2021年7月9日 (金曜日)
スペインの王女
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2021年6月23日 水曜日 午前9時32分
7時30分起床。気温21度。
今朝もスッキリとした雲ひとつない快晴!
僕もスッキリと目覚めましたよ!
気分はマジで快晴です!
初夏のすっきりした気温です!
小百合さんも那須で元気に、スッキリと目覚めましたか?
朝からビールを飲みたい気分ですか?
きゃははははは。。。
日本では梅雨だけれど、ムシムシして気分が落ち込むので
ネットでサーフィンして気に入った女性のヌード画像を見ながらロマンチックな気分に浸る男たちがいるんでしょうね!?
その証拠に、昨日、2つの記事を投稿したあとで
「徒然ブログ」のアクセス解析を観たら次のようなリストに出くわしました。
ドコモの検索エンジンで40代女性の人気ヌード画像を検索して小百合さんが出てくる『人気の40代女性ヌード』を開いたネット市民がいました。
もちろん、「小百合物語」を読んだネット市民もいました。
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毎朝、小百合さんが登場する記事を読むネット市民がいるのですよ。
そういうわけで、僕は毎日幸代さんと会っている気分です。
きゃははははは。。。
こうしてメールを書いていてもスクリーンの向こうで小百合さんが笑っている表情が見えていますよ。
きゃはははははは。。。
昨日はイギリスの時代劇映画『The Spanish Princess』を観ました。
時は1501年、スペインのキャサリーン王女が
イギリスのアーサー皇太子と結婚するために
アルハンブラの宮殿からロンドンに向けて出発するシーンから物語が始まります。
キャサリーン王女が子供の頃から、イギリスはフランスやハプスブルグ王家の脅威にさらされていたので、スペインと同盟を組むためにキャサリーン王女と皇太子の結婚を提案していたのです。
つまり、政略結婚です。
当時のスペインは大航海時代で南米からの金(ゴールド)で世界一の金持ちの国でした。
現在のアメリカの地位にあった。
イギリスは貧乏で特にフランスに居る亡命者のヨーク家に王座を狙われていた。
チューダー家とヨーク家の闘いが続いていたのです。
不安定な弱小国だったのです。
当時、イギリスはヘンリー7世の時代で、その皇太子のアーサーとキャサリーン王女は結婚したのだけれど、子供が生まれる前にアーサーは死んでしまった。
キャサリーンは夫はインポだったと言って、自分はまだ処女なので弟のハリー王子と再婚すると言い張ってイギリスにとどまった。
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ヘンリー7世の母親は大反対した!
キャサリーン王女の母親はスペインのクウィーン・イザベラでこの母親は、女だてらに鎧を着て剣を持ち男勝りに戦場に出て戦った。
すごい女傑です。
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その血を引いているので、キャサリーン王女も気が強くて野望を持っていた。
アーサーが死んだ時に母親はスペインに帰ってこいと言ったのに、何が何でもイギリスのクイーンになるのだと頑張って、ついにハリー王子と結婚してしまう。
このハリー王子こそ、あの有名なヘンリー8世になる人物です。
ハリー王子も頭がよく野望を持っており、
キャサリーンとは気があったようです。
8話からなるTVシリーズで、全部観ると7時間半かかる。
昨夜は、第4話まで観ました。
このキャサリーンはヘンリー8世に殺されてしまうのだけれど、どうしてなのか?
二人は熱烈に愛し合って結ばれたことになっている。
このヘンリー8世は確か6人の女と正式に結婚して、そのうちの数人を罪人として殺しているはずです。
これから、映画はどこまでを描いてゆくのか?
どうなってゆくのか?観るのが楽しみです?
最近、町子さんと連絡をとってますか?
元気でやっていると思うけれど、
もし機会があったら、今年の秋にぜひ会いたいものです。
町子さんが元気であれば、小百合ささんと神戸に行って
しゃれたレストラン・カフェで一緒に食事をするのもいいですね。
できれば、仙台にも、神戸にも小百合さんと一緒に行ってみたいです。
小百合さんが町子さんと電話で話をするようなことがあったら、よろしく、伝えておいてください。
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では、今日もルンルン気分で過ごしてね。
じゃあね。。。
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デンマンさん… また個人的なメールを書き出したのですか?
