グールドとバッハ

 

2018年6月7日 (木曜日)

 

グールドとバッハ

 


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デンマンさん。。。、グールドとバッハというタイトルに、どういうわけでオイラをお呼びになったのですかァ~?


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オマエは不満なのォ~。。。

いいえ。。。 ただ、今日は“クラシック鑑賞”と書いてないので、オイラはちょっとばかり場違いな所に出てきたような気がするのですよ。。。

いや。。。 決して場違いじゃないよ。。。 今日はオマエとグールドとバッハについて語り合おうと思うのだよ。。。

しかし。。。、しかし。。。、どういうわけでグールドとバッハと二人並べてタイトルに書いたのですか?

うん、うん、うん。。。 おそらく誰もがオマエと同じ疑問を持つかもしれない。。。 その質問に答えるために、まず次のリストを見て欲しいのだよ。。。


(liv80528a.png)


『拡大する』

『漱石とグールド(PART 1)』

『漱石とグールド(PART 2)』

これはライブドアの僕の『徒然ブログ』の5月26日の午後9時9分から27日の午前2時17分までの約5時間の「生ログ」なんだよ。。。 赤枠で囲んだ箇所に注目して欲しい。。。

なんだか、すごい美人が出てますねぇ~。。。 もしかして、この女性がGOOGLEで検索して『漱石とグールド(PART 2)』を読んだのですか?

美人が登場すると、老人のオマエのオツムも冴(さ)えてくるんだねぇ~。。。 (笑)

うへへへへへへ。。。 それほどでもありませんよう。。。

実は、上の写真の女性は さいたま市に住んでいる小暮 春美(こぐれ はるみ)さんなのだよ。。。


(ip125236b.png)

デンマンさんの郷里は確か、埼玉県の行田市でしたよねぇ~。。。?

うん、そうだよ。。。 よく知ってるねぇ~。。。

デンマンさんとの付き合いも長くなりますから。。。 で、もしかして小暮 春美さんはデンマンさんの親類の人ですか?

そうなのだよ。。。 僕の従妹の娘なのだよ。。。

あれっ。。。 確か、バンクーバーに住んでいる真由美ちゃんもデンマンさんの従妹の娘ですよねぇ~。。。?


(mayumi55.jpg)

オマエは、よく知ってるねぇ~。。。

先日、次の記事を読んだら、真由美ちゃんが出ていたのですよ。。。


(question8.png)


(turan01.jpg)

『ん?トゥーランドット』

それにしても、デンマンさんの親戚には、どういうわけで美人が多いのですか?

美人の遺伝子がデンマン一族には昔から引き継がれているのだよ。。。

白けるから、そういう事は言わないでください。。。 で、小暮 春美さんは、どういうわけで『漱石とグールド(PART 2)』を読んだのですか?

次のように検索したら記事が出てきたのだよ。。。


(gog80528a.png)


『拡大する』

『現時点での検索結果』

あれっ。。。 また小暮 春美さんの写真が。。。 デンマンさん! ちょっとくどすぎますよう! いくら美人だからってぇ、何度も写真を貼り出さないでくださいよう!。。。 んもおおおォ~。。。!

オマエが春美さんの写真が見たいと言ったから貼り出したのだよ!

そんなこと言いませんよう。。。 で、春美さんは、どういうわけで『漱石とグールド』を読んだのですか?

実は、春美さんは桐朋学園大学 音楽部音楽学科でピアノを専攻したのだよ。。。 


(touhou2.jpg)

それで、久しぶりにグールドのことでネットサーフィンしていたら『漱石とグールド』に出くわしたというわけだよ。。。

でも。。。、でも。。。、「漱石 グールド 情に掉させば流される 徒然」と入れて検索したということは、どういうことですか?

