌をたくさん載せて、大伴のおじ様は当時の政府の非情なやり方を後世に伝えようとしたのでござ~♪~ますか?

その通りですよう。

。。。んで、さらに、持統天皇の陰謀、柿本人麻呂の悲劇までも大伴のおじ様は万葉集の中に書き残そうとしたのでご~♪~ざますか?

そうなのですよう。万葉集をしっかりと読めば、そのような史実がちゃんと書いてあるのですよう。

でも、そのような事をあたくしは学校で教わりませんでしたわ。

それはそうでしょう。万葉集を歴史書だと教える先生は居ないでしょうからね。万葉集は「日本最古の歌集」だと先生は教えますよう。

でも、実は歴史書なのでござ~♪~ますか?

ちょっと次の書評を読んでみてください。クイズを持ち出してきて、全く関係ないじゃないか!。。。そう思わずに面白いから最後まで読んでみてくださいね。

 

欺瞞の根本原理

 

 

上の図を見てください。
O は円の中心、 AB の長さ 14センチ、 BC の長さ33センチという事だけ分かっている。この円の半径は何センチですか。
別にむつかしい計算は要りません。
30秒で答えてください。
もし30秒で答えられなかったら、考えるのをやめて、この小文を終わりまで読んでください。

 (中略)

手元にあったロースン (Clayton Rawson) の長編は Death from a Top Hat (1938)というので、この題名は手品師のシルクハットから兎や鳩が飛び出すように、「死」が飛び出したという意味。ディクスン・カーが褒めるはず、この作はカーの手品趣味をさらにいっそう極端にした徹底的な手品文学である。

 (中略)

その他、この小説にはオカルティズムと手品趣味が充満していて、手品小説愛好者をヘトヘトに堪能させてくれる。結末の種明かしそのものには非常な創意があるとは云えないが、そこまでの道程が面白いのである。カーですら極端だと思っていたのに、そのカーに輪をかけて極端な手品作家に接して、上には上があるものと、ほとんど呆れた次第である。

冒頭に記した謎の図も、マリーニー(主人公探偵)がこの図を描いて警部ともう一人の人物に示し、探偵学の一助とするのである。この図を示されると、誰でも一応は、図の半径 AO の内の AB の長さが分かっているのだから、残りの BO の長さを求めればよいと考える。 ところで、BOC という不等辺直角三角形の底辺 BC の長さは分かっているが、その他に何もデータがないのだから、これだけではどうしても BO の長さを算出する事ができない。これは不可能だ。とてもむつかしいと考える。そう考えたらおしまいである。まんまと手品師の術中に陥ったのである。

そんな考え方をしないで、BC を対角線とする矩形(くけい)を良く見ればよいのである。そして O から発して BC と相交わるもう一つの対角線を描いてみる。すると矩形に置ける二つの対角線の長さは相等しいのだから、O から円周に達する対角線の長さは即ちこの円の半径で、それは BC と同じく33センチなのである。

マリーニー名探偵は云う。
どうだい、答えはちゃんと君の目の前にさらけ出されていたじゃないか。君はそれを見なかったのだ。なぜかというと、AB という余計な太線があり、その長さを14センチと、何か意味ありげに示してあったので、その残りの細線の長ささえ算出すれば半径が分かると、ついその方に気をとられてしまうからだ。この「目くらまし」にかかって、君の論理は脇道にそれ、袋小路(ふくろこうじ)に突き当たってしまった。手品師がハンカチや時計を消して見せるトリックも全くこれと同じなんだよ。左手で何か細工をしようという時には、見物の注意を右手の方に集めるのだ。右手にその品を握っていると思わせるのだ。そして、見物の目が右手に集中されているひまに、易々(やすやす)と左手で物を隠してしまう。見物は全然左手なんか見てやしないんだからね。つまりこの図のAB線は手品師の右手に当たるわけだよ」

名探偵はさらに言う。
「観察力がうまく間違った方向に導かれると、どんな利巧な見物でもごまかされてしまう。これが欺瞞の根本原理だ。この原理は手品師ばかりではなく、賢い犯罪者と、それから探偵作家が常に用いている。だから、これさえ飲み込んでいれば、君は手品や犯罪や探偵小説に欺かれる心配はないわけだよ」


785-789ページ
江戸川乱歩全集 第30巻 「わが夢と真実」
光文社文庫 2005年6月20日 初版1刷発行


『愛と心の構造 (2008年9月28日)』より

 

このクイズが万葉集と大伴家持おじ様に関係あるのでござ~♪~ますか?

そうですよう。日本人の多くは万葉集が日本最古の歌集だと長い間、思い込まされてきたから、重要な歴史的事実を見逃してきたのですよう。

つまり、万葉集が“歌集”だと言うのは「目くらまし」なのでござ~♪~ますか?

そうですよう。そのようにしない限り、つまり、歌集として世に出さない限り、後世の我々に持統天皇の陰謀や柿本人麻呂の悲劇を伝える事ができなかったのですよう。

要するに、当時の藤原政権は、大伴家持のおじ様にまんまと騙されてしまったのでござ~♪~ますか?

そうですよう。“愛の歌、恋の歌がたくさん集められている女・子供が読むための歌集でございます”。。。このように言って、時の政府の文書検閲官を騙して出版したのですよう。

でも、実は歌で綴られた歴史書なのでござ~♪~ますか?

大伴家持は、そのつもりで編集したのですよう。万葉集の中には、名前が伏せてあるものや“読み人知らず”になっている歌がたくさんあるけれど、すでに見てきたように1073番の歌も柿本人麻呂が詠んだに違いない、と僕は見ているのですよう。

 

 

玉垂(たまだれ)の

小簾(をす)の間(ま)通し

ひとり居て

見る験(しるし)なき

夕月夜かも


詠み人知らず

万葉集 巻第七・1073

 

このような素晴しい月夜の晩に、

一人で簾の隙間から月を見ているが

ああ~、愛(いと)しいあの人は、

もうこの世の人ではない。

あのように儚(はかな)く

逝(い)ってしまうのであれば、

もう少し足しげく通って、

優しい言葉をかけてあげたかった。

でも、そうできない事情が

あったのだ。

今更嘆いたとて、どうなるものでもないが。。。

それでも、あの人を思い出すと

慟哭せずには居られない。

 


『万葉集の謎 (2008年9月23日)』より

 

分かりましたわ。。。んで、まだ他にも柿本人麻呂のおじ様が詠んだ歌で“名無し”として載せられている歌があるのでござ~♪~ますか?

ありますよう。次の長歌も柿本人麻呂が詠んだのですよう。『万葉集』の第一巻に「藤原宮御宇天皇代」の歌として載っているのですよう。

でも、それは「藤原宮の役民の作れる歌」と書いてありますわ。

それで、多くの人は騙されてしまったのですよう。

これも「目くらまし」でござ~♪~ますか?

そうですよう。とにかく、その長歌を読んでみてください。

 

 

やすみしし わが大君 高照らす 日の皇子

あらたへの 藤原が上に 食国を 見し給はむと

都宮は 高知らさむと 神ながら 思ほすなへに

天地も 寄りてありこそ 磐走り 淡路の国の

衣手の 田上山の 真木さく 檜のつまでを

もののふの 八十氏川に 玉藻なす

浮べ流せれ そを取ると 騒く御民も 家忘れ

身もたな知らず 鴨じもの 水に浮きゐて わが作る

日の御門に 知らぬ国 寄り巨勢道より わが国は

常世にならむ 図負へる 神しき亀も 新代と

いづみの河に 持ち越せる 真木のつまでを 百足らず

いかだに作り のぼすらむ 勤はく見れば 神ながらならし


万葉集 巻第一・50

 

持統八(694)年12月6日に都を藤原宮に移したのですよう。高市皇子が死去する2年前です。この長歌は、この藤原宮で働いている役人が詠んだ歌だと書いてある。

でも、柿本のおじ様が詠んだのでござ~♪~ますか?

そうなのですよう。僕一人だけが、そう信じているわけじゃないのですよう。多くの古典研究者や歴史研究者がこの長歌は人麻呂が詠んだ長歌に違いないと考えているのですよう。

この長歌は、当時の天皇・持統女帝に献呈された歌だと、あたくしは教わりましたわ。

学校の教科書には、そのように書いてあるのですよう。

でも、違うのでござ~♪~ますか?

もし、人麻呂が持統天皇のために詠(うた)ったのであれば、名前を出しても良いのですよう。

なぜ、柿本のおじ様の名前を出さなかったのでござ~♪~ますか?

なぜなら、人麻呂は持統天皇ではなく高市天皇のために詠(よ)んだからですよう。

しかし、高市天皇なんて日本史では認められていませんわ。

その通りですよう。持統天皇に暗殺されてしまったのだから。。。

まさか。。。?

それが僕の言う悲劇なのですよう。

しかし。。。しかし。。。そのような事は、あたくし、日本史で勉強しませんでしたわ。

だから、この史的事実は隠されてきたのですよう。それで、上の長歌も人麻呂が詠んだのだけれど、“藤原宮で働いている役人が詠んだ”と万葉集に書いたのですよう。

なぜでござ~♪~ますか。。。?

そのようにすれば、本当の真実を後世の人が分かってくれるだろうと考えて大伴家持は、そのように書いたのですよう。真実を書いたら、大伴家持の首が飛んでしまうから。。。

そうでしょうか?

だって、そうでしょう?上のような長歌を藤原宮で働いている役人が詠んだのですよう。本当に持統天皇のために詠んだものであれば、詠んだ人の名前を伏せる必要はないのですよう。しかし、その人の名前が書かれていない。不自然ですよう。これは臭い!。。。何か隠されているに違いない。。。僕はそう思いましたよう。

でも、ただそれだけでは、あたくし、納得できませんわ。

だったら、卑弥子さんが納得できるように、もっと詳しく説明しますよう。まず、ジューンさんが書いた次の文章を読んでみてください。

 

ある少女の悲劇

 

 

こんにちは。ジューンです。

今日は興味深い歴史のお話をします。

乙巳の変(いっしのへん)から

4年後の649年3月の事です。

当時、右大臣であった蘇我倉山田石川麻呂が

謀反を企てていると、石川麻呂の弟の日向が

中大兄皇子に告げ口したのが事件の始まりでした。

石川麻呂は当時の孝徳天皇に身の証をして

助けを求めたのですけれど、

聞き入れてもらえなかったのです。

中大兄皇子と石川麻呂は

政治的に意見が対立していたので

中大兄皇子はさっそく兵を

石川麻呂の邸宅に向かわせたのです。

危険を察した石川麻呂は

飛鳥の自宅である山田寺にすでに逃げていました。

しかし、その山田寺もやがて包囲され、

石川麻呂は観念して妻と共に自害したのです。

しかし、事件はそれだけではすみませんでした。

やがて陰謀が夫の中大兄皇子のしわざと知った

遠智娘(おちのいらつめ)は

半狂乱の状態になってしまったのです。

無実の罪を着せられて、夫に父親を殺された。

そう思い込んでいる遠智娘は、

身重な体を抱えながら

心が晴れないままに日を送ったのでした。

“父親殺害者”の子を宿していたのです。

その年の暮れに建皇子を生み、“この子を頼むわね”

そう言って満4才の女児に言い残して

20代半ばの短い人生に終わりを告げて

遠智娘は命を絶ってしまったのでした。

後に、中大兄皇子は

義理の父である石川麻呂の忠誠の心を知り、

死に追いやった事を後悔したそうです。

ところで、当時の結婚は“妻問い婚”が普通でした。

男性が女性宅を訪れ一夜の契りを結べば

それが結婚となり夫婦になるわけです。

男はその家にとどまることなく

自由に女の家を出て自分の家に帰り、

女は男のまたの訪問を待ちます。

子供が生まれればその子は妻の家で養育し、

父が子供に会うのは女性宅を訪れる時だけです。

その子供の養育費はすべて女性任せで、

子供は女性の実家で養育される事になります。

当然の事ですが、子供はたまに会う父よりも、

母方の祖父母への愛着が深くなります。

優しいおじいさんとおばあさんが一緒に亡くなり、

そのあとを追うようにお母さんが亡くなってしまった。

満4才の童女は、当時そのことは知らなくとも、

やがて自分の父親が祖父母と母の三人を

“殺した”と知ることになります。

可愛がってくれていた3人が死んでしまった。

しかも、父親の陰謀がその背景にあったのです。

その衝撃はトラウマになって、

その後の童女の人格形成に大きな影響を与えた事は

想像に難(かた)くありません。

その時の4才の女児こそ、後の持統天皇になる

讚良(さらら)皇女だったのです。

ところで、英語の面白いお話を集めました。

時間があったら覗いてみてくださいね。

■ 『あなたのための愉快で面白い英語』

では、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょうね。

じゃあね。

 


『女帝の憎悪 (2008年9月25日)』より

 

つまり、持統天皇は少女の頃に大変つらい思いをしてきたと。。。その事をデンマンさんは強調したいのでござ~♪~ますわね?

そうですよう。“血塗られた家系”という言葉があるけれど、この言葉は、まさに持統天皇のためにあるような言葉なのですよう。

それ程、血塗られているのでしょうか?

だって、そうでしょう?持統女帝の父親である中大兄皇子は乙巳の変(いっしのへん)では蘇我入鹿を殺しているのですよう.

 

 

板蓋宮(いたぶきのみや)における

暗殺の場

 

太刀を振り上げているのが中大兄皇子(後の天智天皇)、弓を手にしているのが中臣鎌足。
蘇我入鹿の首が飛んで御簾(みす)に喰らい付いている。

何食わぬ顔で、かぐや姫のように奥で澄まし込んでいるのが中大兄皇子の実の母親である、当時の皇極天皇(女帝)です。

蘇我入鹿と女帝は、男女の関係で結ばれていたのではないかと信じている歴史家もかなり居ます。
蘇我入鹿は女帝が助けてくれると思っていたのに助けてくれないので、
“この尼!”と追いかけるようにして首だけが御簾に喰らいついている、という怨念の込められた絵です。
ただし、これは江戸時代に描かれたもの。


■ 『藤原鎌足と六韜 (2003年7月17日)』より

 

確かにこれは、すごい事でござ~♪~ますわね。。。これだけでござ~♪~ますか?

まだありますよう。大津皇子を死に追いやったのも持統天皇ですよう。それで、持統天皇は次のような歌を詠んでいるのですよう。

 

 

春すぎて 夏来たるらし 白妙(しろたえ)の

 衣(ころも)ほしたり 天(あめ)の香具山

 

あの有名な歌でござ~♪~ますわね。

そうですよ。これを文字通りに解釈したら全く平凡で、つまらない歌ですよ。“もうすぐ夏になるのだなあああぁ~、香具山のふもとで農民が白妙を干しているから。。。” 初めてこの歌を読んだ時、僕はこの歌の素晴しさが全く分かりませんでしたよ。一体、何のために大伴家持は、この歌を『万葉集』に載せたのか?

今のデンマンさんには、大伴家持が上の持統天皇の歌を『万葉集』に載せた理由が分かるのですか?

分かります。上の歌は次のように解釈する事ができるのですよ。

 

春が過ぎて夏が来たようだ。

天の香具山に美しく真っ白な衣が

干してあるなあぁ~

でも、私の心はあの山の裏にある

磐余(いわれ)の池を見ているのです。

 

 

大津皇子が自害する前に池の端で

辞世の歌を読んだという。

自害の後で、皇子の妻であり、

私の腹違いの妹でもある山辺皇女が

髪を振り乱し、裸足で駆けて行き、

共に殉死したという。

痛ましいには違いない。

しかし私は、ああせねばならなかったのです。

怨霊になって私を憎んで

いるのかもしれないけれど、

私には他にとるべき道はなかったのです。

どうか、心安らかに眠っていて欲しい。


『愛と陰謀 (2008年2月27日)』より

 

上の歌を持統天皇は藤原京の宮殿から香具山を見て詠んだのです。

 

 

この地図で見れば分かるように、香具山の裏に磐余(いわれ)の池があるのですよ。この池の端で大津皇子は辞世の句を詠んだのです。現在では、ほとんどの歴史家が大津皇子は持統天皇の陰謀によって死なされたと見ています。

デンマンさんも、そう考えているのでござ~♪~ますか?

そうです。持統天皇は自分の子供、草壁皇子を天皇にしたかった。血のつながりがある甥の大津皇子が邪魔だったのですよう。結果として大津皇子の妻、持統天皇にとっては腹違いの妹も死に追いやったわけですよう。

それで、なぜ、持統天皇は上のような歌を詠んだのでござ~♪~ますか?

この当時は怨霊ということがマジで信じられていた。“怨霊の崇り”ということが現在で言えば“テポドンで攻撃を受ける”程度に怖い事として考えられていた。持統天皇だって、テポドンを宮殿に打ち込まれたくないので大津皇子の怨霊を鎮魂するために上の歌を詠んだのですよう。

つまり、持統天皇は自分の血がつながったものだけを天皇にしたかったのでござ~♪~ますか?

そうなのですよう。それは持統天皇にとって、悲劇的に死んでしまった亡き母親や、おじいちゃんや、おばちゃんの供養のためだったのでしょうね。

それ程、持統天皇は自分の血筋に、こだわっていたのでござ~♪~ますか?

そうなのですよう。持統天皇が藤原不比等と組んでやった事を見ると、その事が実に良く分かるのですよう。すでに、その事を僕は記事に書いたので、ここに引用します。

 

女の意地と執念

 

 

天平年間は、災害や疫病(天然痘)が多発したため、聖武天皇は仏教に深く帰依しました。
いわば、現代流に言うならば、極めて人間的な人だったと僕は思いますよ。
つまり、藤原4兄弟などの策謀が渦巻く中で、政治に嫌気がさしていたと思いますね。
“長屋王の崇り”も、“藤原氏の一員”として充分に感じていたでしょうね。

聖武天皇は741年には国分寺建立の詔を出します。
743年10月には、東大寺大仏の建立の詔を出しています。
また、度々遷都を行って災いから脱却しようとしたものの官民の反発が強く、最終的には平城京に復帰しました。
このような聖武天皇の行動を見ると、意志の弱さが見えますよね。優柔不断です。

また、藤原氏の重鎮が相次いで亡くなったため、国政は橘諸兄(光明皇后とは異父兄弟にあたる)が取り仕切りました。
結局、聖武天皇は政治に見切りを付けていたのですよね。
それで、出家したのでしょう。
その気持ちが分かるような気がします。

それに引き換え女性たちの意志の強さは驚くばかりです。
特に持統天皇の強烈な執着と執念が目を見張らせます。

 

 

持統天皇の相談役とも言える橘三千代がすごい人ですよね。
この人のもとの名は県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)です。
三千代は持統天皇がまだ天皇になる以前に彼女の女官として仕えていたのです。
持統天皇の孫の軽皇子(かるのみこ)の乳母(めのと)だった人です。
三千代は皇族の美努王(みのおう)と結婚して3人の子供をもうけています。
早くから女官として内裏に仕え、持統天皇の信頼を得ています。

藤原不比等は持統天皇、彼女の息子の草壁皇子、さらにその子の軽皇子(後の文武天皇)に仕えていました。
この関係で橘三千代と知り合い、持統天皇の皇統を守る同志として二人の絆が生まれたのです。
三千代は美努王(みのおう)と離婚していますが、すでに二人は三千代の離婚以前から深い関係になっていたようです。

 

 

美努王は三千代と離婚する以前、694年に九州の太宰帥(だざいのそち)として九州に赴任していますが、妻の三千代はこのとき夫に従ってゆかず、都にとどまって女官として仕え続けています。
この年の暮れには藤原京への遷都があり、新都の華やいだ雰囲気の中で藤原不比等と三千代の不倫関係が深まってゆきました。

藤原不比等は女性関係でも精力的で、この時期に天武天皇の未亡人である五百重娘(いおえのいらつめ)とも親密になっており、695年に二人の間に藤原不比等の四男・麻呂が生まれています。
ちなみに五百重娘の父親は藤原鎌足です。つまり、五百重娘は不比等の異母妹でした。

『続日本紀』によると、石上麻呂の息子の石上乙麻呂(おとまろ)が藤原不比等の三男・藤原宇合(うまかい)の未亡人となった久米連若売(くめのむらじわかめ)と通じた罪によって処罰を受けています。
石上乙麻呂(おとまろ)は土佐国に流され、久米連若売は下総国に流刑になります。

藤原不比等の場合には大胆にも、かつての天武天皇の后妃であり、新田部皇子の母でもある五百重娘(いおえのいらつめ)を相手にして、子供まで産ませているのです。
ところが、何の罰も受けていません。

橘三千代にしてみれば、不比等に裏切られたような気がすると思うのですが、ヒステリーになるわけでもなく、大事の前の小事と割り切ったようです。
持統天皇のそばに仕えて厚い信任を得ていたので、その立場を利用して不比等の出世のために持統天皇へのとりなしに動いたようです。
このようなことを考えても、橘三千代が只者ではないと言うことが分かります。

感情的にならず、大事を見失わずに困難を乗り越えてゆく三千代の姿がはっきりと浮かび出ていると言えるでしょう。
深謀遠慮の藤原不比等と組んで持統天皇を取り入れ、橘三千代は三つ巴で持統皇統を継続させてゆきます。
女の意地と執念を感じさせますよね。


『日本女性の愛と情念の原点』より
 (2006年5月30日)

 

これだけ女帝がたくさん出てきたのは、なぜだと思いますか?