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そうです。。。いけませんか?
こういう私的なメールはネット市民の皆様にはつまらないと思いますわ…。
小百合さんも楽しめるように書いたのだから、ネット市民の皆様にも楽しめる箇所があるはずです…。
でも、個人的な部分は省略すべきですわ…。
あのねぇ〜、小百合さんが迷惑だと思うようなことは書いてません…。。。
迷惑なことが書いてありますわ。。。
でもねぇ〜、小百合さんを誰も特定することができないのです。。。だから、心配することはありませんよ。。。
けれども、特定しようとするネット市民が出てくるかもしれませんわ。。。
たとえ特定されたとしても「人違いだわ!」と押し通せばいいのですよ。。。そんな事より、映画の話をしましょう。。。
つまり、デンマンさんが観た映画のことが書いてあるので、メールを引用したのですか?
そうですよ。。。
。。。で、『The Spanish Princess』という映画を観て、それほど感動したのですか?
感動したと言うよりも、王女として生まれた女が野望と言うか?信念というのか?それとも夢を実現したいというのか? とにかく、「自分の気持ちを大切にして生きるのよ」としぶとく生き抜く姿がすごいと思いましたよ。。。
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スパニッシュ・プリンセス
キャサリーン・オブ・アラゴン物語
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『スパニッシュ・プリンセス キャサリーン・オブ・アラゴン物語』(原題: The Spanish Princess)は、2019年から放送されているアメリカ合衆国のテレビドラマシリーズ。
2013年の『ホワイト・クイーン 白薔薇の女王』、2017年の『ホワイト・プリンセス エリザベス・オブ・ヨーク物語』の続編にあたる。
本作はフィリッパ・グレゴリーの小説『The King’s Curse』『The Constant Princess』を基に製作された。
本作は全16話のリミテッドシリーズで、アメリカでは前半の8エピソードが2019年5月5日からStarzで放送された。
日本では、2020年4月からSTARZPLAYで日本語字幕・吹き替え版が配信された。
後半の8エピソードは2020年10月11日から放送が開始され、日本でもアメリカの放送と同時に配信された。
また、『キャサリーン スペイン王女の華麗なる野望』のタイトルで、2021年1月10日からNHK BS4Kで前半の8エピソードの日本語吹き替え版が放映されている。
あらすじ
キャサリーンは、幼い頃からイギリス王妃の座が約束されていた。
イングランドに渡ったキャサリーンは慣れない習慣に適応しようと奮闘するが、夫アーサー王太子の突然死によってすべてが変わっていく。
評価
本作は批評家から高い評価を受けている。
批評集積サイトのRotten Tomatoesには11件のレビューがあり、批評家支持率は82%、平均点は10点満点で7.13点となっている。
また、Metacriticには6件のレビューがあり、加重平均値は73/100となっている。
出典: 「スパニッシュ・プリンセス キャサリン・オブ・アラゴン物語」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ヘンリー8世の王妃になったキャサリーンは、殺されてしまうのですか?