グレン・グールドはカナダ人なのだよ。。。 それにもかかわらず夏目漱石の影響を強く受けた。。。 そのことで春美さんはグールドに興味を持つようになったというわけ。。。


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グールドは35歳のとき、カナダの東部ノヴァ・スコシア州を旅行し、その際汽車の中でノヴァスコシア大学のウィリアム・フォーリー教授と出会う。
教授は当時読んで、大いに感動を受けた夏目漱石の『草枕』英語版の話をした。
教授は後日この本をグールドに送るのだが、これはこのピアニストの生涯を通しての愛読書となるのだった。

後年グールドはこれを20世紀最高傑作の小説の一つと公言して憚(はばか)らず、従姉にこの本を丸々一冊電話で朗読して聞かせたほどであった。
そしてついには『草枕』を題材としたラジオ番組を計画するにいたるのである。

 (中略)

草枕とは旅、あるいは心の休まらぬ旅寝の意味だと言う。街から街へと旅するセールスマンのようなコンサート・ピアニストの生活を心から嫌って、その地位を捨てたグールドが死ぬまで愛読した小説の題名が『草枕』であったのは、少々皮肉なことではある。

1982年10月4日、50歳でこの世を去った、この偉大なピアニストの枕元には、聖書とともに『草枕』が残されていたという。


44-45、78-79ページ 『漱石とグールド』
横田庄一郎編 1999年9月5日第一刷発行
発行所: 株式会社朔北社(さくほくしゃ)

50歳でこの世を去った、この偉大なピアニストの枕元には、聖書とともに『草枕』が残されていたということを知って、春美さんはグールドに興味を持つようになったというわけ。。。

。。。で、バッハは。。。?