持統天皇の血を分けたものだけを天皇にするためでござ~♪~ますか?

その通りですよう。

。。。んで、天皇になった高市皇子を暗殺したのですか?

そうですよう。

でも、高市皇子は、持統女帝の夫である天武天皇の子供ですわ。

しかし、持統女帝の産んだ子供ではないのですよう。彼女の血は一滴も高市皇子には流れていないのです。

要するに、高市皇子は持統天皇の意地と執念にとって邪魔者でしかなかったのでござ~♪~ますか?

その通りですよう。上の系図を見れば、その事が実に良く分かるのですよう。

しかし。。。、しかし。。。、証拠が。。。?

その証拠が出てきたのですよう。

まさか。。。?

マジで出て来たのですよう。
 
どのような証拠でござ~♪~ますか?

1988(昭和63)年8月下旬、北宮、通称「長屋王邸宅」と呼ばれていた場所の地下2メートルのところで1条の溝が発掘されたのですよう。

何が出てきたのでござ~♪~ますか?

合計4万点にものぼる木簡が出て来たのですよう。その中に高市皇子の長男である長屋王の名が「長屋親王」と書かれた木簡があった。

「親王」というのは、確か天皇の男の子か孫でござ~♪~ますよね。

そうですよう。つまり、この木簡に従えば長屋王は“高市天皇”の長男だったのですよう。上の柿本人麻呂が詠んだ長歌は持統天皇のために詠んだものではないのです。高市天皇のために詠んだのです。だから、“日の皇子”になっている。つまり、皇子とは男です。

それが正しいとして、柿本人麻呂はどのように関わっていたのでござ~♪~ますか?

持統天皇があれほど目をかけてやって出世できたというのに、事もあろうに柿本人麻呂は高市天皇になびいてしまったのですよう。それで、持統天皇の手が伸びて高市天皇が暗殺されたあと、人麻呂は石見国に左遷された。そこで、失意のうちに人麻呂は亡くなったのですよう。

どうして失意のうちに亡くなったと分かるのでござ~♪~ますか?

あのねぇ~、卑弥子さんも天神様を知っているでしょう?

もちろん知っておりますわ。菅原道真を祭(まつ)った神社でござ~♪~ますわ。

どうして菅原道真は祭られたのですか?

だってぇ~、道真は何も悪い事をしていないのに、告げ口によって。。。つまり、陰謀によって左遷されてしまったからですわ。

人麻呂も同じ事ですよう。「人麻呂」は転じて「人丸」とも言われるようになったけれど、そこから「火止ル」になったり「人生マル」になったりして、火難防除や安産、疫病防除のための語呂合わせともなり、その後「人麻呂信仰」になったのですよう。つまり、その当時、知っている人は知っていたのです。柿本人麻呂が持統天皇に睨(にら)まれて不遇な身になった事を。。。

つまり、人麻呂さんは何も悪い事をしていないのに、高市皇子になびいてしまったので、持統天皇に恨まれたのでござ~♪~ますか?

そうですよう。持統天皇は執念深いのですよう。“坊主憎けりゃ袈裟まで憎い”。。。それで、人麻呂は持統天皇にトコトン疎(うと)まれた。でも、知っている人は知っていたのです。だから、人麻呂の人徳をたたえて、石見には柿本神社や人丸神社がたくさん建っているのですよう。その事を考えれば、人麻呂が悲劇の死を迎えたのも実に良く分かるのですよう。

【卑弥子の独り言】

 

ですってぇ~。。。
いつものように、デンマンさんは、あちらから、こちらから、いろいろな資料を持ち出してきましたけれど、
なんとなく理屈に丸め込まれてしまったような気がするのでござ~♪~ますわ。
あなたは、どう思いましたか?

とにかく、あさって、まだ面白いお話が続くと思います。
あなたも、どうか、読みに戻って来てくださいましね。
じゃあ、また。。。

ィ~ハァ~♪~!

メチャ面白い、

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■ 『面白くて楽しいレンゲ物語』

■ 『カナダのバーナビーと軽井沢に

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■ 『 ○ 笑う者には福が来る ○ 』

こんにちは。ジューンです。

神社を英語に訳すと

“shrine”ですよね。

でも、英語と日本語の大きな違いがあります。

日本では、神社がやたらに多いのですよね。

デンマンさんの上の記事にも出てきましたけれど、

天神様

柿本神社

でも、まだまだたくさんあります。

東郷神社

乃木神社

秋葉神社

浅間神社

小国神社

。。。

アメリカでもカナダでも、shrineを探そうと思うと、

まず身近にはありません。

ところが、日本に行くと、神社は一つの町だけでも

10以上簡単に見つけることができます。

日本って、本当に神社の多い国だと思いました。

ところで、英語の面白いお話を集めました。

時間があったら覗いてみてくださいね。

■ 『あなたのための愉快で面白い英語』

では、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょうね。

じゃあね。

女帝の怨念

 
女帝の怨念

雲場池(スワンレイク)の小百合さん

投稿日時: 2008/09/22 03:58 (ロンドン時間)
日本時間: 9月22日 午前11時58分
バンクーバー時間: 9月21日 午後7時58分

防人の歌碑のところまで行って、
新しい道を探して 見つかった時の 新鮮さ。
長男や次男のこと、デンマンさんのことも
忘れて 自分だけのことで 走り回ってました。

■ 『ビバ! 白鳥の湖 (2008年6月15日)』
(防人の歌碑については上の記事を読んでみてね。)

“防人の歌”。。。懐かしいですねぇ~。

そうです。そうです。
あの防人の歌の歌碑も、小百合さんと一緒に見たいものですね。

 

日の暮れに

うすひの山を

越ゆる日は

背なのが袖も

さやに振らしつ

 

(巻第十四 東歌 三四〇二

詠み人知らず)

現代語訳:

日の暮れ時に、碓氷の山の峠を越える日に、我が夫が、別れの時に目につくほどはっきりと袖を振っていたわ。

(峠を越えて去ってゆく夫を慕う妻の心情を詠んでいる。)


ひなぐもり

うすひの坂を

越えしだに

妹が恋しく

忘らえぬかも

 

(巻第二十 四四〇七

他田部子磐前 [おさたべの子いわさき])

現代語訳:

ひなくもり(碓氷を導く枕詞)碓氷の坂を越える時は、国へ置いてきた妻のことが恋しくて忘れられない。

(碓氷峠越えの別れの恋歌。)


■ 『夢のホテル (2008年5月8日)』より

 

昭和25年ごろの手書きのマップを見つけ
コピーして 今大切に見てます。
大きくして額に入れようかな~ 

本当に 雲場池のところに ニュー グランドホテルと書いてあった。

 


(lodge25.jpg)


(lodge24.jpg)

&nbsp

1度見てみたい 竈岩(かまどいわ)
白人はジャイアントチェアー と呼んでいたらしい。
南のプリンススキー場の裏側なので 見たこと無いです
ごめん ごめん 私の事ばかり

うん、うん、うん。。。

小百合さんの事を、もっともっと書いてくれてもいいよう。

お母さんは 封筒の宛先は どうやって 書いてるの?

封筒だけ デンマンさんが たくさん書いて おいてきたりするの?

弟が書いてやっているようですよう。
僕は書いた事が無い。

 

私 今月末と思ったら 10月末 よね。
ネットカフェ・コンコルドであわてて デンマンさんの旅程表を見たから勘違いしてました。

あと1ヶ月ですね。

まだ1ヶ月以上ありますよう。
でも、1ヶ月なんてすぐに経ってしまいますからね。

僕は1ヶ月分の記事を用意しなければならないので、
この1ヶ月間は大変です。

これ SUBMIT できるかな
何だか お気に入りが減ってるし、マウスはどっか
無くなってるし やりずらいなー

これが 現実の世界ですよ、今日も次男坊と喧嘩がはじまりそうー。

では 今日も洗たく 掃除…
今から始めます。

では、また。。。

小百合より

 

 

そうですよう。そうですよう。
軽井沢は、小百合さんにとって“今一つの世界”なのですよう。

日常茶飯事から開放されて、小百合さんの“夢とロマンの生活”を軽井沢に求めているのですよう。
つまり、それこそ小百合さんの“女の世界”です。
デンマンの“ロマンポルノ天国”と重なると思うのですよう!
うしししし。。。

行田で元気に再会しましょうね。
“恍惚のハグ”を楽しみにしていますよう!
じゃあね。


投稿日時: 2008/09/22 07:16 (ロンドン時間)
日本時間: 9月22日 午後3時16分
バンクーバー時間: 9月21日 午後11時16分

『帰省スレッド』より
ロンドンの“ビーバーランド e-XOOPS”

防人の歌が多少、持統天皇と関係あるので、デンマンさんは、また小百合さんのメールを持ち出してきたのでござ~♪~ますか?

そうですよう。やっぱり話題と無関係なものを書くわけにはゆきませんからね。それに、万葉集に防人の歌を取り上げたのは、まず間違いなく万葉集の編者と考えられている大伴家持ですよう。

どうして、そのような事が分かるのでござ~♪~ますか?

大伴家持は仕事で防人の世話をする役目についていた事があるのです。かつて僕は次のような記事を書きました。関連箇所を抜き書きしました。ちょっと読んでみてください。

 

万葉集で政治批判?

 

 

天平18年(746年)3月に宮内少輔。7月に越中国国守となる。
天平勝宝3年(751年)までに赴任。

この間に220余首の歌を詠んだ。
少納言となって帰京後、天平勝宝6年(754年)兵部少輔となり、翌年難波で防人の検校に関わる。
この時の防人との出会いが、万葉集の防人歌収集につながっている。

 (中略)

天平勝宝(てんぴょうしょうほう)7年(西暦775年)に、東国の国々から防人の歌を集めさせたのです。
集まった歌は166首でしたが、家持が選んで84首を万葉集に残しました。
この時は、すでに防人の制度が始まってから、100年近くが経過していました。

歌のほとんどは、家族と離れ離れになる悲しさや、夫が遠くに行ってしまう悲しさ・不安・無事を祈る気持ちで詠(よ)んだものです。
なぜ大伴家持は、防人の歌を集めさせたのか?
上に引用した彼の経歴を見れば明らかです。
家持はこの制度に批判的だったんですよね。

大伴家持は当時の政府の役人を務めてはいますが、心の中は反政府的なんですよね。
彼自身も反政府運動に加担していた。
少なくともそのような嫌疑をかけられて罰を受けたことがある。
反骨精神のある人だったことが分かります。

武器を持って反政府運動を繰り広げて政府を転覆したいと思っていたかもしれませんが、それが現実的でないので万葉集という歌集を編纂して、その中に反政府的歌をあつめて歴史の真相を後世に伝えようとしたわけです。


『性と愛と批判 – 万葉集の中の政治批判?』より
(2006年5月8日)

 

大伴家持が防人の歌を万葉集に載せたのも当時の藤原政権に対する批判だったのでござ~♪~ますか?

日本社会特有の“本音と建前”は、おそらく大伴家持あたりが持ち込んだのでしょうね。

つまり、建前では、身分にとらわれずに広く大和の民衆から歌を集めると言いながら、防人の歌を集めて本音で藤原政権を批判するつもりだったのでござ~♪~ますか?

その通りですよう。それ以外に批判の道は残されてなかった。

。。。んで、その事が柿本人麻呂とどのように関わっているのでござ~♪~ますか?

 

紀貫之は柿本人麻呂が「正三位」であったと『古今和歌集』の仮名序に書いているのですよ。ちょうど、明治政府が明治37年に紀貫之に「従二位」を追贈したように。。。

なぜですの。。。?

だから、僕は紀貫之は真相を知っていると思っているのですよ。

どのような真相ですか?

持統三年(689)草壁皇子(持統天皇の皇子、軽皇子の父)の挽歌に始まり、翌四年の吉野行幸や六年三月の行幸に関する歌を柿本人麻呂は多数残しているのですよ。しかも六年冬に行われた軽皇子(後の文武天皇)の安騎野行きにも御付きとして従っている。十年七月には高市皇子(天武天皇の皇子)の死去にあたって「渾身の傑作」と後世評価される挽歌も捧げている。それなのに、柿本人麻呂の「死」に対し「妻」以外、誰一人として哀悼の意を表し、歌を捧げた人がいなかった。しかも、正史に、この人のことが1行も書かれていない。この事は歴史の謎になっているのですよ。

つまり、柿本人麻呂が正三位であった事は正史に書かれていないのですか?

正史に書かれてないのですよ。

それなのに紀貫之は柿本人麻呂が「正三位」だったと『新古今集』の序文に書いたのですか?

そうです。出鱈目(でたらめ)ではないのですよ。

どうしてですの?

だから、このような形で政治批判をしているのです。現在にまで謎が残る形で奈良朝の政治の暗黒部分を我々に伝えようとしている。ちょうど大伴家持が、持統天皇の平凡な歌を載せたように。。。でもその歌の裏には政治の混乱が隠されていたのですよ。

つまり、『伊勢物語』もそのようにして紀貫之が本音では“政治批判の書”として編集した、とデンマンさんはおっしゃるのですか?

そうですよ。

。。。で、具体的には。。。?


『愛と怨霊 (2006年7月5日)』より

 

デンマンさんの古い記事を持ち出してきて何を言おうとなさるのでござ~♪~ますか?

これまで読んでくれば卑弥子さんにも僕が何を言おうとしているか分かるでしょう?

デンマンさんのお話は、あちらに飛んだり、こちらに飛んだりするので、何がなんだか良く分からなくなってしまうのでござ~♪~ますわ。今度は紀貫之までが登場していますわ。

大伴家持も紀貫之も日本の古典や日本史を知っている人であれば誰もが記憶している名前だと思うのですよ。卑弥子さんだって知っているでしょう?

もちろんですわ。これでも、あたくしは古典文学を専攻している者でござ~♪~ますから。。。

ちょっと考えてみてください。大伴家持も紀貫之も歌人としてしか知られていない。

だってぇ~、歌人ですものォ~。。。あたりまえでござ~♪~ますわア~

確かにその通りですよ。でも見方を変えれば、藤原氏以外の人物にとって政治に関わりたくても関わることができなかった。有能であれば有能であるほど藤原氏によって政界から蹴り落とされていったのです。菅原道真などがその良い例ですよ。

菅原道真以外にも居るのですか?

たくさん居ますよ。

デンマンさんは記事にも書いているのでござ~♪~ますか?

もちろんです。藤原氏内部でも主流派と反主流派があって、反主流派の人たちは追い落とされてしまったほどです。

 

 

この世をば

わが世とぞ思ふ

望月の

欠けたることも

なしと思へば

 

藤原道長

 

藤原道長は“氏の長者”になって権勢を欲しいままにして、このような歌を詠んだのです。でも、それまでには、すさまじい権力闘争があった。

 

当子(まさこ)内親王と

藤原道雅(みちまさ)の悲恋

 

 

簡単に言ってしまえば、藤原氏内部の主導権争いだったわけです。道長は道隆の四男だった。道隆の長男が道雅の父親である藤原伊周(これちか)だった。道長に野望が無く、何事も起こらなかったならば、藤原氏の実権は黙っていても道雅の手に入ってくるところだった。分かるでしょう。当子内親王と藤原道雅の恋物語の裏には、このような藤原氏の陰謀が渦をまいていた。

この悲恋にも道長の手が伸びていたのだと。。。デンマンさんはそうおっしゃるのですか?

そうです。このようなやり方は藤原鎌足から受け継いでいる藤原氏の伝統的なやり方ですよ。自分の主導権を正当化するためならば何でも利用するのです。前にも書いたことだけれどね、次の2つの記事を読めばよく分かりますよ。

 

 

■ 『マキアベリもビックリ、藤原氏のバイブルとは?』

『藤原氏の祖先は朝鮮半島からやってきた』

 

でも。。。でも。。。なんだか飛躍しすぎているような説明ですわぁ~。

今から千年前の悲恋ですからね、真相は謎ですよ。でも、藤原氏の長い歴史を見ると見えてくるモノがあります。


『愛と性と不良娘 (2007年2月8日)』
『愛と性に萌えて (2007年2月6日)』より

 

このように、藤原氏であっても反主流派は追い落とされてしまうのですよ。

つまり、大伴家持や紀貫之は政治の世界で身を立てようとしても、それが叶(かな)わぬ事と知り抜いていたので歌の世界で藤原政権に対して批判しようと思ったのでござ~♪~ますか?

その通りです。事実そのようにして大伴家持は万葉集で藤原政権批判をしているのです。紀貫之も柿本人麻呂が事実上三位の人であるという事を後世の人に伝えるために、わざわざ『古今和歌集』の仮名序に書いたのですよ。

そうやって、史実を後世の人たちに知らせるためでござ~♪~ますか?

その通りです。大伴家持が属している大伴氏も紀貫之が属している紀氏も藤原氏によって、すでに政治の世界から追い落とされていたのです。

それで、柿本人麻呂は、一体どのような悲劇に遭遇(そうぐう)したのでござ~♪~ますか?

上の引用の中で赤字にした部分があったでしょう?もう一度ここに書き出します。

 

 

持統十(696)年七月には

高市皇子(天武天皇の皇子)の死去にあたって

「渾身の傑作」と後世評価される挽歌も捧げている。

それなのに、柿本人麻呂の「死」に対し「妻」以外、

誰一人として哀悼の意を表し、

歌を捧げた人がいなかった。

しかも、正史に、この人のことが1行も書かれていない。

 

これが柿本人麻呂の悲劇なのでござ~♪~ますか?

その通りです。

高市皇子の殯宮(もがりのみや)で人麻呂が詠った挽歌は最高傑作とも言われているのです。つまり、この挽歌こそ、人麻呂と高市皇子の結び付きの強さを暗示しているのです。

その挽歌に何か隠されている秘密があるのでござ~♪~ますか?

いや、特に秘密があるわけではありません。ただ、その挽歌を読むと柿本人麻呂が高市皇子の死をとりわけ惜しんでいる事が実に良く分かる。

それで、何が隠された秘密なのでござ~♪~ますか?

実は、『万葉集』巻一に「藤原宮御宇天皇代」の歌として載っている長歌があるのですよ。

どなたがお作りになったのでござ~♪~ますか?

「藤原宮の役民の作れる歌」である、と書いてあるのです。

どのような歌なのでござ~♪~ますか?