そうなのですよ。。。
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キャサリーン・オブ・アラゴン
1487年12月16日 – 1536年1月7日
キャサリーン・オブ・アラゴン(Catherine of Aragon)は、イングランド王ヘンリー8世の最初の王妃(1509年結婚、1533年離婚)、メアリー1世の生母。
スペイン語名はカタリーナ・デ・アラゴン(Catalina de Aragón)。
しばしばカタリナとも表記される。
ヘンリー8世との間に男児が誕生しなかったことから、離婚問題が生起し、イングランド国教会創設のきっかけとなった。
スペインを統合・共同統治して「カトリック両王」と呼ばれたアラゴン王フェルナンド2世とカスティーリャ女王イザベル1世との間の末子として、アルカラ・デ・エナーレスで生まれた。
イングランドからカスティーリャに嫁し、王位簒奪を巡る抗争終結の象徴となった曾祖母キャサリーン・オブ・ランカスター(スペイン名:カタリナ)にちなんで命名された。
次姉は後のスペイン女王フアナであり、その息子で共同統治者であるカルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)はカタリナの甥にあたる。
政略結婚の背景
当時のイングランドは、1485年に薔薇戦争が終結して間もなく、ランカスター家の血を引くヘンリー・テューダーとヨーク家のエリザベス王女の結婚により両家の和合が図られ、混乱も収拾されたばかりであった。
エリザベスの伯母でブルゴーニュ公妃のマーガレットは一時、イングランド王位僭称者で反乱を起こすパーキン・ウォーベックを公認しており、ヘンリー7世は国内の混乱を抑えるため、マーガレットおよびその婿であるハプスブルク家のマクシミリアン(後の神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世)に接近する必要があった。
マクシミリアンは自身の子であるマルグリットをアストゥリアス公フアン王子に、フィリップ(フェリペ1世)をフアナ王女に、それぞれスペイン王家と縁組させていた。
1497年にフアン王太子が、翌1498年にカタリナの長姉イサベルが、そして1500年にイサベルの遺児ミゲルがそれぞれ死去し、次姉フアナが王位継承者となったため、スペインのハプスブルク家による継承が決定的になった。
しかも当時のスペインは、カトリック両王によってレコンキスタが完成され、「新大陸」の発見に沸くなど、ヨーロッパ国際社会において勢いを増していた。
スペイン側も、カタリナの父フェルナンド2世は東方への進出のため、フランスを包囲すべく、ハプスブルク家やイングランドとの縁組を希望していた。
このような情勢下で、カタリナ(キャサリーン・オブ・アラゴン)とヘンリー7世の長男アーサーとの縁組が企図された。
貪欲なヘンリー7世は巨額の持参金を要求し、スペインのイングランド駐在大使デ・プエブラが1489年3月12日に交渉をまとめた。
ヘンリー8世との再婚
1509年4月21日、ヘンリー7世が崩御した。
王位を継承した18歳の若き国王ヘンリー8世は、キャサリーンとの結婚しか念頭になく、枢密院での議論を無視し、父王の喪が明けぬ6月11日に立会人1人だけの結婚式を強引に挙げる。
こうしてキャサリーンはイングランド王妃となり、6月30日に戴冠式が執り行われた。
ヨーロッパ政治の中心は、神聖ローマ帝国(ハプスブルク家)とフランス王国(ヴァロワ家)であり、ヘンリーはハプスブルク家側に付いて国際社会における地歩固めをする意義があった。
アーサーとの死別以来8年近く苦境にあったキャサリーンにとって、結婚と戴冠は幸福の絶頂であり、7月に結婚の喜びと感謝の気持ちを父フェルナンド2世に書き送った。
ヘンリー8世は、薄幸の女性を救い王妃にしたことで、騎士道物語の英雄になったかのような誇らしい気持ちであり、一方キャサリーンに母性をも求めた。
キャサリーンはヘンリー8世に対し、政策面でも強い影響力を持った。
このように夫婦仲は、非常に円満であった。
しかし結婚生活の中、キャサリーンはたび重なる流産と死産に見舞われることとなる。
その最初の妊娠は新婚の1509年だった。
懐妊は極秘に伏せられたまま、翌1510年1月に女児を死産する。