春美さんからメールをもらったので、僕はオマエがグールドとバッハのことで記事を書いていたことを話したのだよ。。。

1.2 Johann Sebastian Bach

Rectus :
Glen Gould はStravinskyとBartókの二人は、二十世紀の最も過大評価された作曲家だ、と言ったそうである。そうだろうか。過大評価されているのは、むしろGould自身の方ではないだろうか。誰からか何らかの曲について、どの演奏家のレコードが適当か、などと言う相談を受けたときに、Gould のレコードを奨めるのは勇気のいることである。あの有名な(二種類ある)J.S. Bach の<<二段鍵盤付きクラヴィチェンバロの為のアリアと変奏、BWV 988>> (通称、Goldberg Variation)を含めて、私は躊躇する。
理由は二つある。その一つは、その曲が何であれ、他を知らないとGouldの演奏の面白さが判り難いからであり、第二には、彼の演奏の全てがあまりにも作為的であり、その意図が透けて見える事が多いからである。初めて彼の演奏を聴くと一寸戸惑う。やがて彼の意図が判ると驚嘆する。でも、その先は何も無い。もっとも、その先は何も無い、という地点まで導き、感じせしむるところは、そんじょそこらのピアニストの力量とは次元を異にしている。又、彼が出現しなかったとしたら、Bachをピアノで弾く事は廃れていたかもしれない、とすら私には思われる。
全ての演奏は編曲である、と言い切ったのは高橋悠治だ。そう割り切った方がすっきりする。それを様々な実験の末、極限まで推し進めたのがGouldだった、と私は思う。彼の編(偏)曲には、彼自身のハミングも含まれる。彼のハミングは楽譜には書かれていない声部であり、彼の三本めの手のようだ。しかしながら、Gouldにその声部が聴こえるのは、彼が彼のように弾くからではないであろうか。さもなければ、作曲家は、基本的にはそれを書いたはずである。
H.H. Stuckenschmidtはこう書いている(Musik des 20. Jahrhunderts):
Bachは一つの旋律を三通りに対位ずける可能性については、十五、六世紀のNederland楽派のpolyphonieのどんな作曲家にも劣らずに精通していた。もしBachがそのうちの幾つかを断念したとしても、それは何も幾多ある可能性の中で何かを忘れたり、考えぬいていなかったからではない。むしろ彼は、<<Inventionen>>(BWV 772-786)は一定の制約のある空間内に処理されなければならない、という認識から出発したのである__。
Bachを聴くということは、彼の書式上の厳格さを聴くのではなく、彼の選択のセンスを聴くことなのだ、という単純なことが、ようやく、私にも分かりかけてきた。つまりBachは順列や組合わせに於いて比類なく冴えていたのみにならず、彼自身の選択に於いて偉大だったのであろう。
またBachは半音を詰め込む傾向にある。その点に於いてG.F. Händelその他の同時代の作曲家の音楽の響きと、彼の作品のそれは異なっていると感じられる。その彼のセンスに関しても、中世の音楽の影響よりもBach独自の感覚から来る方が勝っていたのではないか、と思われる。そして、<<Inventionen>>においてでさえ、Bachにとっては創造すると言うよりは、発見するという意識を彼はもっていたのではないか、と私は想像するのである。
Gouldのレコードを聴く事によって、我々はGouldの発明を発見する。しかしながらその効果も、例えば、legatoで弾かれるべき装飾音をstaccatoに恣意的に変えられた故の結果だとすると、少なくとも一枚めのレコードとしては、誰にも薦められない(二枚目のレコードとしてなら、話は全く逆である)。
高橋はまた、Bachの音楽はF. Busoni の読み方に於いて実現する、とも言っていた。私もその通りだと思う。ただ、私は、Busoniの校訂あるいは編曲したところは、Bachにとっては、ほぼ自明であったという事、言い換えればBusoniは、それを(謙虚)に明らかにしたに過ぎない、という事をも付け加え、はっきりさせたく思うのである。ところで、Gouldの編(変)曲は、Bachにとって自明であったであろうか。
Busoniがピアノの為に編曲した<<Ciaccona>>がもたず、現代のヴァイオリンがたどたどしく奏く原作がもっている決定的な要素は、音楽をとりまく神秘の光であろう。今ここでの演奏には隠されている何かをこの音楽がもっている、という畏れにも似た感情が、音楽を聞き手からとおいものにしてきた。―――
と高橋は続けている。私にとっては話しは逆であった。その<神秘の光>が私をBachの音楽にひきつけてきたのだと思う。あえて言えば、そこに創造の最終段階がある。一つの共同体(community)の音楽に対する水準を決めるのは、作曲家や演奏家だけではない。それは音楽にかかわる事によって何らかの自己改革の可能性のある、自立した、良質の<聴き手>である、と思うのである。
一方、ある別のピアニストが、演奏家は過去に片足をついている。本当に創造的なのは作曲家の方である。―― といっていた。私は演奏家も創造的であり得る,と思っているが、わたしは彼の言葉故に彼を尊敬する。ただ、一般的に言って、演奏家の書いた文章は面白くない。職業柄としての彼らの意識が、<如何>(Wie)に焦点されている時が多いせいではないか。そこに行くと、作曲家の場合は<何>(Was)に重点がおかれているので、彼らの著書は読んでいて愉しい。そして我々、聴き手こそ<何故>(Warum)に集中することができるのだ。しかし、これらは全て程度の問題で、行きつ戻りつの(演繹的かつ帰納的な)思考実験を重ね続けている事には、誰しも変わりは無いとも思う。私自身は、<何故>(とりわけraison d’ être)が一番に重要だ、と信じているが。

蛇足(Coda):
或る批評家が、Gouldが下から上へアルペジオを弾いていたのを咎めていたが、この人は常識も知らない。<<Goldberg Variation>>の楽譜を見れば、第一頁めすぐに下から上へのアルペジオを指示する装飾音が書かれているのを見つけるであろう。この人は、そうした記号を知らないか、或いは眼がとてつもなく悪いかのどちらかであろう。私のこの曲の楽譜はPeters版であるが、それでも上記の記号が見て取れる。


8-9ページ
『前奏曲集―あるアマチュアの覚書-作品 1の1』より

あのさァ~、いつも思うのだけれど、オマエの文章はとっても読みづらいのだよ! 英語やドイツ語やフランス語やイタリア語が入り混じっている。。。

デンマンさん! 人のことは言えませんよ! デンマンさんの文章だってぇ、長くて読み始めると、じきに飽きてしまうのですよ。。。

それは、オマエの極めて個人的な見解だと思うのだよ! むしろ独断と偏見だと言っていい。。。 僕の記事は、日本語が解る世界のネット市民の 多くの皆様に読まれているのだよ!