ちょっと読んでみてください。

 

 

やすみしし わが大君 高照らす 日の皇子

あらたへの 藤原が上に 食国を 見し給はむと

都宮は 高知らさむと 神ながら 思ほすなへに

天地も 寄りてありこそ 磐走り 淡路の国の

衣手の 田上山の 真木さく 檜のつまでを

もののふの 八十氏川に 玉藻なす

浮べ流せれ そを取ると 騒く御民も 家忘れ

身もたな知らず 鴨じもの 水に浮きゐて わが作る

日の御門に 知らぬ国 寄り巨勢道より わが国は

常世にならむ 図負へる 神しき亀も 新代と

いづみの河に 持ち越せる 真木のつまでを 百足らず

いかだに作り のぼすらむ 勤はく見れば 神ながらならし


万葉集 巻第一・50

 

持統八(694)年12月6日に都を藤原宮に移したのです。高市皇子が死去する2年前です。この長歌は、この藤原宮で働いている役人が詠んだ歌だと書いてある。

名前は書いてないのでござ~♪~ますか?

書いてないのです。でも、多くの古典研究者や歴史研究者がこの長歌は人麻呂が詠んだ長歌に違いないと考えているのですよ。

デンマンさんも、そう思っているのですか?

もちろんです。

なぜでござ~♪~ますか?

万葉集の中には、上の長歌のように名前が伏せてあるものや“読み人知らず”になっている歌がたくさんあるけれど、すでに見てきたように1073番の歌も僕は柿本人麻呂が詠んだに違いないと見ているのです。

 

 

玉垂(たまだれ)の

小簾(をす)の間(ま)通し

ひとり居て

見る験(しるし)なき

夕月夜かも

詠み人知らず

万葉集 巻第七・1073

このような素晴しい月夜の晩に、

一人で簾の隙間から月を見ているが

ああ~、愛(いと)しいあの人は、

もうこの世の人ではない。

あのように儚(はかな)く

逝(い)ってしまうのであれば、

もう少し足しげく通って、

優しい言葉をかけてあげたかった。

でも、そうできない事情が

あったのだ。

今更嘆いたとて、

どうなるものでもないが。。。

それでも、あの人を思い出すと

慟哭せずには居られない。

 

『万葉集の謎 (2008年9月23日)』より

 

分かりましたわ。。。んで、上の長歌が柿本人麻呂の歌としてですわねぇ~、それは人麻呂が時の天皇・持統女帝に献呈した歌なのでござ~♪~ますわね?

当然、そのように考えられているのです。

デンマンさんは、そうではないと思って居るのでござ~♪~ますか?

もちろんん、人麻呂が作った長歌なんだけれど、もし、人麻呂が持統天皇のために詠(うた)ったのであれば、名前を出しても良いのですよ。

なぜ、人麻呂の名前を出さなかったのでござ~♪~ますか?

なぜなら、人麻呂は持統天皇ではなく高市天皇のために詠(よ)んだからですよ。

しかし、高市天皇なんて日本史では認められていませんわ。

その通りです。持統天皇に暗殺されてしまったのだから。。。

まさか。。。?

それが僕の言う悲劇なのですよ。

しかし。。。しかし。。。そのような事は、あたくし、日本史で勉強しませんでしたわ。

だから、この史的事実は隠されてきたのです。それで、上の長歌も人麻呂が詠んだのだけれど、“藤原宮で働いている役人が詠んだ”と万葉集に書いたのです。

なぜでござ~♪~ますか。。。?

そのようにすれば、本当の真実を後世の人が分かってくれるだろうと考えて大伴家持は、そのように書いたのです。真実を書いたら、大伴家持の首が飛んでしまうから。。。

そうでしょうか?

だって、そうでしょう?上のような長歌を藤原宮で働いている役人が詠んだのです。本当に持統天皇のために詠んだのであれば、詠んだ人の名前を伏せる必要はないのです。しかし、その人の名前が書かれてない。不自然ですよ。これは臭い!。。。何か隠されているに違いない。。。僕はそう思いました。

でも、ただそれだけでは、あたくし、納得できませんわ。

だったら、卑弥子さんが納得できるように、もっと詳しく説明します。

分かりましたわ。さっそく分かり易いように説明してくださいましな。

うん。。。でも、この記事が、かな~♪~り長くなってしまったので、また明日 話します

また、お預けでござ~♪~ますかア?

このまま続けたら、収拾が付かないほど長くなってしまいますからね。。。


初出: 2008年9月27日

【卑弥子の独り言】

 

ですってぇ~。。。
また、お預けですわ。
デンマンさんの記事は、特に、出だしが長いのですわよう。
あなただって、そう思うでしょう?

とにかく、明日 面白くなりそうでござ~♪~ますわ。
なぜ、持統女帝は天皇である高市皇子を暗殺する必要があったのでござ~♪~ましょうか?
そして柿本人麻呂は、なぜ史書から抹殺されなければならなかったのでしょうか?

あなたも、どうか、読みに戻って来てくださいましね。
じゃあ、また。。。

ィ~ハァ~♪~!

メチャ面白い、

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こんにちは。ジューンです。

“本音と建前”

よく聞きますよね。

さて、英語で何と言うのでしょうか?

考えてみた事がありますか?

いろいろと言い方があると思います。

appearance and reality

見かけと実物そのまま

これも本音と建前と言い換えることができますよね。

form and substance

外観と実体

これも本音と建前と同じですよね。

one’s real intention and

what one says on the surface

本音と建前を説明しているのですよね。

real motive and stated reason

これも間違いなく本音と建前ですよね。

what one says and what one means

本音と建前をこのように言うこともできますよね。

では、「本音と建前を使い分ける」を

英語でどのように言うのでしょうか?

ちょっと考えてみてください。

次のように言うことができます。

You should be tactful as to

when to tell real intention

and when to show form.

ところで、英語の面白いお話を集めました。

時間があったら覗いてみてくださいね。

■ 『あなたのための愉快で面白い英語』

では、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょうね。

じゃあね。

女帝がムカつく

女帝がムカつく

 

 

投稿日時: 2008/09/22 03:58 (ロンドン時間)
日本時間: 9月22日 午前11時58分
バンクーバー時間: 9月21日 午後7時58分

はい ただいま。
軽井沢ではいろいろとやる事があって、
ネットカフェでゆっくりとデンマンさんのブログを見ている時間が取れませんでした。
あとで ゆっくりと 見てみますね。

ブログを読んでもらえば分かるけれど、
小百合さんとのメールの交換がブランク(空白)の期間があったので、
歴史編になってますよ。

万葉集のこと
柿本人麻呂のこと。。。
そう言う事に、かなりハマッて『小百合物語』を書いてます。

 

 

しばらく歴史編が続きそうですゥ。
もちろん、小百合さんからのメールを冒頭に書きますが。。。
歴史編になっても『小百合物語』に変わりがありません。

夕べも今朝も
ビーバーランド e-XOOPSの調子が悪かったのですよ。
最近、マジで Lycos UK のサーバの具合が悪いのです。
ムカつきました!

先ほどクリックしたら、やっとジューンさんが現れて、
小百合さんが1時間前にログアウトした事が記録に出ていました。

「親孝行スレッド」のデンマンさんのメールを読みましたよ。
うーん お母さんから 手紙が来たのですか?
宝物ですね。

 

久しぶりの手紙でした。
手紙に書いてある字を見ても、
目が遠くなっていると言うか。。。?
手が弱っていると言うか。。。?
体が弱っている事が感じられます。

字体に元気が無いのですよね。
書いてある文章はしっかりしていますが。。。

23日の秋分の日までいるつもりだったのですが、
台風が去ったのに 低気圧で雨、
軽井沢から戻ってきました。

うん、うん、うん。。。
10日間ほど軽井沢にいると言っていたから早いなあああぁ~、と思ってちょっと意外でした。
でも、うれしい喜びですよう。
それだけ小百合さんと多くメールの交換ができますからね。

今回は 風邪もひいたけど その分 ゆっくり、
気がついたら 10時まで寝てました。
寝過ぎです。

本当に小百合さんは“風邪っ子”ですよね。
その事が僕のオツムに始終あって、その事が僕に『ロマンポルノ』を書かせたのですよう。
半分マジで。。。

つまり、小百合さんの“愛とロマンの体質改善”があの『ロマンポルノ』のテーマなのですよう。
小百合さんは分かってくれただろうか?

 

防人の歌碑のところまで行って、
新しい道を探して 見つかった時の 新鮮さ。
長男や次男のこと、デンマンさんのことも
忘れて 自分だけのことで 走り回ってました。

 

■ 『ビバ! 白鳥の湖 (2008年6月15日)』
(防人の歌碑については上の記事を読んでみてね。)

“防人の歌”。。。懐かしいですねぇ~。

そうです。そうです。
あの防人の歌の歌碑も、小百合さんと一緒に見たいものですね。

 

日の暮れに

うすひの山を

越ゆる日は

背なのが袖も

さやに振らしつ

 

(巻第十四 東歌 三四〇二

詠み人知らず)

現代語訳:

日の暮れ時に、碓氷の山の峠を越える日に、我が夫が、別れの時に目につくほどはっきりと袖を振っていたわ。

(峠を越えて去ってゆく夫を慕う妻の心情を詠んでいる。)


ひなぐもり

うすひの坂を

越えしだに

妹が恋しく

忘らえぬかも

 

(巻第二十 四四〇七

他田部子磐前 [おさたべの子いわさき])

現代語訳:

ひなくもり(碓氷を導く枕詞)碓氷の坂を越える時は、国へ置いてきた妻のことが恋しくて忘れられない。

(碓氷峠越えの別れの恋歌。)


■ 『夢のホテル (2008年5月8日)』より

 

 

私が室生 犀星(むろう さいせい) のことを書いたからって
無理に調べなくって いいのですよ。
私も作品を全部読んだわけでは 無いのです。

長女の室生 朝子さんは やはり子供のころ
軽井沢で過ごしたらしく 
細かく 様子が書いてあったのです。

お手伝いさんがいたものの、
洋風かぶれしたのが嫌いな父・犀星に厳しく育てられて、父(肺癌で死亡)を見送るまでの事、いろんな作家との 交流 が書いてありました。

きっと デンマンさんには 面倒な本ですから
記事で取り上げなくてイイですよ、

室生犀星のことは、いつか書いてみたいと思ってました。
僕にもちょっとした思い出がありますよう。
その事を含めて、万葉集の歴史編の後に書こうと思ってます。

 

 

昭和25年ごろの手書きのマップを見つけ
コピーして 今大切に見てます。
大きくして額に入れようかな~ 

本当に 雲場池のところに ニュー グランドホテルと書いてあった。

 


(lodge25.jpg)


(lodge24.jpg)

&nbsp

1度見てみたい 竈岩(かまどいわ)
白人はジャイアントチェアー と呼んでいたらしい。

南のプリンススキー場の裏側なので 見たこと無いです
ごめん ごめん 私の事ばかり

うん、うん、うん。。。

小百合さんの事を、もっともっと書いてくれてもいいよう。

 

お母さんは 封筒の宛先は どうやって 書いてるの?

封筒だけ デンマンさんが たくさん書いて おいてきたりするの?

弟が書いてやっているようですよう。
僕は書いた事が無い。

 

 

私 今月末と思ったら 10月末 よね。

ネットカフェ・コンコルドであわてて デンマンさんの旅程表を見たから勘違いしてました。

あと1ヶ月ですね。

まだ1ヶ月以上ありますよう。
でも、1ヶ月なんてすぐに経ってしまいますからね。

僕は1ヶ月分の記事を用意しなければならないので、
この1ヶ月間は大変です。

 

これ SUBMIT できるかな
何だか お気に入りが減ってるし、マウスはどっか
無くなってるし やりずらいなー

これが 現実の世界ですよ、今日も次男坊と
喧嘩がはじまりそうー。

では 今日も洗たく 掃除…
今から始めます。

では、また。。。

小百合より

 

 

そうですよう。そうですよう。
軽井沢は、小百合さんにとって“今一つの世界”なのですよう。

日常茶飯事から開放されて、小百合さんの“夢とロマンの生活”を軽井沢に求めているのですよう。
つまり、それこそ小百合さんの“女の世界”です。
デンマンの“ロマンポルノ天国”と重なると思うのですよう!
うしししし。。。

行田で元気に再会しましょうね。
“恍惚のハグ”を楽しみにしていますよう!
じゃあね。


投稿日時: 2008/09/22 07:16 (ロンドン時間)
日本時間: 9月22日 午後3時16分
バンクーバー時間: 9月21日 午後11時16分

『帰省スレッド』より
ロンドンの“ビーバーランド e-XOOPS”

 

デンマンさん。。。小百合さんに会えるのを楽しみにしているのでござ~♪~ますか?

もちろんですよう。1年ぶりですからね。

あたくしとも1年ぶりでござ~♪~ますわ。

そうですよう。卑弥子さんに会えるのも楽しみにしているのですよう。うしししし。。。

あたくしは、ほんの付け足しみたいなものでござ~♪~ますわねぇ?

やだなあああぁ~。。。そのように僻(ひが)まないでくださいよう。。。こうして1日おきに僕と卑弥子さんはウェブカムを通して顔を合わせているでしょう?

でも、あたくしを軽井沢には連れて行ってくださらないのでしょう?

また、その事ですかぁ~? その話を始めると『女帝の憎悪』と言う今日の話を、あさってに延ばさなければならないのですよ。

かまいませんわ。女帝のお話など聞かなくても死にませんから。。。

僕にだって予定があるのだから、そう言う訳にもゆきませんよう。その事については、この記事を書き終えてから話しますよ。それでいいでしょう?

分かりましたわ。。。んで、女帝ってどの女帝でござ~♪~ますか?

持統天皇ですよ。

柿本人麻呂が女帝天皇に憎悪されたのでござ~♪~ますか?

そうなのです。初めは、むしろ目をかけられていたのですよ。後世になってからも、人麻呂は持統天皇の愛人ではなかったのだろうか?そう思われるほど二人の関係は良好だった。

それがどうして悪化したのでござ~♪~ますか?

その謎を解くには、すでに触れた“泣血哀慟歌”をじっくりと読んでみる必要があるのです。

 

泣血哀慟歌

 

 

天飛ぶや 軽の路は 吾妹子が 里にしあれば

ねもころに 見まくほしけど

やまず行かば 人目を多み 数多く行かば 人知りぬべみ

さねかづら 後もあはむと 大船の 思ひたのみて

玉かきる 岩垣淵の 隠りのみ 恋ひつつあるに

渡る日の 暮れぬるがごと 照る月の 雲隠るごと

沖つ藻の なびきし妹は もみち葉の 過ぎていにきと

玉づさの 使ひの言へば あづさ弓 聲のみ聞きて

言はむすべ せむすべ知らに

聲のみを 聞きて有り得ねば

わが恋ふる 千重の一重も 慰むる 情もありやと

吾妹子が やまず出で見し 軽の市に わが立ち聞けば

玉だすき 畝火の山に なく鳥の

音も聞こへず 玉ほこの 道行く人も

一人だに 似てし行かねば すべをなみ

妹が名よびて 袖ぞ振りつる

(万葉集 巻二 207番)

 

【現代語訳】

空を飛ぶような 軽(かる)の路は 愛する人の 住む里だから

飽きるまで 見ていたいけど

絶えず行けば 人目が多く 何度も行けば 人に知られる 

サネカヅラのように 後も会おうと 大きな船の 心を頼りに

究極の 崖っぷちに立って こっそりと 恋してきたが

渡る日が 暮れて行くように 照る月が 雲に隠れるように

沖の藻みたいに 靡(なび)き合った君は 紅葉のように 散ってしまったと

玉(たま)に来る 使いが言うので 梓(あずさ)弓の音ばかりして

何を言うことも 何をすることも出来ず

音だけを 聞いてるわけにゆかず

恋い慕う心の 千に一つでも 慰める手はなかろうかと

愛する君が いつも来ていた軽の市場に 立って見たらば

宝石のたすきのような 畝火(うねび)の山に 鳴いてる鳥の 

声も聞こえず 美しい 道を行く人も

一人として 似てはいないので 仕方なく

君の名を呼んで 袖を振るのだ

 

これは愛する妻が亡くなって柿本人麻呂が血の涙を流して慟哭しながら読んだ歌だと言うのですよ。

柿本人麻呂さんは、とっても奥様思いだったのでござ~♪~ますわね。

卑弥子さんも、そう思いますか?

誰だってそう思いますわよう。

ほおォ~。。。珍しく卑弥子さんが涙を浮かべていますねぇ~

だってぇ~。。。この歌をじっくりと味わうと、本当に悲しくなりますわ。

そうでしょうか?

そうでしょうかって。。。デンマンさんだって、この歌を読んだからこそ1073番の歌を次のように解釈したのでござ~♪~ますわ。そうでしょう?

 

 

玉垂(たまだれ)の

小簾(をす)の間(ま)通し

ひとり居て

見る験(しるし)なき

夕月夜かも


詠み人知らず

万葉集 巻第七・1073

 

このような素晴しい月夜の晩に、

一人で簾の隙間から月を見ているが

ああ~、愛(いと)しいあの人は、

もうこの世の人ではない。

あのように儚(はかな)く

逝(い)ってしまうのであれば、

もう少し足しげく通って、

優しい言葉をかけてあげたかった。

でも、そうできない事情があったのだ。

今更嘆いたとて、

どうなるものでもないが。。。

それでも、あの人を思い出すと

慟哭せずには居られない。

 


『万葉集の謎 (2008年9月23日)』より

 

デンマンさんだって、慟哭せずには居られない、と書いているではござ~♪~ませんか!?

それで。。。、それで、卑弥子さんは、もらい泣きをしているのですか?

そうでござ~♪~ますわ。とっても悲しゅうござ~♪~ますわア。

しかしねぇ~。。。考えてもみてくださいよう。愛している妻が亡くなった。。。なにも柿本人麻呂でなくても、愛している妻が亡くなって悲嘆にくれている人はたくさん居るのですよ。

つまり、柿本人麻呂の時代にだって、いとしい妻が亡くなって慟哭しながら歌を詠んだ男がたくさん居た、とデンマンさんはおっしゃるのでござ~♪~ますか?

その通りですよう。柿本人麻呂という男が、愛する妻が亡くなったと言うだけで、血の涙を流して慟哭すると言うのは、ちょっと女々しいと思いませんか?

それで、デンマンさんは、次のようなシモいエロい戯作を書きなぐったのでござ~♪~ますわね?

 

オマエ、いい年して、妻に先立たれて

それほど悲しいのかア~

いつまで涙にくれていたって

死んだ妻は戻ってこないんだよう。

そんなところでじっとしてないで

元気出したらどうなんだい?

オラ、オラぁ~

夜の街に出てナンパしに行けよう。ゴラぁ~~

 

 

デンマンさんは、愛している妻に先立たれた柿本人麻呂の心が全く分かっていないようでござ~♪~ますわねえ~。

分かっていますよう。

それならば、上のようなふざけた事は書けないはずでござ~♪~ますわ。

僕は、血の涙を流して慟哭しなければ居られない柿本人麻呂の心が分かるからこそ、こうして記事で取り上げているのですよ。

それなのに、谷岡ヤスジの漫画などを持ち出してきて、柿本人麻呂の歌に泥を塗るのでござ~♪~ますか?

違いますよう。柿本人麻呂は本当に無念な思いをしたのですよ。だから、後世にその当時の事情を書き残したかった。でも、詳しい事を書いたなら、とても記録として後世に残らない。

どうしてでござ~♪~ますか?

持統天皇に握りつぶされてしまいますよう。そう言う訳で、愛(いと)しい妻が亡くなったことに託(たく)して無念な思いを書き記(しる)した。

それが“泣血哀慟歌”だ、とデンマンさんはおっしゃるのでござ~♪~ますか?