134ヵ国のネット市民の皆様に読まれていることを自慢したいのですか?

いや。。。 自慢したいわけじゃない! オマエが「デンマンさんの文章だってぇ、長くて読み始めると、じきに飽きてしまうのですよ」と言ったから、僕の長い記事でも まめに読んでくれる常連さんが居る、と言いたかったまでだよ。。。 とにかく、オマエの文章は読みづらいので、多くの人が上の文章を読み飛ばしたと思うのだよ。。。

マジで。。。?

僕だってぇ、読みたくなかった。。。 でも、この記事を書く都合があるので、次のように読み易くして読んだのだよ。

1.2 ヨハン・ゼバスティアン・バッハ

 


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(1685年3月31日[ユリウス暦1685年3月21日] – 1750年7月28日)

 

グレン・グールドはイーゴリ・ストラヴィンスキーとバルトーク・ベーラの二人は、二十世紀の最も過大評価された作曲家だ、と言ったそうである。
そうだろうか。

過大評価されているのは、むしろグールド自身の方ではないだろうか。
誰からか何らかの曲について、どの演奏家のレコードが適当か、などと言う相談を受けたときに、グールドのレコードを奨めるのは勇気のいることである。
あの有名な(二種類ある)バッハの<<二段鍵盤付きクラヴィチェンバロの為のアリアと変奏、BWV 988>> (通称、ゴルトベルク変奏曲)を含めて、私は躊躇する。

理由は二つある。
その一つは、その曲が何であれ、他を知らないとグールドの演奏の面白さが判り難いからであり、第二には、彼の演奏の全てがあまりにも作為的であり、その意図が透けて見える事が多いからである。
初めて彼の演奏を聴くと一寸戸惑う。
やがて彼の意図が判ると驚嘆する。

でも、その先は何も無い。
もっとも、その先は何も無い、という地点まで導き、感じせしむるところは、そんじょそこらのピアニストの力量とは次元を異にしている。
又、彼が出現しなかったとしたら、バッハをピアノで弾く事は廃れていたかもしれない、とすら私には思われる。

全ての演奏は編曲である、と言い切ったのは高橋悠治だ。
そう割り切った方がすっきりする。
それを様々な実験の末、極限まで推し進めたのがグールドだった、と私は思う。

彼の編(偏)曲には、彼自身のハミングも含まれる。
彼のハミングは楽譜には書かれていない声部であり、彼の三本めの手のようだ。
しかしながら、グールドにその声部が聴こえるのは、彼が彼のように弾くからではないであろうか。
さもなければ、作曲家は、基本的にはそれを書いたはずである。

ハンス・ハインツ・シュトゥッケンシュミットはこう書いている(Musik des 20. Jahrhunderts):


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バッハは一つの旋律を三通りに対位ずける可能性については、十五、六世紀のオランダ楽派の多声音楽のどんな作曲家にも劣らずに精通していた。

もしバッハがそのうちの幾つかを断念したとしても、それは何も幾多ある可能性の中で何かを忘れたり、考えぬいていなかったからではない。

むしろ彼は、<<インヴェンションとシンフォニア>>(BWV 772-786)は一定の制約のある空間内に処理されなければならない、という認識から出発したのである__。

バッハを聴くということは、彼の書式上の厳格さを聴くのではなく、彼の選択のセンスを聴くことなのだ、という単純なことが、ようやく、私にも分かりかけてきた。
つまりバッハは順列や組合わせに於いて比類なく冴えていたのみにならず、彼自身の選択に於いて偉大だったのであろう。