その通りですよう。

つまり、この歌には隠された意味が込められているとおっしゃるのでござ~♪~ますか?

そうですよう。だから僕は1073番の歌の解釈で次のように書いたのですよう。

 

 

ああ~、愛(いと)しいあの人は、

もうこの世の人ではない。

あのように儚(はかな)く

逝(い)ってしまうのであれば、

もう少し足しげく通って、

優しい言葉をかけてあげたかった。

でも、そうできない事情があったのだ。

 

つまり、この事情を後世の人に伝えたくて、柿本人麻呂は“泣血哀慟歌”を詠んだとデンマンさんはおっしゃるのでござ~♪~ますか?

その通りですよう。血の涙を流して慟哭する、という事は愛する妻が一人死んだぐらいでは、できない事ですよう。どう考えても、ちょっとオーバーだと思いませんか?

。。。んで、その事情って、一体どういうものでござ~♪~ますか?

まず、歌の中の女性が誰なのか?そこから説明する必要があります。

柿本人麻呂の奥さんのことでござ~♪~ますか?

そうですよう。でも、この当時の奥さんというのは一緒に暮らしている訳ではなかったのですよう。ジューンさんが次のように書いていました。読んでみてください。

 

妻問婚

 

 

こんにちは。ジューンです。

奈良時代や平安時代の

男女の恋愛物語を読んでいて

不思議に思うのは結婚の形態です。

わたしには、ちょっと理解できません。

「妻問婚」というのですよね。

男と女は同居せずに男が女の家を訪れて

一夜を共にする形をとっていたのです。

当時は現在のように結婚相手は

ひとりという制約もなかったそうです。

生まれてきた子度は妻の家で育てるのですって。

男は養育費も入れなかったのですって。

ちょっと常識では考えられないですよね。

ところで、英語の面白いお話を集めました。

時間があったら覗いてみてくださいね。

■ 『あなたのための愉快で面白い英語』

では、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょうね。

じゃあね。

『万葉集の謎 (2008年9月23日)』より

 

分かりましたわ。。。んで、その女性というのは一体どのような人だったのでござ~♪~ますか?

この女性は歌に詠われているように“軽の里”に住んでいたのだけれど、柿本人麻呂と同様に持統天皇に仕えていたのですよ。

それで知り合って愛するようになったのでござ~♪~ますか?

そうです。この二人が歌のやり取りをしていただろう、と言う事を思わせる人麻呂の歌が万葉集にも載っているのですよ。

 

皇祖(すめろき)の神の御門(みかど)を懼(かしこ)みと侍従(さもら)ふ時に逢える君かも

(巻11-2508)


真祖鏡(まそかがみ)見とも言わめや玉かぎる石垣淵の隠(こも)りたる妻

(巻11-2509)

 

そうですわねぇ~。。。“玉かぎる石垣淵”は人麻呂の長歌にも出て参りますわ。つまり、人目を忍ばねばならなかったと言うのは、持統天皇の目を気にしながら柿本人麻呂は、その“軽の里”の女性と会っていたと言うのでござ~♪~ますか?

そうです。やがて人麻呂は、使いのものから、その女性の突然の死を聞く事になるのですよ。なんとなく謎めいていませんか?

もしかして、この女性は持統天皇の手が伸びて毒を盛られたとか。。。?デンマンさんは、そのように思っているのでござ~♪~ますか?

考えられる事ですよ。持統天皇は目的のためならば手段を選びませんからね。大津皇子を死に追いやったのも持統天皇の冷酷な一面があるからですよ。次の記事を読むと良く分かります。

 

■ 『愛と陰謀 (2008年2月27日)』

 

この女性は文武天皇と関係のある女性ではないのか。。。?そう言う人も居るのですよ。

どうしてでござ~♪~ますか?

文武天皇は、草壁皇子の嫡子の軽皇子です。つまり、持統天皇の孫です。当時、皇子の名前は生育地から付けられることが多かった。

つまり、“軽の里”で育てられたので軽皇子でござ~♪~ますか?

そうです。人麻呂の長歌に出てくる女性も、この“軽の里”に住んでいた。

軽皇子と長歌の中に出てくる女性は同郷なのでござ~♪~ますわね?

そうなのですよ。それで軽皇子が、宮廷に出仕していた年上の同郷のその女性に恋をした。そう考えるのです。でも、その女性が恋していたのは「宮廷詩人」として持統天皇に仕えていた人麻呂だった。

それは事実なのでござ~♪~ますか?

充分に考えられる事なのです。持統女帝は690年に紀伊白浜に行幸している。692年には、伊勢に行幸している。この期間に、人麻呂と軽の里の女性は出会い関係を深めていった。そして人麻呂は盛(さか)んに儀礼歌を詠んだ。

この二人は相思相愛の仲になったのですね。でも、軽皇子は、この女性に恋をしたということでござ~♪~ますか?それが持統天皇に知れる事となり、人麻呂は持統天皇の目を気にしながら女性に会いに行くようになったと。。。?

そう考える人が居るのですよ。確かに、このように考えると面白い。

でも、無理があるのでござ~♪~ますか?

この女性が死亡したのは大宝元年(701年)頃の事らしい。その当時、人麻呂は55才くらいだった。軽皇子(後の文武天皇)は19才です。その女性は25才から30才ぐらいだったと考えられるのですよ。

それで。。。?

軽皇子が立太子したのが文武元年(697年)で15才のときだから、軽皇子が“軽の里の女性”に出会ったのは、その後の事と考えられる。人麻呂がこの女性と出会ったのは持統四年(690年)と言われているのですよ。その時、軽皇子はたったの8才です。だから、皇子がその女性に恋をして妻にする事は到底考えられないと言う訳です。

。。。つうことわあああぁ~。。。人麻呂が“軽の里の女性”に会うのに持統天皇の目を気にしなくても良い訳でござ~♪~ますわね。でも、なぜ人麻呂は持統天皇の目を気にしていたのでござ~♪~ますか?

柿本人麻呂と持統女帝との間には恋愛関係があったとの説もあるのです。つまり、それ程、持統天皇は人麻呂を贔屓(ひいき)にしていたらしい。要するに目をかけてやっていたのです。

それで、人麻呂は女帝の目を気にして、足しげく女性のもとに通う事ができなかったとデンマンさんはおっしゃるのでござ~♪~ますか?

そのような事があったのかもしれません。でも、その女性が亡くなった時に、その事を理由に男が慟哭すると言うのでは、な~んかイマイチ男らしくないですよね。卑弥子さんも、そう思いませんか?

つまり、もっともっと悲劇的な事があったとデンマンさんはおっしゃるのですか?

そうですよう。

それって、いったい何でござ~♪~ますか?

ちょっと。。。また、この記事が長くなりすぎましたよゥ。その悲劇を話し始めると、収拾が付かないくらい長くなるので、また明日、この続きを話します。


初出: 『女帝の憎悪』(2008年9月25日)

【卑弥子の独り言】

 

ですってぇ~。。。
また、お預けですわよう。んも~~
デンマンさんの記事は、前置きが長いのですわよう。
あなただって、そう思うでしょう?

とにかく、明日、
面白くなりそうでござ~♪~ますわ。
その悲劇って、どのようなものなのでしょうか?

あなたも、どうか、読みに戻って来てくださいましね。
じゃあ、また。。。

ィ~ハァ~♪~!

メチャ面白い、

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■ 『 ○ 笑う者には福が来る ○ 』

こんにちは。ジューンです。

今日は興味深い歴史のお話をします。

乙巳の変(いっしのへん)から

4年後の649年3月の事です。

当時、右大臣であった蘇我倉山田石川麻呂が

謀反を企てていると、石川麻呂の弟の日向が

中大兄皇子に告げ口したのが事件の始まりでした。

石川麻呂は当時の孝徳天皇に身の証をして

助けを求めたのですけれど、

聞き入れてもらえなかったのです。

中大兄皇子と石川麻呂は

政治的に意見が対立していたので

中大兄皇子はさっそく兵を

石川麻呂の邸宅に向かわせたのです。

危険を察した石川麻呂は

飛鳥の自宅である山田寺にすでに逃げていました。

しかし、その山田寺もやがて包囲され、

石川麻呂は観念して妻と共に自害したのです。

しかし、事件はそれだけではすみませんでした。

やがて陰謀が夫の中大兄皇子のしわざと知った

遠智娘(おちのいらつめ)は

半狂乱の状態になってしまったのです。

無実の罪を着せられて、夫に父親を殺された。

そう思い込んでいる遠智娘は、

身重な体を抱えながら

心が晴れないままに日を送ったのでした。

“父親殺害者”の子を宿していたのです。

その年の暮れに建皇子を生み、“この子を頼むわね”

そう言って満4才の女児に言い残して

20代半ばの短い人生に終わりを告げて

遠智娘は命を絶ってしまったのでした。

後に、中大兄皇子は

義理の父である石川麻呂の忠誠の心を知り、

死に追いやった事を後悔したそうです。

ところで、当時の結婚は“妻問い婚”が普通でした。

男性が女性宅を訪れ一夜の契りを結べば

それが結婚となり夫婦になるわけです。

男はその家にとどまることなく

自由に女の家を出て自分の家に帰り、

女は男のまたの訪問を待ちます。

子供が生まれればその子は妻の家で養育し、

父が子供に会うのは女性宅を訪れる時だけです。

その子供の養育費はすべて女性任せで、

子供は女性の実家で養育される事になります。

当然の事ですが、子供はたまに会う父よりも、

母方の祖父母への愛着が深くなります。

優しいおじいさんとおばあさんが一緒に亡くなり、

そのあとを追うようにお母さんが亡くなってしまった。

満4才の童女は、当時そのことは知らなくとも、

やがて自分の父親が祖父母と母の三人を

“殺した”と知ることになります。

可愛がってくれていた3人が死んでしまった。

しかも、父親の陰謀がその背景にあったのです。

その衝撃はトラウマになって、

その後の童女の人格形成に大きな影響を与えた事は

想像に難(かた)くありません。

その時の4才の女児こそ、後の持統天皇になる

讚良(さらら)皇女だったのです。

ところで、英語の面白いお話を集めました。

時間があったら覗いてみてくださいね。

■ 『あなたのための愉快で面白い英語』

では、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょうね。

じゃあね。

日本最古の本

 

日本最古の本

 


(lookanim.gif)


(kojiki10.jpg)


(shoki21.gif)


(himiko93.jpg)


(himiko22b.gif)

デンマンさん、。。。日本最古の本を探しているのでござ〜ますかァ〜?


(kato3.gif)

僕は歴史オタクだと思っているのですよ。。。だから、当然、現在 日本最古の本だと言われている本を知っているつもりです。。。

それなのに どういうわけで 日本最古の本 というタイトルにしたのでござ〜ますかァ?

あのねぇ~、僕は先日 次の記事を書いたのですよ。。。

 

AIによる作文

 


(capcut60.jpg)


『拡大する』

『実際のページ』

 

赤い楕円で囲まれたリンクをクリックします。。。すると次のページが出てきます。。。

 


(capcut62.jpg)


『拡大する』

『実際のページ』

 

最も簡単なやり方は、ベティさんが書いた文章を書き込むのではなく、”/” を書き込むとAI writer がベティさんに成り代わって作文してくれるのです。。。”/” を書き込むと次の画面が出てきます。。。

 


(capcut61.jpg)


『拡大する』

『実際のページ』

 

“Write about love” とか ”movie history” という語句を入れるのですよ。。。もし思いつかなかったら、画面にお勧めの語句が3つ見えます。。。スクロールダウンすると 更にお勧めの語句が出てきます。。。どれも気に入らなかったら、右側の中ほどに ”See others”というリンクをクリックすると更にお勧めの語句が表示されます。。。僕は”Introduce AI development”を選んでみました。。。

 


(capcut61x.jpg)

 

選んだら赤い楕円で囲まれた  Generate video  をクリックします。。。 こうしてAIによって制作されたのが次のビデオ・クリップです。。。

 


(about-ai.jpg)

 

 

ちょっと見た感じは、ビデオ制作のプロフェッショナルが作ったような印象を与えますわねぇ〜。。。

そうなのですよ。。。素人が初めて作ったとは思えない。。。

でも、デンマンさんは語句を選択しただけだから、他に何もしていないということですよねぇ〜。。。結局、素人が選んだ語句に基づいて、AIがスクリプトを作成し、スクリプトにふさわしい画像を選択し、更にバックグラウンド・ミュージックをつけ加えてビデオクリップをを完成させたわけですよねぇ〜。。。

そういうことです。。。

つまり、どれだけ優れたAIを使うか? それによって作品の出来が決まるわけですわねぇ〜。。。


『AIによる作文』より
(2023年12月6日)

 

ベティさんが言ったように「どれだけ優れたAIを使うか?」それによって作品の出来が決まるわけですよ。。。この言葉で僕はひらめいたのです。。。果たして、上のビデオを自動制作したAIは、どれほど優れているのか?

それを見極(みきわ)めるために 日本最古の本 を入れて AI にビデオを作らせたのでござ〜ますかァ〜?

そうなのです。。。

 


(book11.jpg)


『拡大する』

『実際のページ』

 

日本語を入れてもビデオを作ってくれないので「日本最古の本」を英語で the oldest book in Japan と入れたのです。。。で、赤い丸で囲んだリンクをクリックすると、AI がスクリプトを作成してくれます。。。それが次の画面です。。。

 


(book14.jpg)

 

上の画面の右下の Generate video をクリックすると 次のような手順をふんで 自動的にビデオを制作してくれます。。。

 


(book15.jpg)

 


(book16.jpg)

 


(book18.jpg)

 

こうしてビデオを制作してくれます。。。  Export  をクリックすると パソコンのハードディスクに保存することができます。。。

 


(book19.jpg)

 

ファイルの名前を変えたり、解像度を変えたけれが、この画面でそうします。。。

 


(book21.jpg)

 

この画面で Tik Tok、YouTube、Facebook, Instagram にアップロードしてシェアすることもできます。。。パソコンに保存するときには赤い楕円で囲んだ Download をクリックします。。。

 


(book22.jpg)

 

こうして出来上がったビデオを YouTube にアップロードしたのが次のクリップです。。。

 

 

このビデオを作るのに AIが作成したスクリプトが次の文章です。。。

 


(shoki21.gif)

 

Welcome everyone!

Today, we will be discussing an intriguing topic: The oldest book in Japan.

The Nikkeijinsho, or “Nihon Shoki,” is often considered the oldest known Japanese book.

It was written around the 5th century AD, making it over 1500 years old!

This ancient work is a compilation of stories and legends from the Japanese mythology, focusing on the origins of the gods, and humans.

The Nikkeijinsho is considered a sacred text, and it has been revered by Japanese culture for centuries.

One fascinating aspect of this book is its unique structure.

It is divided into two main sections: the Shoki and the Murasaki Shogi.

The Shoki tells the story of the creation of the world and the gods, while the Murasaki Shogi is a tale of a great battle between gods and beasts.

In addition to its historical and cultural significance, the Nikkeijinsho has also played a role in the development of Japanese literature.

It has inspired many writers and artists throughout the ages, and its stories continue to be cherished and retold in modern Japanese literature.

In conclusion, the Nikkeijinsho is a remarkable piece of Japanese history and culture.

Its age and status as the oldest known Japanese book make it a fascinating subject for study and appreciation.

So, the next time you come across a copy of this ancient work, take a moment to appreciate its incredible contributions to the development of Japanese civilization.


ようこそみなさん!

今日は、日本最古の本という興味深いテーマについてお話します。

日系人書、または「日本書紀」は、既知の日本の本としては最古であると考えられています。

 


(book31.jpg)
‘ 

 

これは西暦 5 世紀頃に書かれたもので、1500 年以上の歴史があります。

この古代の作品は、神、そして人間の起源に焦点を当て、日本神話の物語と伝説を編纂したものです。

日系人書は神聖な文書とみなされ、何世紀にもわたって日本文化で尊敬されてきました。

この本の魅力的な点は、そのユニークな構成です。

書紀と紫将棋の大きく2つのセクションに分かれています

 


(book32.jpg)
‘ 

 

書紀は天地創造と神々の物語、紫将棋は神と獣の大いなる戦いの物語

 


(book30.jpg)
‘ 

 

日系人書は、その歴史的、文化的重要性に加えて、日本文学の発展にも役割を果たしてきました。

それは時代を通じて多くの作家や芸術家にインスピレーションを与え、その物語は現代の日本文学の中で大切にされ、語り継がれ続けています。

結論として、『日系人書』は日本の歴史と文化の素晴らしい作品です。

その古さと既知の最古の日本語書籍としての地位により、この本は研究と鑑賞にとって魅力的な主題となっています。

したがって、次にこの古代の作品のコピーに出会ったら、日本文明の発展に寄与した驚くべき貢献をじっくりと味わってください。

(デンマン訳)

 

AIも完璧ではないから間違うだろうと思ったのだけれど、マジで いくつか間違えましたよ。。。まず、「日本書紀」が最古の本だと書いてあるけれど、書紀は720年に完成したと言われているのです。。。「古事記」はそれより以前の712年に編纂されたと言われている。。。

上のスクリプトには「日本書紀」は西暦 5 世紀頃に書かれたものだと書いてますわねぇ〜。。。

そうです。。。5世紀といえば 400年代ですよ。。。完全に間違えてます。。。また、「日本書紀」が 日系人書 とも呼ばれていると書いてあるけれど、GOOGLEで調べても どこにも出てきませんでした。。。「日計人書」、「日経人書」、「肉桂人書」、「日型人書」…と思いつくままに似たような語句を入れたけれど、出てきませんでした。

「日本書紀」の構成は 「書紀」と「紫将棋」の大きく2つのセクションに分かれているとも書いてありますわねぇ〜。。。

そうなのです。。。『日本書紀』は、神代から持統天皇11年(697)までの記事からなり、本文30巻、系図1巻で構成されているけれど、「紫将棋」なんて聞いたことも読んだこともない。。。

ずいぶん間違えてますわねぇ〜。。。

そうなのです。。。これほど間違えるとは思いませんでした。。。

やっぱり、AI も完璧ではないのですねぇ〜。。。

完璧でない人間が作るものですからねぇ〜。。。間違いはありますよ。。。

でも、上のスクリプトは間違いだらけという感じですわ。。。

5年もすれば、もっと素晴らしいものができるでしょう。。。それを期待します。。。

 


(laugh16.gif)

【ジューンの独り言】


(june500.jpg)

 

ですってぇ~。。。

あなたも、AIを試してみて、間違いを見つけたことがありますか?

ええっ。。。「そんなことは、どうでもいいから、何か他に面白い話をしろ!」

貴方が、そう言うのであれば、デンマンさんがピンタレストで「ランジェリー 下着」のページを立ち上げました。。。

覗いてみてください。。。男性ならば、ムンムン、ムレムレになって元気をだしてください。。。

女性であれば、若い頃を思い出して、若やいだ気分になってくださいねぇ~。。。

 


(shitagi23-06-30.jpg)


『拡大する』

『実際のページ』

 

ええっ。。。「そんなことは、どうでもいいから、何か他に面白い話をしろ!」

貴方は、そのようなムカついた口調で 更に、あたくしに御命令するのですかァ~?

分かりましたわァ~。。。

じゃあ、ショッキングなニュースでもお伝えします。。。

かつて「セサミストリート」で子どもたちに慕われていた人気者のビル・コスビーは、芸能界では幅を利(き)かせて大きな“権力”を握り、百人近い女性に対してセックスを迫ったのです。。。

 

 

子どもたちに性的ないたずらをしなかったことが せめてもの罪ほろぼしですわァ~。。。

ええっ。。。「そんな事は、どうでもいいから、もっと他に面白い話をしろ!」

あなたは、そのような強い口調で 更に あたくしに ご命令なさるのですかァ~?

分かりましたわァ。。。。

では、あなたもビックリするような

忠臣蔵のとっても古い映画をご覧くださいまし。。。

なんと。。。昭和3年(1928年)制作の『忠臣蔵』ですわよう!

無声映画ですけれど、弁士の方がなかなかうまい説明をしてくださいますわ。。。

つい、引き込まれて観てしまうのですわ。。。

浅野内匠頭(あさの たくみのかみ)がどうしてヘマをしでかしたのか?

そのへんのところが詳しく映像に残っております。

観るだけの値打ちがありますわ。。。

では、どうぞ。。。

 

 

ところで、どうして小百合さんが

「軽井沢タリアセン夫人」と呼ばれるのか?

 


(sayuri5.gif)

 

あなたは ご存知ですかァ?

実は簡単な事なのですわよう。

小百合さんは軽井沢に別荘を持ったのですわ。

小さな頃から軽井沢に住むことが夢だったのですってぇ~。。。

分からない事ではござ~ませんわァ。

そもそも小百合さんが軽井沢に興味を持ったのは、朝吹登水子のエッセーなどを読んだことがきっかけだったとか。。。

現在、朝吹登水子の山荘、睡鳩荘(すいきゅうそう)は軽井沢タリアセンに移築されて公開されています。


(suikyu9.jpg)

それで、小百合さんは軽井沢タリアセンを訪れては睡鳩荘に足を運んで少女の頃の事を思い出すのが楽しみなんですってよ。

そういう訳で、デンマンさんが小百合さんのことを「軽井沢タリアセン夫人」と呼ぶようになったのですわ。

軽井沢・雲場池の紅葉

軽井沢のイルミネーション

秋の旧軽井沢銀座ぶらり散歩

とにかく、明日もデンマンさんが興味深い記事を書くと思いますわ。
だから、あなたも、お暇なら、また読みに戻ってきてくださいまし。
じゃあねぇ~~。


(hand.gif)

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(linger65.gif)

■ 『きれいになったと感じさせる

下着・ランジェリーを見つけませんか?』

■ 『ちょっと変わった 新しい古代日本史』

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(house22.jpg)

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別荘を持つことを夢見る小百合さんの物語』

『熟女下着』ジューンさんの熟女下着 June Adams 下着美人
(30june.jpg)

『センスあるランジェリー』


(surfing9.gif)


(sayuri5.gif)

ところで、平成の紫式部こと、卑弥子さんは見かけによらず、京都の女子大学で腐女子に「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授という肩書きを持っています。

卑弥子さんの面白い話をもっと読みたい人は
下のリンクをクリックして読んでみてくださいね。


(zurose2.jpg)

『女帝の平和』

『アタマにくる一言』

『悪女レオタード@昌原市』

『スウィートビーン』

『ガチで浦島太郎やし』

『ご苦労さま』

『デンマンのはなし』

『卑弥呼の墓』

『室生犀星と人間学』

『松平春嶽ダントツ』

『英語は3語で伝わる』

『くだらない物』

『漢字で体操』

『面白い漢字テスト』


(hama10.jpg)

『日本のエロい文化』

『女のオナラ』

『紫式部と宮本武蔵』

『頼朝の死の謎』

『パンツと戦争』

『海外美女 新着記事』

『日本語を作った男』

『江戸の敵を長崎で』

『芸術は尻だ』

『尻の芸術』

『左翼的な下着』

『エロい源氏』

『ネット市民は見ている』


(costa04b.jpg)

『朝妻船』

『阿修羅を探して』

『羅漢と良寛』

『源氏エロ』

『元寇船』

『ハマガソ』

『歴史ロマン@バンコク』

『平安のキス』

『大久保独裁政権』

『愛情ゲットの呪術』

『源氏物語とおばさん』

『たこつぼ探し』

『光源氏の弟』

『勝負服』

『大伴家持の野心』

『そこが天才の偉いとこか?』


(annasalleh.jpg)

『生パンツカテゴリー』

『大衆文学』

『車中も亦臭し』

『聖徳太子の母親』

『笑える電報』

『忠臣蔵のウソ』

『天照大神@マレーシア』

『エロ@韓国』

『レオタード姿@女子大』

『美人と接吻』

『パンツに下痢』

『阿仏尼』

『楊貴妃@満州』

『ズロースを探して』

『四睡図』


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『レオタード姿』

『熟女のうずき』

『苫田郡香タ美』

『エロエロ』

『ハーレーダビッドソン』

『貂蝉(ちょうせん)』『平成の卑弥子』

『北国方言』

『人妻』

『温泉で濡れ濡れ』

『痴漢バス』

『フォローしました』

『どこの応天門』

『浜野矩随』

『空白の150年』

『150年の空白』

『美術芸術ヌード』

『あんどん かつどん』

『ヌード第1』

『汚いパンツを見て』

『神聖少女』

『良寛さん@台湾』

『入れ墨熟女』

『忍藩の下級武士』

『熟女の入れ墨』

『ズロースで女装』

『日本語の難しさ』

『人間ドキュメント』

『ブラジル人溺死』

『確信という誤解』

『碁に夢中』

『浦島太郎を探して』

『キャドバリーチョコ』軽井沢タリアセン夫人の小百合さんが扮するゴディバ夫人 Sayuri
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(byebye.gif)

碁に夢中

 

碁に夢中

 


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デンマンさんは碁に夢中になってしまうタチなのでござ~ますかァ?


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いや。。。僕は碁も将棋も強くないから、最近では 対戦をしてませんよ。。。碁を始めたとしても、たいていすぐに負けてしまうので、まず夢中になるようなことはありません。。。

それなのに、どういうわけで 碁に夢中 というタイトルにしたのですかァ~?

つい最近、古今亭志ん朝の落語『文七元結』を聴いたのですよ。。。

 


(shincho20.jpg)

 

文七元結

 

文七元結(ぶんしち もっとい)は、三遊亭圓朝の創作で、落語のうち、人情噺のひとつ。

登場人物が多く、長い演目であり、情の中におかし味を持たせなくてはならないという理由から、難しい一題とされ、逆に、これができれば一人前ともいわれる。
『人情噺文七元結』として歌舞伎でも演じられる。

成り立ちは、幕末から明治初期にかけての江戸。
薩摩・長州の田舎侍が我が物顔で江戸を闊歩していることが気に食わず、江戸っ子の心意気を誇張して魅せるために作ったとされる。
江戸っ子気質が行き過ぎて描写されるのはこのためである。

中国で伝承されてきた話をベースに、三遊亭圓朝(初代)が創作した人情噺の大ネタである。
1889年(明治22年)の『やまと新聞』に速記が載っている。

「元結(もとゆい、もっとい)」とは、髷(まげ)の根を結い束ねる紐のことで、「文七元結」は江戸時代中期に考案された、実在する元結である。
長くしつらえた紙縒(こより)に布海苔と胡粉を練り合わせた接着剤を数回にわたって塗布し、乾燥させたうえで米の糊を塗って仕上げた元結が「文七元結」であり、「しごき元結」「水引元結」とも称した。
「文七元結」の名称は、桜井文七という人物の考案とも、下野国(栃木県)産の文七紙を材料として用いるからともいわれている。

「角海老(かどえび)」は「佐野槌(さのづち)」と圓朝が演じた記録もあり、今日では多くの演者が「佐野槌」で演じる。

「近江屋」の所在地は、白銀町とするものと日本橋横山町とするものがある。

終盤、近江屋卯兵衛が祝儀の酒と切手を買い求めてくる酒屋小西は、「あたご小西」と名を変え店舗の場を移して現存している。

 

あらすじ

江戸は本所達磨横町(墨田区)に住む左官の長兵衛は、腕は立つのだがばくち好きが高じて借金を抱え、その借金を返すために更にばくちにのめり込んでいる。
年の瀬も押し迫るある日、今日もばくちに負けて身ぐるみ剥がされた長兵衛が賭場から帰ってくると、娘のお久が行方知れずになっている。

女房のお兼は、ばくちにのめり込んで家庭を顧みないおまえのせいでお久が家出したのだと長兵衛を責める。
夫婦喧嘩をしているところに、普段より世話になっている吉原の女郎屋の大店「角海老」から使いのものが来て、お久は角海老の女将の所に身を寄せていると告げ、長兵衛を角海老に呼ぶ。

角海老の女将は、お久が父の借金を返すために身売りをして金を工面しようとし、女将のところへ頼みに来たことを告げた上で、長兵衛に五十両の金を貸し、お久は自分が預かって身の回りの世話をさせるが、おまえが次の大晦日までにこの金を返せなかったらお久を女郎として店に出すよと告げる。

改心した長兵衛は五十両を懐に入れて帰路につくが、吾妻橋にさしかかると若い男が身投げをしようとしているので慌ててとめる。
男は白銀町の鼈甲問屋「近江屋」の奉公人の文七で、さる屋敷へお使いを頼まれて集金した帰りに五十両の大金をすられたので死んで詫びようとしていたのだった。

長兵衛がいくら言い聞かせても文七は考えを改めない。
とうとう長兵衛は懐の五十両を取り出し、これは娘のお久が「角海老」に身を売って作ってくれた金だと伝え、これでお前の命が助かるのならと五十両を文七に押しつけようとする。
文七は何度も断るが、長兵衛は金を文七にたたきつけて逃げるように去ってゆく。

文七はおそるおそる主人卯兵衛の元に帰り、長兵衛からもらった金を集金した金だと偽って五十両の包みを差し出すが、文七がすられたはずの金はなぜか既に主人の手元にある。
実は文七は主人の遣いにいった先で囲碁に夢中になって時間を過ごし、慌てて帰る際に売掛金をそっくりそのまま忘れてきてしまったので、使いの者が届けてくれていたのだった。
一体どこからまた別の五十両が現れたのかと主人が問いただすと文七は事の顛末をあわてて白状し、お久が預けられている「角海老」の名も番頭にあれこれ問われているうちに思い出す。

翌日、卯兵衛が供の文七に二升の酒と切手を持たせて長兵衛の長屋へとおもむくと、長兵衛と女房のお兼が無くなった金のことで夫婦げんかをしている。
卯兵衛は事の次第を説明し、謝罪した上で五十両を長兵衛に返そうとする。

長兵衛は「江戸っ子が一度出したものを受け取れるか!」と拒否するが、揉めた挙句にようやく受け取ることにする。
卯兵衛は、これを縁に文七を養子にしてほしい、近江屋と親戚付き合いをしてもらいたいと頼み、持ってきた酒と切手を差し出す。
更に肴も受け取ってほしいと表から呼び入れたのは、近江屋が角海老から身請けをして美しく着飾ったお久だった。

文七とお久はやがて夫婦になり、近江屋から暖簾を分けてもらって麹町六丁目に元結の店を開いたという。

 

長兵衛が文七に金を渡す動機

我が娘を犠牲にしてまで赤の他人に金を恵む。この常人では到底不可能な事をしてのける長兵衛がどういう動機で金を恵むかについて、演者により様々な解釈がある。

6代目三遊亭圓生、5代目古今亭志ん生は娘は傷物になっても死ぬわけではないがお前は死ぬという、見殺しにしては寝覚めが悪いからと嫌々ながらに金をやる。
林家たい平や柳家喬太郎もこの流れである。

対して林家彦六(8代目正蔵)や柳家小三治 は50両のために主への忠義を通して死のうとする文七に感じ入り、所詮自分には縁のなかった金と諦めて女郎屋に借りた金を返さないと覚悟を決めた上で与えてしまう。金に対する未練がみじんもない点に特徴がある。

おもな演者

三遊派のネタとして、初代三遊亭圓右、4代目橘家圓喬、5代目三遊亭圓生、6代目三遊亭圓生、林家彦六(8代目林家正蔵)、5代目古今亭志ん生、3代目古今亭志ん朝など歴代の大真打が得意とした。

上方では2代目桂ざこばが演じる。

名演とされるものに6代目三遊亭圓生のものがあり、すべての面で他の手本となるような緻密な演出は今なお評価が高い。
8代目正蔵、病後のゆっくりした口調の5代目志ん生も名演といわれる。

志ん生は貧乏を知り尽くしたゆえの深い味わいがあると評される。
その子志ん朝の噺は特に50両を文七にあたえるまでの長兵衛の心理描写の鮮やかさに定評がある。

 

演者による様々な改作

不自然な部分が多いため、演者によって色々な改作が施されている演目でもある。

3代目古今亭志ん朝は真夜中にお久が一人で本所から吉原まで歩くのは不自然であるとして、大引け(午前2時)過ぎから中引け(午前12時)過ぎに時刻を変えている。

3代目三遊亭圓丈は結末で唐突にお久と文七が結ばれる点を、以前から恋仲であったという伏線を張った上で、2日間にわたる話を大晦日1日の出来事に短縮している。

立川談春は50両もの大金を、どんなに高給な左官職でも年内で返済できる筈がないとして、返済期限を2年に延ばしている。

 

桜井文七

初代桜井文七は実在人物である。天和3年(1683年)美濃国(岐阜県)に生まれ、元禄年間に信濃国(長野県)飯田に流れてきた紙漉き職人で、水に強く引っ張っても切れない紙紐の製造に成功し、文七元結の名で全国で有名になった。

その後江戸で活躍し、宝暦3年(1753年)飯田に戻り、同地の長昌寺に葬られた。

江戸で有名な元結屋で、代々「文七」を襲名されていたため圓朝がモデルにしたと伝わる。
2010年(平成22年)に長昌寺で奉納落語が行われた。


出典: 「文七元結」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

あれだけお金に困っていた長兵衛が せっかく借りることができた50両を 見も知らぬ文七にくれてやるというのは、江戸っ子でも なかなかできないでしょうねぇ~。。。落語として誇張されてはいるけれど、でも、感動的ないい人情噺ですわァ~。。。



もともと、この話を作った三遊亭圓朝は、薩摩・長州の田舎侍が我が物顔で江戸を闊歩していることが気に食わず、江戸っ子の心意気を誇張して魅せるために作ったので、誇張されているのですよ。。。

でも、どういうわけで この人情噺を取り上げたのでござ~ますか?

文七が碁に夢中になるタチなので、ついつい碁に引き込まれてしまい、うかつにも預かった50両の金を忘れて帰ってきた。。。途中で、男に突き当たられて、懐に手をやると 持ってきたはずの50両がないと気づいて、スリに取られたと思い込んでしまった。。。

デンマンさんにも、思い当たることがあるのでござ~ますか?

僕も若い頃は 粗忽(そこつ)なところがあって大金ではなかったけれど、預かったお金を置き忘れてきて、どこかに落としてきたと思い込み、あとで母親にこっぴどく叱られたことがありますよ。。。

でも、出てきたのでござ~ますかァ~?

僕が置き忘れたから、すぐに気づいた親類の者がお袋に電話をかけたのですよ。。。 僕は、全く知らないから、これは大変なことになったと、冷や汗をかきました。。。それからは、お金に関しては、十分に気を付けるようになりました。

その後、2度と置き忘れは しなくなったのでござ~ますか?

これまでに、同じ間違いをしていません。。。多分、 文七を含めて 僕のような経験をした人が けっこういると思うのですよ。。。だから、落語にも碁に夢中になって それがもとで大事件に発展する噺が他にもあるのですよ。。。古今亭志ん朝の『柳田の堪忍袋』という落語がそれです。。。

 


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あらっ。。。このお噺も感動的な人情噺ですわねぇ~。。。

そうです。。。この噺は、もともと講談のネタで、それを落語にした噺です。。。三代目春風亭柳枝が得意とした。近年では五代目古今亭志ん生、そして子息の十代目金原亭馬生、三代目古今亭志ん朝の得意ネタになった。

 

柳田の堪忍袋 あらすじ

 


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彦根藩井伊家の藩士である柳田格之進は、生来の正直さが災いして主家から放逐され、浪人になった。
その後、妻に先立たれ娘のおきぬとともに浅草阿部川町の裏店に逼塞している。

今日の米にも困る暮しぶりだが、そんな中にあっても武士の誇りを捨てない実直な人柄は少しも変わることはない。
彼を慕う浅草馬道一丁目の両替商、万屋源兵衛とともに碁を打ち酒を酌み交わすのが、ただ一つの楽しみだった。

8月15日の夜、格之進は万屋宅で月見の宴を張り、いつものように離れ座敷で碁を打つ。
格之進の帰宅後、番頭の徳兵衛は主人の源兵衛に碁の最中に預けた50両はどうなりましたかと尋ねる。
そこで50両の大金が無くなっていることに気づき徳兵衛は格之進を疑うが、源兵衛は「あのお方に限ってそれはない、仮にそうだとしても何か仔細があったのだ」と、番頭を諭す。

しかし、徳兵衛は主人に内緒で格之進宅に赴き50両の行方を問いただす。
「いやしくも身共は武士、何ゆえあってかような疑いをかけるか」と激する格之進に対し、徳兵衛はいずれにしても大金が消えたのは事実だから奉行所へ金の紛失を届けるという。
たとえ身に覚えはなくとも、奉行所の取り調べを受けることは不名誉とし、格之進は明日までに金の支度をすると約束する。

格之進は自害するつもりで、おきぬにそれとなく別れを告げるが、おきぬは自ら吉原へ行き金を工面するという。
そして盗んでない以上、いずれ50両は見つかるでしょうから、そうしたらその金で身請けし、源兵衛と徳兵衛を斬って武士の体面を守ってくださいと言い、格之進は断腸の思いで娘を売って金を作る。

格之進は、やってきた徳兵衛にあくまで自分は盗んでいないと念を押して金を渡し、もし50両の金が見つかった場合は、どうするつもりか?と尋ねる。
金がある以上、格之進が盗んだと確信した徳兵衛は二つ返事で、もし金が見つかったら自分と主人の首を差し出すことを約束する。

徳兵衛は帰ってくると主人に事のあらましを報告する。
仮に格之進が盗んでいたとしてもほっとけば良いと考えていた源兵衛は怒り、余計なことをして柳田様に無礼を働いたと叱り飛ばす。
そして謝罪するべく急いで格之進宅へ向かう2人であったが、既に家は引き払われた後だった。
しばらく源兵衛は格之進を捜すよう店の者に言いつけるか、次第に忘れられ年の瀬となった。

年末のすす払いで、無くなった50両が見つかる。
そこで源兵衛は小用の際に自分が隠したことを思い出し、格之進に申し訳ないことをしたと悔やみ再度、彼を捜すよう店の者達に号令を出した。

年が明けて正月の4日、徳兵衛は年始回りの帰りに湯島天神の切通しで、身なりの立派な武士から声を掛けられる。
それは柳田格之進であり、聞けば、格之進は主家への帰参が叶い、今や江戸留守居役に出世したのであった。
徳兵衛は震えながらも格之進に付き合い茶屋へ入ると、咽びながら50両が見つかったことを話し詫びる。
これを聞いた格之進はからからと笑い、明日、店へ参るから首を洗って待てと伝える。

徳兵衛から話を聞いた源兵衛は翌日、彼を無理に外に使いに出すと、死を覚悟して格之進を迎える。
そして源兵衛は自分が格之進へ取り立てを命令したと徳兵衛を庇い、首を討つのは自分だけにして欲しいと言う。
そこに主人の思惑に気づいていた徳兵衛がやってきてあくまで自身が勝手にやったことだと訴える。

2人の言い分を聞いた格之進は刀を抜くが首ではなく碁盤を真二つに斬る。
格之進は庇い合う2人の情けに打たれ斬るに斬れなかった。

日頃の貧しい生活を知っていた源兵衛は、どのように50両を工面したのかと格之進に尋ねる。
娘が親子の縁を切って吉原に身を沈めて工面した50両だと格之進は正直に答える。

源兵衛は、恐縮して徳兵衛に命じ おきぬを見受けした。
これを機会に、柳田家と万屋家の親交まますます親密になり、やがて番頭の徳兵衛と おきぬは結ばれ夫婦養子として万屋家に迎えられる。
やがて男の子が生まれると、その子を格之進が養子に迎えて、柳田家の跡目を相続させる。


出典: 「柳田格之進」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

つまり、番頭の徳兵衛は格之進が盗んだと確信したのですわねぇ~。。。

そうです。。。だから格之進が、やってきた徳兵衛にあくまで自分は盗んでいないと念を押して金を渡し、もし50両の金が他の場所で見つかった場合は、どうするつもりか?と尋ねる。。。徳兵衛にしてみれば、盗んだのは格之助に違いないと確信していたから、「もし金が見つかったら自分と主人の首を差し出す」と軽々しく答えたのですよ。。。絶対に、50両の金が出てくることはない、と確信していたからです。。。

源兵衛は、格之助が50両の金を盗むような人ではないと、信じていたけれど、徳兵衛のオツムの中では格之助以外に盗む人はいないと信じたのでござ~ますわねぇ~。。。

そういうことです。。。結局、格之進が50両を盗んだという徳兵衛の思い込みは確信という誤解だったのですよ。。。

この噺は、現実にあった出来事だったのでしょうか?