またバッハは半音を詰め込む傾向にある。その点に於いてゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルその他の同時代の作曲家の音楽の響きと、彼の作品のそれは異なっていると感じられる。
その彼のセンスに関しても、中世の音楽の影響よりもバッハ独自の感覚から来る方が勝っていたのではないか、と思われる。
そして、<<インヴェンションとシンフォニア>>においてでさえ、バッハにとっては創造すると言うよりは、発見するという意識を彼はもっていたのではないか、と私は想像するのである。

グールドのレコードを聴く事によって、我々はグールドの発明を発見する。
しかしながらその効果も、例えば、レガートで弾かれるべき装飾音をスタッカートに恣意的に変えられた故の結果だとすると、少なくとも一枚めのレコードとしては、誰にも薦められない(二枚目のレコードとしてなら、話は全く逆である)。

高橋はまた、バッハの音楽はフェルッチョ・ブゾーニの読み方に於いて実現する、とも言っていた。
私もその通りだと思う。
ただ、私は、ブゾーニの校訂あるいは編曲したところは、バッハにとっては、ほぼ自明であったという事、言い換えればブゾーニは、それを(謙虚)に明らかにしたに過ぎない、という事をも付け加え、はっきりさせたく思うのである。

ところで、グールドの編(変)曲は、バッハにとって自明であったであろうか。

ブゾーニがピアノの為に編曲した<<パッヘルベル:シャコンヌ ニ短調>>がもたず、現代のヴァイオリンがたどたどしく奏く原作がもっている決定的な要素は、音楽をとりまく神秘の光であろう。

今ここでの演奏には隠されている何かをこの音楽がもっている、という畏れにも似た感情が、音楽を聞き手からとおいものにしてきた。―――

と高橋は続けている。

私にとっては話しは逆であった。
その<神秘の光>が私をバッハの音楽にひきつけてきたのだと思う。
あえて言えば、そこに創造の最終段階がある。
一つの共同体の音楽に対する水準を決めるのは、作曲家や演奏家だけではない。
それは音楽にかかわる事によって何らかの自己改革の可能性のある、自立した、良質の<聴き手>である、と思うのである。

一方、ある別のピアニストが、

演奏家は過去に片足をついている。

本当に創造的なのは作曲家の方である。――

…といっていた。
私は演奏家も創造的であり得る、と思っているが、わたしは彼の言葉故に彼を尊敬する。

ただ、一般的に言って、演奏家の書いた文章は面白くない。
職業柄としての彼らの意識が、<如何>(Wie)に焦点されている時が多いせいではないか。
そこに行くと、作曲家の場合は<何>(Was)に重点がおかれているので、彼らの著書は読んでいて愉しい。

そして我々、聴き手こそ<何故>(Warum)に集中することができるのだ。

しかし、これらは全て程度の問題で、行きつ戻りつの(演繹的かつ帰納的な)思考実験を重ね続けている事には、誰しも変わりは無いとも思う。
私自身は、<何故>(とりわけ自身が信じる生きる理由、存在価値)が一番に重要だ、と信じているが。

 

蛇足(Coda):

 

或る批評家が、グールドが下から上へアルペジオを弾いていたのを咎めていたが、この人は常識も知らない。

<<ゴルトベルク変奏曲>>の楽譜を見れば、第一頁めすぐに下から上へのアルペジオを指示する装飾音が書かれているのを見つけるであろう。

この人は、そうした記号を知らないか、或いは眼がとてつもなく悪いかのどちらかであろう。

私のこの曲の楽譜はピーターズ版であるが、それでも上記の記号が見て取れる。


赤字はデンマンが強調)

8-9ページ
『前奏曲集―あるアマチュアの覚書-作品 1の1』より

つまり、オイラが書いた上の小文がピアニストの小暮 春美さんに参考になると思って、デンマンさんはメールで彼女に知らせたのですか?