いや。。。あまリにもよく出来た噺なので、僕は現実にあった出来事だとは思えない。。。格之助が300石の留守居役として帰藩したと言うけれど、正直すぎてウザい人物だと思われていた人が帰藩したとは考えにくい。。。

でも、それはデンマンさんの確信という誤解なのではありませんかァ~?

あのねぇ~、現実の世界を見てみると、上の話のようにハッピーエンドにはならないのですよ。。。番頭の徳兵衛のように思い込みを「確信」と信じて、不幸や悲劇を招いてしまう。。。例えば、「50両」が出てきても見て見ぬ不利をして、徳兵衛は何が何でも自分の思い込みを真実として押し通るのですよ。。。

そういう事件が実際にあるのでござ~ますかァ~?

あったのです。。。次の記事で書いた事件ですよ。。。

 

 

警視庁のメンツ

 


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デンマンさん。。。、警視庁のメンツ に関わるような事件を日本で起こしたのですかァ~?


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僕は、そういう だいそれたことはしません。。。僕は いたって善良で従順な人間ですよ。。。

そう言う人に限って世界を騒がせるような事件を起こすものですわァ~。。。

僕はバンクーバーに住んでいるのですよ。。。わざわざ日本で凶悪事件を起こすような理由がありません。。。

じゃあ、いったい どういうわけで 警視庁のメンツ を取り上げたのですか?

あのねぇ~、ユーチューブで「人間ドキュメント」を探していたら次のクリッぷに出くわしたのですよ。。。

 


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この事件が起きた時、僕は日本に帰省中でテレビの速報を見て驚いた記憶があるのです。。。

いったい どういう事件だったのですか?

次のような事件だったのですよ。。。

 

警察庁長官狙撃事件

 


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警察庁長官狙撃事件は、1995年(平成7年)3月30日に当時警察庁長官の國松孝次が何者かに狙撃された事件である。

2010年(平成22年)3月30日に、殺人未遂罪の公訴時効(15年)を迎えた未解決事件である。

1995年(平成7年)3月30日午前8時31分頃、國松孝次警察庁長官が出勤のため東京都荒川区南千住の自宅マンションを出たところ、付近で待ち伏せていた男が拳銃を4回発砲。

國松はそのうち3発を腹部などに受け、日本医科大学付属病院高度救命救急センターに搬送された。
一命は取り留めたが、全治1年6か月の瀕死の重傷を負った。

男は自転車でJR南千住駅方面に逃走するのが通行人に目撃され、現場からは、朝鮮人民軍のバッジや大韓民国の10ウォン硬貨が見つかったという。

狙撃から1時間後にテレビ朝日に電話がかかる。
電話の声は、國松に続く次のターゲットとして、井上幸彦警視総監や大森義夫内閣情報調査室長らの名前を挙げて、教団への捜査を止めるように脅迫した。

10日前の3月20日に地下鉄サリン事件が発生し、オウム真理教に嫌疑が向けられて8日前の3月22日に、オウム真理教関連施設への一斉強制捜査が行われていた

國松は手術中に心臓が3度も止まり危篤状態にまで陥ったが、2ヵ月半後には公務へ復帰した。

銃を発砲した犯人は身長170 – 180 cm。黒っぽいレインコートに白いマスクを着用し、黒っぽい帽子を被っていたとされている。

 

捜査

オウム真理教信者だった警視庁巡査長(事件当時31歳)は取り調べに対し、犯行の具体的な状況や、銃を神田川に捨てたことを1996年(平成8年)5月には詳細に供述していた。

 


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しかし、警視庁公安部はその事実を警察庁に5ヶ月間報告せず、世間に明るみに出ることもなかった

同年10月、マスコミ各社に「犯人は警視庁警察官」とする告発文書が捜査関係者と思われる匿名の人物から郵送され、10月25日には各社が供述を報道し始める。

同年10月27日には「銃を捨てた」という供述に基づき神田川を捜索するも、事件から既に1年半以上経過しており、川底にヘドロが堆積していたこともあり発見には至らなかった。

物証が発見されず、供述に矛盾点が多いとして立件は1997年(平成9年)6月に見送られた。

なお、この巡査長はオウム幹部に情報を漏洩したとして1996年11月に懲戒免職され、1997年1月には地方公務員法違反容疑で書類送検されるものの起訴猶予処分となった。

この供述を警察庁に報告しなかった責任から、警視庁は公安部長更迭と警視総監辞職に到った

またテレビ朝日に脅迫電話をかけたとして教団建設省幹部が1995年9月に職務強要罪で逮捕された。
最新の声紋鑑定機器での鑑定や電話の録音音声を複数の信者に聞かせた結果では90%の確率で同一人物とされたが「現段階での起訴は困難」として不起訴となった。

特別捜査本部は1999年(平成11年)に捜査のやり直しを決定し、捜査員が元巡査長との接触を繰り返すと新たな供述が捜査結果と合致するようになったことから、事件発生から9年余りを経た2004年(平成16年)7月7日、元巡査長の会社員、岐部哲也・教団防衛庁長官(当時)、教団建設省幹部の計3人が殺人未遂容疑で警視庁に逮捕された。

さらに、教祖・麻原彰晃の最側近だった当時の石川公一・教団法皇官房次官(事実上の長官)も島田裕巳宅爆弾事件の爆発物取締罰則違反容疑で別件逮捕された。

しかし、元巡査長の供述が二転三転し、他の3人も当初から「自分は関係ない」と事件との関わりを否認するなど、証拠固めが困難になってきたことや容疑者らと実行犯との関係と役割が解明出来ないことから、東京地検は勾留期限を前に全員を処分保留とし7月28日に釈放され、9月17日に不起訴となった。

 


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警視庁の特別捜査本部は、坂本堤弁護士一家殺害事件などで死刑判決を受けた早川紀代秀と端本悟を現場指揮役と実行犯と疑っているが、2人は犯行を否定している。

2008年(平成20年)3月、オウム真理教とは関係ない別の強盗殺人未遂事件で逮捕された男が犯行を示唆する供述をしていると報道された。

 


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公訴時効後

2010年(平成22年)3月30日午前0時に公訴時効到来。

3月30日には、警視庁公安部長青木五郎が記者会見を開き、公訴時効が午前0時を以って成立したことと共に、この事件がオウム真理教の信者による組織的なテロリズムであるとの所見を示したが、この記者会見に対し、識者から批判が相次いだ

記者会見では、14ページの「捜査結果概要」を公表し、この中で麻原を含めた教団元幹部や元信者ら計8人(麻原を除く7人は匿名)について、それぞれの行動や会話内容などを列挙したものの「犯行に関与した個々の人物やそれぞれの役割を、刑事責任の追及に足る証拠をもって解明するには至らなかった」とした。

 

犯行説

警視庁内部では、公安部がオウム犯行説を主張し、刑事部が強盗殺人未遂犯による犯行説を主張し、捜査方針が対立していた。

 


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犯行直後の狙撃現場の証拠はオウム犯行説に分があるとされ、凶器に関する証拠については強盗殺人未遂犯説に分があるとされていたが、どちらも決定的な決め手が欠けている。


出典: 「警察庁長官狙撃事件」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

つまり、この事件は警視庁内部で公安部と刑事部が対立していたのですねぇ~。。。

そうなのですよ。。。双方とも縄張り意識があって、情報を共有しないのです。。。この事件が起こる10日前の3月20日に地下鉄サリン事件が発生し、オウム真理教に嫌疑が向けられ、8日前の3月22日に、オウム真理教関連施設への一斉強制捜査が行われていた。。。しかもオウム真理教信者だった警視庁巡査長(事件当時31歳)が自首してきた。。。こういう経緯から、公安部が担当して、オウムが関係あると言う前提で捜査を始めたのですよ。。。

公安部というのはどういう事件を扱うわけぇ~?

あのねぇ~、警視庁公安部は、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の人権指令により廃止された警視庁特別高等警察部の後継組織とされているのですよ。。。だから、戦前の特高が扱うような事件を担当するわけ。。。つまり、国家の安全を脅かすような事件ですよ。。。だから、このテロ事件は公安部が担当することになったわけです。。。

つまり、警視庁の中では刑事部よりも威厳があるわけねぇ~。。。

建前は上下の関係じゃなく同等なのだけれど、警視庁は唯一公安部を置いており、所属警察官約1100名を擁し、最大規模の公安警察官を抱えているのですよ。。。

じゃあ、どういうわけで刑事部が関わりを持ったのォ~?

刑事部と言っても、殺人事件を扱う捜査一課が別の強盗殺人事件を捜査しているうちに、中村泰が「警察庁長官狙撃事件」と関係あることを突き止めたのですよ。。。

 


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あらっ。。。東大を中退しているのねぇ~。。。学費が収められなくなって中退したのォ~?

いや。。。学生運動にのめり込んだのですよ。。。中村は、教えを受けていた教授にノーベル賞がもらえるほど優秀だったと言われた。。。

 


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そもそも、中村が「警察庁長官狙撃事件」と関係あると思われたきっかけは、中村が現金輸送車から5000万円を奪って逃走したことなのですよ。。。

その捜査をしているうちに「警察庁長官狙撃事件」と関係あるモノが出てきたのですか?
 
そうなのですよ。。。スクラップブックに、「警察庁長官狙撃事件」のおびただしい新聞記事や週刊誌の記事が、ベタベタと貼ってあったのですよ。。。

そもそも、どういうわけで5000万円を奪ったのですか?

活動資金ですよ。。。中村は、暴力革命を目指していたのです。。。

暴力革命だなんて、精神に異常をきたしたのではありませんかァ~?

でもねぇ~、あの学生運動を経験した人たちの中には、革マル派とか、中核派の活動家になって、ハイジャックしたり、テルアビブ空港で乱射事件を起こした人がいるのですよ。。。だから、中村が暴力革命に走るには、それほど突拍子もない事ではないのです。。。しかも、中村の生い立ちを見ると、暴力革命に走るのもうなずけるのです。。。

 


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5.15事件に関わった橘孝三郎が主宰する「愛郷塾」に中村が入門したのは17歳の時です。。。革命思想は中村にとって少年の頃から慣れ親しんでいた思想なのですよ。。。

 


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中村は実際に革命に参加したのですか?

参加したのです。。。中村は強盗殺人罪で刑務所で服役している間にスペイン語を独学してチェ・ゲバラの言行録を読み漁(あさ)ったのですよ。。。

 


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刑務所を出所したのが45歳。。。その年でニカラグアへ飛んで革命軍に加わろうとしたけれど、休戦状態になり野望を達成できずに帰国したのです。。。

 


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45歳を過ぎてニカラグアの革命軍に参加するなんて、普通の人には出来ませんよねぇ~。。。

中村は行動の人なのですよ。。。警察官も射殺しているけれど、彼にとって犯罪は暴力革命の資金集めに必要な事だから、罪悪感は意識してないと思いますよ。。。

でも、見つかれば刑務所で服役しなければならないでしょう。。。中村は青春を刑務所の中で過ごさなければならなかった。。。そうでしょう?

しかし、刑務所の中でも無為に過ごしてませんよ。。。スペイン語を独学して、チェ・ゲバラの言行録を読みふけったと言うのだから。。。

。。。で、なぜ警察庁長官を狙撃したのですか?

あのねぇ~、中村は軍事訓練を受けるために渡米したのです。。。

 


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この訓練を受けたおかげで、拳銃の腕前は50代にしては素晴らしく、後で担当の刑事が、警察学校の銃撃の教官よりも優れていると言ったほどですよ。。。その素晴らしい銃撃を見ていた林という男が「日本人ですか?」と声をかけたことで、二人は同じような考えを持っており、意気投合したのです。。。

二人は一緒に暴力革命を起こそうと話しあったのですか?

そうです。。。中村がニカラグアの話をすると、海外じゃなくて日本で起こすべきだとうことになり、二人は武器、弾薬をアメリカで購入して、分解して日本へ密輸したのです。。。

 


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日本へ帰って、これからの暴力革命の準備をしている時に、立て続けにオウムの事件が起きた。。。警察の捜査が甘くて、サリン事件が起きると、中村は日本の警察の甘さにムカついた。。。当然、警察のトップは責任を取らねばならない! そういうわけで警察庁長官を殺害して責任を取ってもらおうとしたわけです。。。

それにしても公安部は全く見当違いな捜査をしていたわけですわねぇ~。。。

そうです。。。オウムが警察庁長襲撃事件の前に、あれだけの事件を起こしたのだから、公安部がオウムがやったのだろうと思うのは当然のことです。。。でもねぇ~、刑事部がこうして中村がやったと、完全に裏付けを取ったにもかかわらず、公安部はオウムにこだわりを見せた。。。

 


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しかも、事件が時効になったときの記者会見で、ぬけぬけと何の根拠もないのに公安部はオウムがやったテロだと決めつけたのですよ。。。こうして記者会見を開いたのが公安部だから、犯行がオウムと関係なかった、と言ったら面目丸つぶれ。。。そう思って、こういう猿芝居をうったのです。。。

 


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刑事部の捜査員が見たらお笑いモノですよ。。。

どうして、そのようなごまかしを公安部は本気でしたのですか?

警察というものは、事件が起きると、まず自分たちに都合の良い筋書きを書くのですよ。。。それに沿って捜査を始める。。。だから冤罪が多い。。。でも、もともとオウムとは関わりのない事件を追っていた刑事部捜査一課は、中村のスクラップブックに警察庁長官狙撃事件の新聞や週刊誌の記事がベタベタと貼ってあるのを見つけ中村が犯行に関わっていると思ったわけです。。。

でも、そういう情報が解っているのに、公安部はどうして刑事部の捜査を認めないのですか?

だいたい、オウムの犯行だと筋書きを書いた公安部にとって、刑事部が真犯人を突き止めたというのは、認め難い。。。つまり、公安部のメンツですよ。。。

でも、警視庁のトップまでが公安部に迎合することはないではありませんか?

警視庁のトップも、公安部の部長から初めに説明を受けた時にオウム犯行説に同意したのですよ。。。つまり、公安部の言うことを同意した警視庁のトップもメンツにこだわったわけです。。。

そういう事があるのですか?

あるのですよ。。。組織というのは、そういうものです。。。

 


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刑事部捜査一課長の佐久間さんはマジで悔しかったでしょうねぇ~。。。

佐久間さんだって組織の中の人間ですからね、警視庁トップに楯突(たてつ)くわけにはゆかないのですよ。。。

それで泣く泣く組織の決断に従ったわけですか?

そういうことです。。。こういうところは、まさに日本的ですよ。。。アメリカやカナダでは、上司に対して間違いを指摘することは当たりまえのことです。。。

でも、上司にペコペコする人も居ますわ。。。

人間ですからね。。。日本人に似ているアメリカ人やカナダ人も居ますよ。。。

ところで中村さんはその後どうなったのですか?

 


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現金輸送車襲撃事件などで無期懲役が確定、岐阜刑務所で服役中です。。。上のビデオを制作した当時、90歳です。。。もしかすると、すでに亡くなっているかもしれません。。。

上の手紙は、捜査一課長の佐久間さんに当てたものですか?

いや。。。この事件を追及した事件記者が中村さんと何回となく面会して、熱意にほだされて事件の真相を中村が語り、上の手紙もこの事件記者に出したものです。。。

この事件記者は佐久間さんにも経緯を語ったわけですか?

そうです。。。捜査一課長の佐久間さんは次のように言ってますよ。。。

 


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まさにその通りだと思います。。。セクト主義、縄張りにこだわらないで、情報を共有し、組織が一つとなって向かってゆくべきなんですよ。。。


『警視庁のメンツ』より
(2023年8月1日)

 

上の未解決事件で「徳兵衛」は公安部長ですよ。。。警察庁長官狙撃事件が起こる10日前の3月20日に地下鉄サリン事件が発生し、オウム真理教に嫌疑が向けられ、8日前の3月22日に、オウム真理教関連施設への一斉強制捜査が行われていた。。。しかもオウム真理教信者だった警視庁巡査長(事件当時31歳)が自首してきた。。。こういう経緯から、公安部が担当して、オウムが関係あると言う前提で捜査を始めたのですよ。。。

つまり、公安部の思い込みが確信になったのですわねぇ~。。。

そうです。。。

。。。で、上の事件で「源兵衛」は誰ですか?

捜査一課長の佐久間さんですよ。。。犯人はオウムとは全く関係ない中村泰だと突き止めた。。。でも、残念ながら、警視庁の組織の中堅管理職だった。。。セクト主義、縄張りがあるから、それを乗り越えて自分の首をかけて警視総監に直訴しなかった。。。アメリカやカナダでは、自分の首を賭けて、組織のトップに直訴する勇気のある人も出てくる。。。日本では、そういう土壌はない。。。

そうでしょうか?

佐久間さんだって組織の中の人間ですからね、警視庁トップに楯突(たてつ)くわけにはゆかないのですよ。。。それで泣く泣く組織の決断に従ったわけです。。。

『柳田の堪忍袋』の噺が現実の事件ではなかった、とデンマンさんが考えるのはなぜでござ~ますかァ~?

あのねぇ~、上の噺の中では、徳兵衛と源兵衛は素直に自分の首を「お手打ち」のために差し出したけれど、実際には二人共死にたくないと思いますよ。。。つまり、実際には、徳兵衛は50両が出てきたことを格之進に打ち明けないと思います。。。

でも、源兵衛ならば、格之進に金を差し出して謝ったと思いますわァ~。。。

源兵衛の性格から、そうすることは十分に考えられる。。。でもねぇ~、そうだからこそ、徳兵衛は格之進に出会ったことを主人の源兵衛に話さなかったと思いますよ。。。

でも、それはデンマンさんの確信という誤解ではありませんか?

あのねぇ~、現実の事件を見ると、確信という誤解があまりにも多いのです。。。日本の警察と検察には確信という誤解が溢れています。。。だから、冤罪が多いのですよ。。。

 


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【ジューンの独り言】


(june500.jpg)

 

ですってぇ~。。。

警察と検察は確信という誤解が溢れている、とデンマンさんは言ってますけれど、そのために冤罪が多いのでしょうか?

興味があったら次の記事を読んでみてください。。。

 


(shikei02.jpg)


『なぜ死刑廃止?』

『大崎事件』

『無実の罪』

 

ええっ。。。「そんなことは、どうでもいいから、何か他に面白い話をしろ!」

貴方が、そう言うのであれば、デンマンさんがピンタレストで「ランジェリー 下着」のページを立ち上げました。。。

覗いてみてください。。。男性ならば、ムンムン、ムレムレになって元気をだしてください。。。

女性であれば、若い頃を思い出して、若やいだ気分になってくださいねぇ~。。。

 


(shitagi23-06-30.jpg)


『拡大する』

『実際のページ』

 

ええっ。。。「そんなことは、どうでもいいから、何か他に面白い話をしろ!」

貴方は、そのようなムカついた口調で 更に、あたくしに御命令するのですかァ~?