その通りだよ。。。

デンマンさんがオイラの書いた小文を他の人に紹介するなんて、なんだかオイラはデンマンさんに尊敬されているようでうれしいです。。。

それほど嬉しがるほどのことでもないよ。。。 ところで、僕が上の小文を引用したのには、他にもわけがある。。。

どのような。。。?

オマエは、私自身は、<何故>(とりわけ自身が信じる生きる理由、存在価値)が一番に重要だ、と信じているがと、書いている。。。

そうです。。。 オイラは間違いなく そのように書きました。。。。 それが、デンマンさんの気に障るのですかァ~?

あのさァ~。。。 オマエは、マジで「私自身は、<何故>(とりわけ自身が信じる生きる理由、存在価値)が一番に重要だ、と信じている」わけぇ~。。。?

その通りです。。。 武士に二言はありません! オイラはとりわけ自身が信じる生きる理由、存在価値が一番に重要だ、と信じているので、この信条に反するような行為は一切しておりません!

口は重宝だよ。。。 何とでも言えるのだよ。。。 でもなァ~、過去のオマエがした愚かな行為を振り返ってみると、フランス語まで持ち出してオマエが言う raison d’ être を信じることができないのだよ! 。。。と言うより、オマエは言っている事とやる事が全く信条に反しているのだよ。。。

その証拠でもあるのですか?

あるのだよ! オマエが書いた次のコメントを読んでごらんよ!

誰が言ったのか、「従僕は従僕の眼でしか主人を見れない」、というのがありました。
皆様、さしずめデンマンこと加藤明氏は、その伝でありましょう。
いや、彼は、ド百姓の眼でしか貴族の太田さんを見れないのかもしれませんね。

いやいや、それでもデンマンこと加藤明氏についてでは誉めすぎでしょう。
つくづく此処で思うのですが、そもそもゴロツキというのは人類に属するのかどうなのでしょうか。

もし、もしもですよ、デンマンこと加藤明が人類に属するのではないとすると、
奴さんは人非人になりますね。

それでかどうか、デンマンこと加藤明氏に反省の時期をあげようかと
打ち合わせたのにも拘わらず、A. I.やI. A.は
憤激遣る方無しの心境が納まらない様で何やら書き続けている様子ですが、
何れにしろ、A. I.やI. A.が書いていた通り、
私もデンマンこと加藤明氏に太田さんに(公開の場で)土下座して謝罪することを要求しているのです

(デンマンこと加藤明氏はChristmas cardにて、こそこそと
言い訳がましく謝ったことがありましたが、
それでは、私も太田さんと同様、受入れ難く存じます。

また、これは序でなのですが、「デンマンこと加藤明」と繰返しているのは、
他に同氏同名の加藤明氏がいらっしゃり、その方と区別させて頂いているからです)。

デンマンこと加藤明氏は、internetの中途半端な知識での未熟な推測、
彼の程度の技術での推理で、私たちではなく太田さんが書いているのではないか
との疑心暗鬼で無益な詮索をしている様子ですが、
それよりも私たちが書いてきたことを吟味し、
反省、悔恨するほうがデンマンこと加藤明氏自身の老後、
余生にとって多少なりとも意味があるのではないでしょうか。

 

V. T.

2015年11月25日 6:44 AM

【上のコメントに対するデンマンの返信】


(foolw.gif)

オイ! 太田将宏。。。

オマエは相変わらず馬鹿だね!

どんな人物に成りすましても、このような愚かな極めて長い同じ内容のコメントを書くのは
太田将宏しかいないのだよ!
愚か者! (爆笑)

オマエがこれまでに書いた すべてのコメントのIPアドレスは 次のアドレスなんだよ!

99.244.57.104

オマエは愚劣にも恥の上塗りをしているのを理解していない
孤独で愚かな老人に成り下がってしまったのだよ!

実の娘にも、心優しい奥さんにも相手にされない、
愚かで哀れなもうろく爺さんになってしまったのだよ!
きゃははははは。。。

今、愚劣なオマエに付き合っている暇がないのだよ! (微笑)
大切な人に会っている最中なのだよ!

僕は孤独で愚かな老人のオマエとは違って
たくさんの大切な友人、知人、親戚の人たちに恵まれているのだよ!
ぎゃはははは。。。

オマエのような愚か者に こうして返信を書いている時間は、本来ならばもったいないのだよ!
でも、オマエのような愚か者と違って紳士の僕ちゃんは、
オマエが愚かにも、同じ内容のたくさんのコメントを書きまくっているので、
このままほおって置くと、愚かなオマエが、ますます愚かな行為を続けると思うので、
仕方なくこうして返信を書いているのだよ!(爆笑)

そのうち大切な人たちと会って、時間のゆとりができたら、
じっくりとオマエに関する記事を書くつもりなのだよ!

だから、同じ内容のコメントを もうこれ以上書くのをやめろよな!

オマエも、できたら、愚かな事を止めて、田舎者じゃなく紳士になれよな!

僕ちゃんのコメントを次の記事の中で引用したので読むように!

 


(love126.jpg)

『きみ待ちわびて』
 (2015年11月16日)

僕ちゃんの記事はたくさんの人に読まれるけれど、
オマエの書いた愚劣なコメントなど真面目に読む人などいないのだよ!

オマエはネットでは、太田将宏という愚かな悲しい哀れで孤独な老人として知れ渡っているのだよ!
きゃははははは。。。

じゃあ、僕がオマエの記事を書くまで、元気にこの世に居て欲しい!
最後に、ぎゃはははははは。。。

 

By Denman

2015年11月30日 9:50 AM


『5月のバレンタイン』のコメント欄より

2015年11月25日にオイラの友人が書いたコメントですねぇ~。。。

オマエが書いたのだよ! 友人に成りすまして書いたのだよ! もうバレてるのだよ!

マジで。。。?

当たり前だろう! IPアドレスを調べれば、すぐに判ってしまうのだよ! それに、オマエは婆さん成りすまして馬鹿を振りまいていたのだよ!

太田将宏批判 哀れで愚かで孤独な老人 成りすまし老人 嫌われる太田将宏 孤立した太田将宏
(grandma9.jpg)

デンマン注

スピーカーをONにして 上の写真をクリックしてください。

太田将宏が ばあさんに成りすまして笑います。
別窓が開きます。 この男はオツムの回転が鈍いので
笑うまでに少し時間がかかります。

とにかく、虫唾(むしず)が走るようなうウザったい笑いです。
あなたも笑えますよ。 (爆笑)


 

「このようにして、デンマンこと、加藤明は自慰にふけっているのではないでしょうか?」、と書いたのは、私、I. A. ですよ。

 

A. I. Says:

2015年11月9日 4:31 AM


『5月のバレンタイン』のコメント欄より

デンマンさん!。。。 お願いですから、もう昔のことは水に流して忘れてください。。。 

オマエは反省しているのォ~?

オイラは、あの悪名高い「現実主義者」のように、これ以上馬鹿にされたくありません!


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『現実主義者 馬鹿の見本』

これからは、心の優しい親しまれる老人になろうと努力しますので 今後ともよろしくお願いします。。。

そのように素直に反省して謝れば、オマエは幸せな家庭生活を送れるようになるのだよ。。。 奥さんにも嫌われないようにすることだよ。。。


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【レンゲの独り言】


(manila07.gif)

ですってぇ~。。。

最後にデンマンさんが、また太田さんの奥さんを持ち出してきました。

まともな対談をしたようですが、最後でデンマンさんも太田さんも躓(つまず)いたようですわ。。。

ところで、太田さんはクラシックについての造詣が深いですけれど、

お仕事はコンピューター関連でした。

クラシックは趣味だそうです。。。

たいていデンマンさんは 太田さんに対して かなり辛らつな批判をしています。

太田さんにしてみれば、コケにされたと思えるようで、

次のサイトで抗議録を公開したのですわァ。。。


(kogiroku9.png)

『実際の抗議録』

デンマン注:しかし太田将宏が上の抗議録を掲載したサイトは消滅してしまいました!