分かりましたわァ~。。。

じゃあ、ショッキングなニュースでもお伝えします。。。

かつて「セサミストリート」で子どもたちに慕われていた人気者のビル・コスビーは、芸能界では幅を利(き)かせて大きな“権力”を握り、百人近い女性に対してセックスを迫ったのです。。。

 

 

子どもたちに性的ないたずらをしなかったことが せめてもの罪ほろぼしですわァ~。。。

ええっ。。。「そんな事は、どうでもいいから、もっと他に面白い話をしろ!」

あなたは、そのような強い口調で 更に あたくしに ご命令なさるのですかァ~?

分かりましたわァ。。。。

では、あなたもビックリするような

忠臣蔵のとっても古い映画をご覧くださいまし。。。

なんと。。。昭和3年(1928年)制作の『忠臣蔵』ですわよう!

無声映画ですけれど、弁士の方がなかなかうまい説明をしてくださいますわ。。。

つい、引き込まれて観てしまうのですわ。。。

浅野内匠頭(あさの たくみのかみ)がどうしてヘマをしでかしたのか?

そのへんのところが詳しく映像に残っております。

観るだけの値打ちがありますわ。。。

では、どうぞ。。。

 

 

ところで、どうして小百合さんが

「軽井沢タリアセン夫人」と呼ばれるのか?

 


(sayuri5.gif)

 

あなたは ご存知ですかァ?

実は簡単な事なのですわよう。

小百合さんは軽井沢に別荘を持ったのですわ。

小さな頃から軽井沢に住むことが夢だったのですってぇ~。。。

分からない事ではござ~ませんわァ。

そもそも小百合さんが軽井沢に興味を持ったのは、朝吹登水子のエッセーなどを読んだことがきっかけだったとか。。。

現在、朝吹登水子の山荘、睡鳩荘(すいきゅうそう)は軽井沢タリアセンに移築されて公開されています。


(suikyu9.jpg)

それで、小百合さんは軽井沢タリアセンを訪れては睡鳩荘に足を運んで少女の頃の事を思い出すのが楽しみなんですってよ。

そういう訳で、デンマンさんが小百合さんのことを「軽井沢タリアセン夫人」と呼ぶようになったのですわ。

軽井沢・雲場池の紅葉

軽井沢のイルミネーション

秋の旧軽井沢銀座ぶらり散歩

とにかく、明日もデンマンさんが興味深い記事を書くと思いますわ。
だから、あなたも、お暇なら、また読みに戻ってきてくださいまし。
じゃあねぇ~~。


(hand.gif)

メチャ面白い、

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別荘を持つことを夢見る小百合さんの物語』

『熟女下着』ジューンさんの熟女下着 June Adams 下着美人
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『センスあるランジェリー』


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ところで、平成の紫式部こと、卑弥子さんは見かけによらず、京都の女子大学で腐女子に「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授という肩書きを持っています。

卑弥子さんの面白い話をもっと読みたい人は
下のリンクをクリックして読んでみてくださいね。


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『キャドバリーチョコ』軽井沢タリアセン夫人の小百合さんが扮するゴディバ夫人 Sayuri
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邪馬臺国

 

邪馬臺国

 


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デンマンさん。。。、どういうわけで邪馬臺国を取り上げるのでござ~ますかァ?


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あのねぇ~、僕は現実主義者と自称する現実君のことを2017年から追跡しているのですよ。。。

なぜですか?

2017年に僕のブログに下らないコメントを書いたのです。。。

つまり、現実君が、その時に邪馬臺国のことで誤ったコメントを書いたのでござ~ますかァ~?

いや。。。邪馬臺国とは全く関係ないコメントでした。。。

それなのに、どうして邪馬臺国を取り上げるのでござ~ますかァ?

この現実君が恩師として慕っているのが伊藤浩士先生なのですよ。。。それで現実君がしばしば伊藤先生のブログにコメントを書くのです。。。ところが、最近、現実君は反省したのか? あるいは落ち込んで引きこもってしまったのか? 伊藤浩士先生のブログに、全くコメントを書いてない。。。

あの多重人格症を患っている愚か者の神武君は、毎日のように伊藤先生のブログにコメントを書いてますわァ~。。。うふふふふふ。。。

現実君も、かつては愚か者の神武君のように、ほぼ毎日 伊藤先生のブログにコメントを書いていたのですよ。。。そういうわけで 僕は現実君のコメントを見るために、いつしか伊藤先生のブログを覗いてみるようになったのです。。。

つまり、最近、伊藤先生が 邪馬臺国 を取り上げたのでござ~ますかァ~?

そうなのですよ。。。短いので、ここに全文を書きだします。。。。卑弥子さんも読んでみてください。。。

 

邪馬臺国

 

 
 
日本の歴史研究の中で邪馬臺国ほど、素人の手でぐちゃぐちゃになってしまったものはないと思っています。
まともな研究は顧みられず、素人の珍説ばかりが出版されて売れて行く、そんな感じになっています。

邪馬臺国島原説は、書いた人が盲人だったという、内容とは別のところで話題になって持て囃され、臺は中国では神聖文字であったから蛮国の名に使用されるはずがないから邪馬壹国であったとか、四国の山上にあったとか、魏志倭人伝に書いてある旅程通りに行けば九州から南に行くからルソン島であったとか、その時代の日本列島は時計回りに90度南にずれていたから、倭人伝の旅程通りで大和に着く、その後の地殻変動で90度北に振れて今の位置にきたのだとか、無茶苦茶を言った者が勝ちになってきています。

倭人伝の旅程が、南に向かって長期間旅行することになっているので、そのまま行けば太平洋上に出てしまいますから、大和説は方角を修正していて、九州説は距離と日数を修正しています。
定説も無理をしているので、素人が珍説を展開して定説をひっくり返したような気分になることが可能なのです。

地理では結論が出ません、言語学で真実に迫るという考え方もあります。
魏の使者が住民に国の名を聞いたのですが、倭人に国という概念がないので、住んでいる場所を聞かれたと思い、耕地に接した小山の上に住んでいたので「山たい」と答えて、それが邪馬臺国と記録された

鹿児島であれば「山でごわす」と答えたはずで、京都であれば「山どすえ」と答えたはずで、大阪であれば「山でんがな」と答えたはずで、名古屋であれば「山だがや」と答えたはずなので、「山たい」と答えるのは北九州の人ということになります。

言語学的には邪馬臺国は北九州です。


デンマン注:
読みやすいように改行を加えています。
イラストはデンマンライブラリーより。
赤字はデンマンが強調のため。

『10月23日 … 邪馬臺国』より
2023-10-22 08:00:00
(伊藤浩士先生のブログ)

 

あらっ。。。目の付け所がユニークですわねぇ~。。。言語学的に邪馬臺国は北九州にあったと言うのですわねぇ~。。。

そうです。。。 僕も邪馬臺国は北九州にあったと思うのですよ。。。

それなのに、どういうわけで伊藤先生の「邪馬臺国」を取り上げたのでござ~ますかァ~?

魏の使者が住民に国の名を聞いたのですが、倭人に国という概念がないので、住んでいる場所を聞かれたと思い、耕地に接した小山の上に住んでいたので「山たい」と答えて、それが邪馬臺国と記録されたという説は非常に面白い、と思いながら読んだのですよ。。。でも、伊藤先生は10月27日にも邪馬臺国のことで記事を書いている。。。その中で「前回の邪馬臺国はネタでしたが、今回は真面目に考えてみます」と言っている。

つまり、伊藤先生は、半分 冗談のつもりで書いたのですわねぇ~。。。

そういうことです。。。読んでみて、僕はすぐに可笑しな事に気づいた。。。

どこが可笑しいのですか?

あのねぇ~、魏の使者は 240年の春に朝鮮半島にあった帯方郡を出発して北九州に向かったのですよ。。。今から 1780年も昔のことですよ。。。その当時、北九州に住んでいた倭人が現在の北九州の方言を使ったとは思えない。。。そう考えるのは、僕一人じゃない。。。Yahoo!知恵袋でも、この事で質問しているネット市民がいた。。。

 

倭国の女王卑弥呼の時代の

倭人の日常の話し言葉は?

 


(yamatai11.jpg)

 

話言葉は考古学でも歴史学でも発音が残るものではないのでどんな言葉を使っていたのかわからないと思いますがそれだけに興味があります。
そもそも倭人といっても、北方より北海道東北を通って入ってきた人たち、朝鮮半島を通って入ってきた人たち、南方より沖縄九州を通って入ってきた人たちがそれそれれ「くに」をつくっていたと思います。
当然それらの人々は言語が異なり文法も異なっていたと思います。

倭国争乱があり卑弥呼が女王として共立されたと魏志倭人伝にあります。
また邪馬台国は各地域と交易していたとあります。
それは考古学にても物資が流通していたことがみられると思います。
この場合皆がそれぞれ違った言葉を使っていたのでしょうか。

卑弥呼は各地域の言葉を統一したのでしょうか。
あるいはそれ以前から統一しつつあったのでしょうか。
その場合どの地域の言葉が主となったのでしょうか。
またそれはどんな言葉だったのでしょうか。

統一した場合主導権争いはなかったのでしょうか。
この統一した言葉は現代の日本語につながっているものでしょうか

また卑弥呼が魏に使いを贈り見返りに金印鏡などをもらったとありますが、このときはどんな言葉を使ったのでしょうか。
中国語(魏の言葉)でしょうが、ではどんな人が文章を作ったのでしょうか。


ベストアンサー

2012/1/22 0:18

確かに、古代、特に日本の国が出来始めた黎明期の言葉(特に発音)は興味深いところです。
私も以前に興味を持ったことがあり、自分なりに解釈したことを簡単に記載します。

まず、卑弥呼や大和王権初期の頃の言葉ですが、単語は今と比べて圧倒的に少なかったはず。
単語の数は、物質や情報の量など、いわゆる文明の程度に比例すると言われており、当時は身の回りの物を指す程度の単語しかなかったと考えられています。

例えば、「かね」と言う単語が今でも残っていますが、古代は全ての金属を指す意味でした(今もそう)。

現在は、各金属種類を指す単語(鉄、銅、金など)があり、この例だけでも単語の数の違いが想像できるかと思います。
又、古代からある単語は、多くが1~2文字でできているという特徴があります。山、川など。

これらの「単語の数が少なく」かつ「単語を構成する文字数が少ない」という点から、交易や移動により、簡単に言葉が揃いやすい環境にあったんだろうと思います。

ただ、どこかの言葉が中心になったことは間違いなく、その中心となった氏族は大和王権の祖先で、朝鮮半島から渡ってきた氏族だったろうと思われます。
文法が、日本語、朝鮮語とモンゴル語が(中国語と比較してほぼ)同じですから、朝鮮半島経由で日本に来た氏族がもっとも影響を与えたんでしょう
やはり、武力を持ち、求心力のあったこの氏族の言葉に、周りも合わしていった可能性が高いです。

あと、魏に行った際の言葉ですが、まず間違いなく中国語で話したはずです
卑弥呼の邪馬台国にしろ、大和王権にしろ、当時の先進地域である中国大陸からの帰化人を高級官僚として抱えていたと考えれますので、中国語には対応出来たでしょう。


ama********さん

2012/1/24 21:55

古代の場合は、言葉の地域差はもっと大きかったと考えられます。
しかし、交流が活発であれば、自然と言葉は共通化してくるので、方言の分布を見れば、古代の交流の様子もわかるかもしれません。

例えば、九州であれば、鹿児島県の言葉は非常に特異で、純粋な方言は他の九州の人でも全く分かりません。
一方で、福岡から佐賀・長崎・熊本は同じ系統の言葉です。

近畿地方でも京都や兵庫の北部はいわゆる関西弁ではありません。
山陰地方と同じ系統の言葉になります。このように言葉の分布を見ると、
古代からの関係がわかると言えるかもしれません。

古代は各地の交流が盛んだったことがわかっていて、それなりに意思の疎通は出来ていたようです。
身振り手振りで通じたのかもしれません。

また、中国との交流も古くからありましたが、これについては漢書や魏志倭人伝あるいは晋書などには、通訳がいたと書かれています
中国語を話せる人が日本にはいたことになります。
通訳がいるほど交流が盛んだったと言えるかもしれません

魏志倭人伝は、当時、中国から日本にやってきた梯儁と張政の報告書のようなものが元になっていると考えられます。
それを陳寿がまとめて魏志倭人伝になったようです。


弥生時代以前の日本では

どのような言葉が

話されていたのか?

 

文字による記録がないので分かりませんが、
後述する日本語の特徴を鑑みれば、
縄文時代には日本語の祖語になり得るような共通言語が存在していた事は否定できません。

共通言語としての古代日本語の

成立過程及び成立時期は?

 

大和朝廷の列島統一と同時期(4~6世紀)だと考えます。
また、ヤマト言葉(大和朝廷の使用言語)が元になったと考えるのが妥当だと思われます。
(質問者さんは邪馬台国がそのままヤマト王権になった事を前提にしているようですが、その事については敢えて触れません)

古代日本語の特徴と

そのルーツは?

 

1.古代日本語の特徴

①語順がSOV
②膠着語
③母音終止
④RとLの発音の区別がない(Rの発音がない)
⑤ラ行が語頭に立たない
⑥濁音が語頭に立たない
⑦重子音がない
⑧重母音がない
⑨単語が2音節
⑩形容詞は名詞の前に来る

2.日本語のルーツ

結論から言えば、日本語のルーツは日本列島です。
つまり、日本列島に渡って来た人達(南北アジアから)の言語が列島で混じりあって出来上がった言語です。

理由は上記の日本語の特徴に南北アジアの言語の要素が混じり合っているからです。
例えば、①②⑤⑧⑩はアルタイ諸語(北アジア)の特徴ですが、
③④⑦はポリネシアなどの南アジアの言語の特徴を持っています。

また基礎語彙に関しては中国南部・ビルマ系言語の影響を受けていると言われています。

邪馬台国(卑弥呼)と魏とでは

どのような言語が

使われていたのか?

また誰が文章を作ったのか?

 

現在でも同様ですが、異民族間での使用言語は強文化を持っている国の言語が共通言語となります。
従って、弥生時代の共通言語は漢語だったと思われます。

また、旧石器時代から日本列島と朝鮮半島及び中国大陸には交易関係が認められますから、当然、通訳(バイリンガル)は存在していたと思われます。

<参考文献>
安本美典「日本語の成立」
宮崎嘉夫「日本語と日本人のルーツを掘り起こす」


デンマン注:
読みやすいように改行を加えています。
イラストはデンマンライブラリーより。
赤字はデンマンが強調のため。

『Yahoo!知恵袋』より
(2012年1月12日)

 

あらっ。。。古代でも意外に国際化は進んでいたのですわねぇ~。。。

そうです。。。日本では、国際化は江戸時代の鎖国が終わって、明治維新で文明開化が始まって やっと日本が国際化したと思っている人が多いようだけれど、世界を見渡せば、そもそも国際化というのは文明が発生した頃から始まっていたのですよ。。。

つまり、縄文時代から弥生時代にかけて、特に日本は海外との交流が激しい時代だったのですわねぇ~。。。

そうですよ。。。その当時の国際化によって、いろいろな地域との交流や交易がおこなわれて、稲作が始まったり、文字が大陸から伝わって、当時の日本は一気に先史時代から有史時代に突入したのですよ。。。

卑弥呼女史は、どのような言葉を話していたのでござ~ますかァ~?

もちろん、現在の北九州方言はまだその時には存在しなかったはずです。。。

その証拠でもあるのですかァ~?

あのねぇ~、アイヌの言葉が地名として今でも九州に残ているというのですよ。。。

 


(ainu30.jpg)

 

『九州の先住民はアイヌ』の著者・根中治氏は、アイヌ語は関西から四国、九州にかけて広範に残されているが、中でも九州が最も多く、その中でも北九州の福岡・佐賀・熊本にかけてが特に多いと述べている
その一例を見てみることにする。

福岡では、筑後川の上流およびその周辺地区、那珂川、多々良川上流、遠賀川上流地区にアイヌ語地名が残されており、いずれも先土器遺跡や貝塚を含む縄文遺跡のあるところ、もしくはその周辺に散在しているようである。具体的に例を挙げると、

① 米冠(シリカンベまたはシリカンゲ) アイヌ語で「海際の山」、または「水面に浮かぶ丘」の意である。語源となる 「シリ」は元々、土地、地の意味であるが、高地、山、崖(水際の)、島といった意味がある。カンベとは水面とか水際という意味である。

北海道にも「尻別川(シリベツガワ)、「シリナイ」、「尻場(シリパ)」などの地名が残されている。

② 下代久事(ケタイクジ)  アイヌ語の意味は、「川向こうの山の頂に密集した森のあるところ」。現在でも那珂川上流の右岸の山手には、鬱蒼とした原始林があり、その一部は杉林になっている。アイヌ人の住まいは、那珂川の左岸にあったものと思われる。

③ 釣垂(ツタル)  「川岸の切り立った2つの尾根」という意味。「ツ」は二つという意味と、尾根または峰という意味がある。タル(タオル)は川岸の高所の意味。
現在、釣垂(ツタル)には市の水道用水の南畑ダムがあるが、そこには、二つの切り立った岸壁があって、その間を渓流が流れている。

④ 背振山(セブリヤマ)  「高く、広い山」の意。 福岡県と佐賀県の県境を延々と連なる標高1055Mの背振山の名前の由来については飛竜が背を振ったとか、弁財天の竜が背を振ったとか色々の説があり、中には、周辺に「白木」のつく地名が多いことから、朝鮮の「新羅」を類想し「ソウル」が転訛したものだという説まである。
しかし、アイヌ語のセブリ(高い、広い)が一番納得感がある。


佐賀県でアイヌ語の地名が最も多いのは、有明海に面した嘉瀬川(かせがわ)、六角川、塩田川の流域、火口地帯である。個々の地名は抜きにして、ここでは最も興味深い地名「ヅーベット山」を取り上げてみる。

① 「ヅーベット山」  県内の東背振村の田手川上流にある標高730メートルの山がヅーベット山である。
この山の名前は地理院の5万分の1の地図にカタカナで表示されているが、カタカナ記載の山というのは珍しい。
おそらく、先住民の言葉として伝えられてきた名前が、漢字表示が出来ずにそのままカタカナで表示されてきたものと思われる。

アイヌ語で「ヅー」は、「峰」という意味と「たくさん」という意味がある。
ベットに該当するアイヌ語が見当たらないが、このあたりの谷間は小さい川がたくさん集まっているので、恐らく「たくさんの川の集まったところ(峰)」という意味ではないかと思われる。


『九州から琉球諸島に残っているアイヌ語の地名』より

 

つまり、文字が大陸から伝わってきた頃には、縄文人がまだ少数ながら九州に住んでいたのですよ。。。

ということは、卑弥呼女史は、縄文言葉も使っていたということですかァ~?

現在使われている北九州方言よりも、縄文言葉を話していた可能性の方が高いですよ。。。時期的にも縄文時代に近い。。。でもねぇ~、魏の使者が九州にやって来たときには、使者が現地の倭人と言葉を交わしたとは思えない。。。なぜなら、言葉が通じるはずがないのですよ。。。

じゃあ、魏の使者はどなたと会話したのですか?

もちろん、通訳ですよ。。。通訳が、当時の縄文言葉交じりの九州方言を話すことができたので、現地人の言ったことを翻訳して魏の使者に伝えたのです。。。

つまり、伊藤先生が半分冗談で言ったような、魏氏の使者が現地の倭人に話しかけたら「山たい」と答えた、というような事実はなかったのでござ~ますか?

そうです。。。そういうことはなかったのです。。。考えてみてください。。。現在でも、アメリカ人が日本で暮らしている日本人に質問して、いったい幾人の日本人が英語で答えることができますか? ”No English”と答えるのが関の山ですよ。。。

そうでしょうか?