 

デンマンさんも上の抗議録を読んで ムキになって反論しています。

『嘘を書く日記』

 

太田さんは、これに対しては反論ができないのか、それ以降 無言で通しています。

でも、そのうち 忘れた頃にまたコメントを書き込むかもしれません。。。

あなたは、どう思いますか?

とにかく、ネットには “めちゃキモい”人たちがウヨウヨしています。

太田将宏さんは、まだ良い方ですわ。

中には、まるで得意になって、愚かな事をして遊んでいる オツムの足りない人たちがたくさん居ます。

また、見かけは普通のブログでも、悪徳スパマーが手を変え品を変えて 悪徳サイトへ誘い込もうとしています。

スパムコメントで褒められると、ついついその気になって、

相手のブログへ飛んでゆき、お返しに、あるいはお礼にと思って

読者に登録してしまったりするものですわァ。

どうか スパマーの思う壺にはまらないでくださいね。

悪徳スパマーは悪徳サイトへ誘おうと

てぐすね引いて待っているのですから。。。

悪徳サイトを利用して、

メールアドレスで登録したりすると、

あなたのメールアドレスは第3者や第4者に売られてしまう危険性があります。

あなたは、そのようなスパム・コメントや 成りすましスパマーには

騙されないと思い込んでいるでしょう?

でもねぇ~、もしかすると騙されているかもよ。。。

とにかく気をつけてくださいね。

次回も、さらに面白い話題が続きます。

あなたも、どうか、また記事を読みに戻ってきてください。

では。。。


(hand.gif)

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■ 『坊主の袈裟と太田将宏』


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■ 『葛飾北斎と太田将宏』

■ 『女の性的飢餓感』

■ 『敵に塩を送る』

■ 『虚構とウソ』

■ 『手紙と絶交』

■ 『短気は損気』

■ 『不思議な日本語』

■ 『乙女の祈りだわ』

■ 『自作自演じゃないよ』

■ 『マリリンdeアイドル』

■ 『マリリンに誘われて』

■ 『かい人21面相事件』

■ 『悪名と名声』

■ 『嘘を書く日記』

■ 『増長慢』

■ 『自然に耳を傾ける』

■ 『老人極楽クラブ』

■ 『伯母と叔母』

■ 『民主主義とロックンロール』

■ 『後奏曲集@危険』

■ 『女3人で姦しい』

■ 『クラシック鑑賞 1』

■ 『クラシック鑑賞 2』

■ 『クラシック鑑賞 3』

■ 『クラシック鑑賞 4』

■ 『クラシック鑑賞 5』

■ 『クラシック鑑賞 6』

■ 『クラシック鑑賞 7』

■ 『クラシック鑑賞 8』

■ 『クラシック鑑賞 9』

■ 『クラシック鑑賞 10』

■ 『クラシック鑑賞 11』

■ 『レゲエ@ジャマイカの夜』

■ 『クラシック鑑賞 12』

■ 『クラシック鑑賞 13』

■ 『クラシック鑑賞 14』

■ 『クラシック鑑賞 15』

■ 『ヒルデガルトとジャンヌ・ダルク』

■ 『クラシック鑑賞 16』

■ 『クラシック@ルブリン』

■ 『田原総一郎と出版業界』

■ 『クラシック鑑賞 17』

■ 『ヒルデガルトと紫式部』


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『きれいになったと感じさせる

下着・ランジェリーを見つけませんか?』

『センスあるランジェリー』


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