あのねぇ~、オーストラリアに面白いエピソードがある。。。白人が現地人に「あのピョンピョン跳ねて走ってゆく動物は何というのォ~?」と尋ねたら現地人が「カンガルー」と答えた。。。それは、現地語では「分からない」という意味だった。。。つまり、「貴方の言う事が分からない」という意味だった。。。

マジで。。。?

だから、もし、魏の使者が現地の倭人に尋ねて「ヤマタイ(山たい)」と答えたとしたら、それは、当時の現地語で「(貴方の言ってることは)分からない」という意味だったに違いないのですよ。。。

 


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『楊貴妃@満州』

『ズロースを探して』

『四睡図』


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『レオタード姿』

『熟女のうずき』

『苫田郡香タ美』

『エロエロ』

『ハーレーダビッドソン』

『貂蝉(ちょうせん)』『平成の卑弥子』

『北国方言』

『人妻』

『温泉で濡れ濡れ』

『痴漢バス』

『フォローしました』

『どこの応天門』

『浜野矩随』

『空白の150年』

『150年の空白』

『美術芸術ヌード』

『あんどん かつどん』

『ヌード第1』

『汚いパンツを見て』

『神聖少女』

『良寛さん@台湾』

『入れ墨熟女』

『忍藩の下級武士』

『熟女の入れ墨』

『ズロースで女装』

『日本語の難しさ』

『人間ドキュメント』

『ブラジル人溺死』

『確信という誤解』

『どこで見つけたの?』

『聖徳太子@インドネシア』

『ガチで浦島太郎』

『キャドバリーチョコ』軽井沢タリアセン夫人の小百合さんが扮するゴディバ夫人 Sayuri
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ゆのまち人妻紀行

ゆのまち人妻紀行

 


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デンマンさん。。。 湯の町で人妻と不倫旅行をして ゆのまち人妻紀行 という記事を書いたのですか?


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ん?。。。卑弥子さんは僕が湯の町で人妻と不倫旅行をしたと思っているのですか?

だってぇ~、タイトルを見れば誰だって、そう思うのでござ~♪~ますわァ~。。。

僕は、人妻と一緒に湯の町で不倫旅行をしたわけではないのですよ。。。

じゃあ、どなたが湯の町で不倫旅行をしたのでござ~♪~ますかァ?

ちょっと次のリストを見てください。。。

 


(liv21-06-27.jpg)


『拡大する』


『万葉集のタグのページ』

 

これはライブドアの僕の「徒然ブログ」の日本時間で6月27日の午前1時29分から午前5時までのアクセス者の記録なのですよ。。。赤枠で囲んだ箇所に注目して欲しい。。。

あらっ。。。見慣れない検索エンジンで検索して「徒然ブログ」のタグのページを開いらのですわねぇ~。。。

そうです。。。リファラ のリンクをクリックすると次の検索結果が出てくるのです。。。

 


(nav21-06-27.jpg)


『拡大する』

『現時点での検索結果』


『万葉集のタグのページ』

 

あらっ。。。韓国の検索エンジンではござ~♬~ませんかァ! ゆのまち人妻紀行 ~温泉で濡れ濡れです! と入れて検索したのですわねぇ~。。。

そうです。。。赤枠で囲んだ 徒然ブログ:万葉集 をクリックして万葉集のタグのページを開いたのですよ。。。

 


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『拡大する』


『万葉集のタグのページ』

 

。。。で、いったいどなたが ゆのまち人妻紀行 ~温泉で濡れ濡れです! と入れて検索したのでござますかァ~。。。?

ソウル市に住んでいる金瑞俊(キム・ソジュン)君が検索したのですよ。。。

 


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キム君は、ハングルではなく、どうして日本語を入れて検索したのですか?

キム君は中学2年生まで新宿で暮らしていたのですよ。。。今度、しばらくぶりに新宿の親戚を訪ねるので、幼友達の人妻と一緒に湯の町で温泉に浸って しっぽりと濡れ濡れになろうと予定を立てているのです。。。

。。。で、『万葉集のタグのページ』の中に ゆのまち人妻紀行 ~温泉で濡れ濡れです! という記事が出てくるのでござ~♬~ますかァ~。。。?

出てきません。。。。

出てこないのに、どういうわけで韓国の検索エンジンの検索結果の中にデンマンさんのブログの『万葉集のタグのページ』が出てきてしまうのですか?

ちょっと次のページを見てください。。。

 


(tag21-06-27a.jpg)


『拡大する』


『万葉集のタグのページ』

 

ブラウザの検索機能を使って ゆのまち人妻紀行 と入れて検索してみても、見れば分かるように ZERO なのですよ。。。つまり、『万葉集のタグのページ』の中には ゆのまち人妻紀行 という語句は出てこないのです。。。

それなのに、どういうわけで検索結果の中に『万葉集のタグのページ』が表示されてしまうのですか?

次のページを見てください。

 


(tag21-06-27b.jpg)

 


(tag21-06-27c.jpg)

 


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(tag21-06-27d.jpg)

 


『万葉集のタグのページ』

 

韓国の検索エンジンは、ゆのまち人妻紀行 ~温泉で濡れ濡れです! という語句を「人妻」「紀行」「温泉」「濡れ」と分解して、それぞれの言葉が『万葉集のタグのページ』の中に出てくるので検索結果に表示してしまうのですよ。。。

なぜ、そのようなことをするのですか?

検索結果に何も表示しないと、検索エンジンの評判が落ちてしまうので、何も表示しないよりは、何かを表示した方が評判を落とさないで済むと思うので、こういうことをするのですよ。。。

でも、キム君は、お目当ての「温泉で濡れ濡れになって ゆのまち人妻紀行」を楽しんだ記事が出てこないのでムカついたのではありませんか?

いや。。。ムカつきませんでした。

どうしてキム君は、ムカつかなったのですか?

『万葉集のタグのページ』で温泉を探していたら次の箇所が出てきた。。。

 


(tag21-07-10.jpg)


『落ちる人が死んでから

乗ってけーさい』

 

上の記事を読んでキム君は、機会があったらぜひ吹上温泉に行こうと決めたのでござ~♬~ますかァ~?

そうです。。。僕と卑弥子さんが濡れ濡れになって楽しんだ温泉だから、ここならば間違いないだろうと思ったのですよ。。。


初出:2021年7月12日


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【卑弥子の独り言】


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ですってぇ~。。。 

あたくしとデンマンさんが濡れ濡れになって楽しんだ「吹上温泉」にあなたも浸りたいと思いますか?

ええっ。。。 「そんな事は、どうでもいいから、もっと他に面白い話をしろ!」

あなたは、そのように あたくしにご命令なさるのでござ~ますか?

いけすかないお方ァ~。。。

分かりましたわ。

では、話題を変えて 天の川の不思議に迫るクリップを お目にかけますわ。。。

 


(milkyway2.jpg)

 

どうでした?

ええっ。。。 「夜眠れなくなるから、そういう動画は見せるな! 気分直しに何か他に もっと面白いことを話せ!」

あなたは、あたくしに向かって、更にご命令なさるのでござ~ますか?

いけすかないお方ァ~。。。!

分かりましたわァ。。。 あなたが、そうおっしゃるのだったら、まずジューンさんの次の写真をご覧になってくださいまし。。。

 


(senya020b.jpg)

 

千夜一夜物語の衣装を着たジューンさんに魅せられて、女性に成りすます男性が たくさん居るのでござ~ますわァ!

ええっ。。。 信じられないのですかァ?

じゃあ、ちょっと次のYouTubeのクリップを見てくださいまし。。。

 


(xdress02.jpg)

 

いかがでござ~ますかァ~?

男性が女装していると思いますかァ?

あたくしは、素直に信じることができませんわァ~。。。

どうですかァ~? けっこうなものでしょう!?

いつまでも見とれていても仕方がありませんわよゥ。

あなたのために古代史の面白い記事を用意しました。

ぜひ お読みください。

では。。。

天武天皇と天智天皇は

同腹の兄弟ではなかった。 

天智天皇は暗殺された 

定慧出生の秘密 

藤原鎌足と長男・定慧 

渡来人とアイヌ人の連合王国

なぜ、蝦夷という名前なの?

平和を愛したアイヌ人

藤原鎌足と六韜

古事記より古い書物が

どうして残っていないの?

今、日本に住んでいる人は

日本人でないの?

マキアベリもビックリ、

藤原氏のバイブルとは?

とにかく、次回も興味深い記事が続きます。

だから、あなたも、また読みに戻ってきてください。

じゃあ、またねぇ~。。。


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ジューンさんの熟女下着 June Adams 下着美人
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■ 『きれいになったと感じさせる

下着・ランジェリーを見つけませんか?』

『センスあるランジェリー』


(surfing9.gif)


(sayuri5.gif)

ところで、平成の紫式部こと、卑弥子さんは見かけによらず、京都の女子大学で腐女子に「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授という肩書きを持っています。

卑弥子さんの面白い話をもっと読みたい人は
下のリンクをクリックして読んでみてくださいね。


(miya08.jpg)

『なぜ蝦夷なの?』

『プリキュアとヒトラー』

『戦争絶対反対よね』

『怨霊の歴史』

『色欲@歴史』

『紫式部と敗戦』

『ラピスラズリと源氏物語』


(annasalleh.jpg)

『性と愛@古代史』

『仙台を離れて』

『美人とブス@大奥』

『絵の中のウソ』

『阿倍仲麻呂@ベトナム』

『バイクガール』

『六条御息所』

『卑弥子さんの大学』

『元寇と捕虜』

『マキアベリにビックリ』

『痴漢が心配』

『びた一文』

『卑弥子@ブカレスト』

『エロい源氏を探して』

『ラピスラズリの舟形杯』

『平成の紫式部』

『隠元豆と国性爺合戦』

『おばさんと呼ばれて』


(zurose2.jpg)

『女帝の平和』

『アタマにくる一言』

『悪女レオタード@昌原市』

『スウィートビーン』

『ガチで浦島太郎やし』

『ご苦労さま』

『デンマンのはなし』

『卑弥呼の墓』

『室生犀星と人間学』

『松平春嶽ダントツ』

『英語は3語で伝わる』

『くだらない物』

『漢字で体操』

『面白い漢字テスト』


(hama10.jpg)

『放屁女に罰金』

『アヤメとカキツバタ』

『日本の閨房術』

『大団円』

『ペルシャ人@Anzio』

『紀元前のメイフラワー号』

『あたまにくる一言』

『更級日記の作者も見た』

『平安のスバル』

『行田市長選挙@黒い霧』


(maria05.jpg)

『日本のエロい文化』

『女のオナラ』

『良寛さん』

『季準基』

『行田のフジコ』

『清少納言もビックリ』

『焚書坑儒と馬鹿の見本』

『江戸の閨房術に誘われ』

『エロい古文の絵』

軽井沢タリアセン夫人の小百合さんが扮するゴディバ夫人 Sayuri
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(byebye.gif)

どこで見つけたの?

 

どこで見つけたの?

 


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デンマンさん。。。、いったい、どこで何を見つけたのですかァ〜? もしかして上の写真の女性たちを見つけてきたのでござ〜ますかァ?


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いや。。。上の写真の女性たちを探していたわけではないのですよ。。。

じゃあ、何を探していたのでござ〜ますかァ〜?

ちょっと次のリストを見てください。。。

 


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『拡大する』

『アンバパーリー』

 

これはライブドアの僕の「徒然ブログ」の日本時間で8月23日の午前11時34分から午後1時18分までのアクセス者の記録です。。。赤枠で囲んだ箇所に注目して欲しい。

8月23日の午後12時1分に 短縮URL (https://t.co/EFfzJ2SfAN) からやって来て アンバパーリー を読んだネット市民がいたのですわねぇ~。。。

そうです。。。この短縮URLは『アンバパーリー』という記事のURL なのですよ。。。

つまり、上の短縮URL をクリックすると『アンバパーリー』の記事が表示されるのですわねぇ〜。。。

そういうことです。。。

でも、それがどうしたと言うのですかァ〜?

あのねぇ〜、この記事は僕が2023年3月10日に投稿したものなのですよ。。。ほぼ半年前に投稿したものです。。。

要するに、この記事を読んだネット市民が、いったいどこで記事を見つけたのか? それをデンマンさんが知ろうとした、ということでござ〜ますかァ〜?

そういうことです。。。

そのためにわざわざ、あたくしを呼び出したのでござ〜ますかァ〜?

そうです。。。いけませんかァ?

あたくしは、これでも京都の女子大学で腐女子たちに「日本文化と源氏物語」を講義しているのでござ〜ますう。。。けっこう忙しいのですわァ〜。。。このようなことで呼び出されてくありませんわァ〜。。。

でもねぇ〜、『アンバパーリー』という記事は、僕と卑弥子さんで語り合った内容の濃い記事なのですよ。。。それを横浜市保土ケ谷区に住んでいる小金井環(こがねい たまき)さんが読んだのです。。。

 


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あらっ。。。横浜の保土ケ谷区というところは、水と緑と歴史の街なのですわねぇ〜。。。あたくしも、こういう街に住んでみたいですわァ〜。。。

卑弥子さんが腐女子たちに教えるのに うんざりしたら大学を辞めて保土ケ谷区に引っ越したらいいですよ。。。

つまり、デンマンが好みのタイプの小金井環さんが読んだので、いったいどこで記事を探し当てたのか? 知りたくなったのでござ〜ますかァ〜?

そういうことです。。。いけませんかァ〜?

かまいませんけれど、小金井環さんのビキニ姿を見たからと言って、そのように鼻の下を伸ばしてヨダレを垂らさないでくださいましなァ〜。。。うふふふふふふ。。。

いや。。。このヨダレは、卑弥子さんから頂いた京都の生八つ橋を、さっき食べたばかりなのですよ。。。

 


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生八ツ橋の味の余韻でヨダレが出てきているのです。。。うへへへへへ。。。

それで、小金井環さんが どこで記事を見つけたのか? 突き止めたのでござ〜ますかァ〜?

突き止めました。。。次のツイッターでの検索結果を見てください。。。

 


(tw23-08-23a.jpg)


『拡大する』

『現時点での検索結果』

『アンバパーリー』

 

ツイッターで検索してみると2023年3月9日に僕が呟いた『アンバパーリー』が出てくるのですよ。。。このときの記事のURL にマウスのポインターをかざしてみると、同じ短縮URLが画面の左下に表示される。。。つまり、小金井環さんは、上の赤枠で囲んだツイートのリンクをクリックして『アンバパーリー』を読んだのですよ。。。

でも。。。、でも。。。、それは違うと思いますわ。。。上のツイートは半年以上も前のツイートですわァ〜。。。小金井環さんは、それからほぼ半年後に読んだのですから、上のツイートを見たわけではござ〜ません!

なるほど。。。鋭い指摘です。。。もちろん、そのようなことは僕も承知です。。。ちょっと次の検索結果も見てください。。。

 


(gog23-08-23.jpg)


『拡大する』

『現時点での検索結果』

『アンバパーリー』

 

アンバパーリー denman706 と入れて検索したのですわねぇ〜。。。

そうです。。。すると、赤枠で囲んだ画像が出てくるのですよ。。。これは、その上のツイッターの検索結果の中の僕が呟いたツイートと同じものです。。。

つまり、小金井環さんは、アンバパーリー と入れて検索し、その中に出てきた上のツイートの中のリンクをクリックした、ということでござ〜ますか?

 


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『拡大する』

『実際のツイート』

『アンバパーリー』

 

そういうことです。。。GOOGLEかYahoo!で検索して、出てきた上のツイートのリンクをクリックして『アンバパーリー』を読んだのですよ。。。

 


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【ジューンの独り言】


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ですってぇ〜。。。

アンバパーリーは、お釈迦様の女性の弟子(比丘尼)の1人でした。

ヴェーサーリー(毘舎離)の人でヴァイシャ出身です。

ヴェーサーリー城外のマンゴー林に捨てられ、その番人に育てられたので、「アンバパーリー」すなわち「マンゴー林の番人の子」と言われるようになったのです。

アンバパーリーは、遠くの町にまで名声が伝わっていた遊女で、美貌と容姿、魅力に恵まれ、他にも踊りや歌、音楽も巧み、当然言い寄る客が引けを取らずとなって舞台等で莫大なお金を稼いでいました。

ええっ。。。「そんなことは、どうでもいいから、何か他に面白い話をしろ!」

貴方が、そう言うのであれば、デンマンさんがピンタレストで「ランジェリー 下着」のページを立ち上げました。。。

覗いてみてください。。。男性ならば、ムンムン、ムレムレになって元気をだしてください。。。

女性であれば、若い頃を思い出して、若やいだ気分になってくださいねぇ〜。。。

 


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『拡大する』

『実際のページ』

 

ええっ。。。「そんなことは、どうでもいいから、何か他に面白い話をしろ!」

貴方は、そのようなムカついた口調で 更に、あたくしに御命令するのですかァ〜?

分かりましたわァ〜。。。

じゃあ、ショッキングなニュースでもお伝えします。。。

かつて「セサミストリート」で子どもたちに慕われていた人気者のビル・コスビーは、芸能界では幅を利(き)かせて大きな“権力”を握り、百人近い女性に対してセックスを迫ったのです。。。

 

 

子どもたちに性的ないたずらをしなかったことが せめてもの罪ほろぼしですわァ〜。。。

ええっ。。。「そんな事は、どうでもいいから、もっと他に面白い話をしろ!」

あなたは、そのような強い口調で 更に あたくしに ご命令なさるのですかァ〜?

分かりましたわァ。。。。

では、あなたもビックリするような

忠臣蔵のとっても古い映画をご覧くださいまし。。。

なんと。。。昭和3年(1928年)制作の『忠臣蔵』ですわよう!

無声映画ですけれど、弁士の方がなかなかうまい説明をしてくださいますわ。。。

つい、引き込まれて観てしまうのですわ。。。

浅野内匠頭(あさの たくみのかみ)がどうしてヘマをしでかしたのか?

そのへんのところが詳しく映像に残っております。

観るだけの値打ちがありますわ。。。

では、どうぞ。。。

 

 

ところで、どうして小百合さんが

「軽井沢タリアセン夫人」と呼ばれるのか?

 


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あなたは ご存知ですかァ?

実は簡単な事なのですわよう。

小百合さんは軽井沢に別荘を持ったのですわ。

小さな頃から軽井沢に住むことが夢だったのですってぇ~。。。

分からない事ではござ~ませんわァ。

そもそも小百合さんが軽井沢に興味を持ったのは、朝吹登水子のエッセーなどを読んだことがきっかけだったとか。。。

現在、朝吹登水子の山荘、睡鳩荘(すいきゅうそう)は軽井沢タリアセンに移築されて公開されています。


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それで、小百合さんは軽井沢タリアセンを訪れては睡鳩荘に足を運んで少女の頃の事を思い出すのが楽しみなんですってよ。

そういう訳で、デンマンさんが小百合さんのことを「軽井沢タリアセン夫人」と呼ぶようになったのですわ。

軽井沢・雲場池の紅葉

軽井沢のイルミネーション

秋の旧軽井沢銀座ぶらり散歩

とにかく、明日もデンマンさんが興味深い記事を書くと思いますわ。
だから、あなたも、お暇なら、また読みに戻ってきてくださいまし。
じゃあねぇ~~。


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メチャ面白い、

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下着・ランジェリーを見つけませんか?』

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別荘を持つことを夢見る小百合さんの物語』

『熟女下着』ジューンさんの熟女下着 June Adams 下着美人
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『センスあるランジェリー』


(surfing9.gif)


(sayuri5.gif)

ところで、平成の紫式部こと、卑弥子さんは見かけによらず、京都の女子大学で腐女子に「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授という肩書きを持っています。

卑弥子さんの面白い話をもっと読みたい人は
下のリンクをクリックして読んでみてくださいね。


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