そして1511年1月5日に男児ヘンリー王子を出産した。
ヘンリー8世の喜びは大きく、ウォルシンガムに巡礼し神に感謝を捧げた。
しかし、盛大な祝賀行事が続く中の2月22日、ヘンリー王子はわずか生後52日で亡くなっている。
王子を失った頃から、ヘンリー8世は好色さを露わにしていく。
愛妾として、バッキンガム公エドワードの妹アンやエリザベス・ハワードの名が残る。
1514年、再び男児を死産した。
この頃、ヘンリーはトマス・ウルジーを重用し、新たな愛人エリザベス・ブラントも持ち、宮廷にキャサリーンの居場所はなくなりつつあった。
1516年、ようやく健康な女児メアリー王女を出産する。
ヘンリー8世はメアリーを溺愛し、またキャサリーンはすぐに君主としての教育を意識した。
「離婚」への動き
ヘンリー8世は離婚(婚姻の無効)を画策し、ローマ教皇クレメンス7世の特赦を求め始めた。
近い前例としてフランス王シャルル8世やルイ12世が離婚を成立させたのは、当時からわずか数十年前、15世紀末の出来事だった。
一方、教皇の権威は下落し、教皇に対する神聖ローマ皇帝の影響力も無視できなかった。
1527年6月、ヘンリー8世は王妃キャサリーンに対し離婚の意思を正式に伝える。
キャサリーンは涙ながらに反論し、王妃の座を捨て修道院に入ることもしないと主張した。
さらに、これらの離婚の画策と同時期、1527年5月にカール5世は、ローマに侵攻し教皇を監禁した(ローマ劫掠)。
教皇捕囚という横暴によって教皇の権威は失墜する。
さらにキャサリーンは同年8月に極秘裏にカール5世と連絡を取り、婚姻の無効を認めぬよう教皇に圧力をかけさせた。
ここにヘンリー8世はハプスブルク家との離別を決意する。
同年8月、イングランドとフランスはアミアン協定を結ぶ。
裁判へ
翌1528年1月、ヘンリー8世とフランソワ1世は、カール5世に対して宣戦布告する。
戦争が膠着する中、ウルジーは3月23日に教皇クレメンス7世の下に到着し、離婚容認への圧力をかけ、板挟みになった教皇はイングランドでの教会裁判を許可した。
9月に教皇特使ロレンツォ・カンペッジョがロンドンに到着する。
しかし、教会法に精通した国王側と、ユリウス2世の結婚許可の勅書を提出した王妃側の対立は深く、事態は一向に進展しなかった。
10月25日、キャサリーンはカンペッジョと面会し、アーサー王太子と同衾したのは7夜のみで、処女であったことを告解する。
カンペッジョは、王妃の修道院入りを勧めていたが、全てを神と教皇に委ねる王妃の姿に感銘を受ける。
もはや離婚の意図を隠すことが出来なくなったヘンリー8世は、11月8日、ブライトウェル城で議会、主要貴族らを招集し、正式に離婚の意思を表明したが、周囲の反応は冷ややかだった。
1529年5月30日、ブラックフライアーズ教会で、教会裁判が開廷した。
裁判には国王と王妃自身も召喚され、国民は驚くとともに教皇の権威を感じることとなった。
双方の主張は従来通り平行線であり、7月にローマ教皇はこの問題をローマに移管することを決定する。
7月23日、カンペッジョは10月1日までの休廷とローマへの移管を宣言する。
同時期、フランス軍の敗北により、コニャック同盟戦争はカール5世の勝利によって終結した(貴婦人の和約)。
そして、ウルジーは、国王の離婚問題の解決に連続して失敗したため、ついに罷免された。
新たな愛妾たち
離婚の画策と並行して、キャサリーンの女官が2名、ウルジーに辞職させられる事件があった。
キャサリーンが女官に尋ねると、ウルジーは女官たちにスパイを命じ、王妃の動向を逐一報告させようとしており、辞職した女官達はその指示を拒んでいたのだった。
やがて、ウルジーがキャサリーンの女官として若い姉妹を出仕させた。
その姉妹こそは、ヘンリー8世の愛妾メアリー・ブーリン(既婚者)、そしてメアリーに続いてフランスから帰国したアン・ブーリンである。
アンもメアリー同様フランス宮廷に留学していたが、1521年頃、イングランドが親皇帝政策を取ってフランスの関係が悪化したことから帰国せざるを得ず、キャサリーンにとっては皮肉なことに、王妃が支持した親皇帝政策が遠因となって王妃の座を追われることとなった。
一方、メアリーはヘンリー8世の愛妾として2人の庶子を儲けていた。
姉妹の両親とキャサリーンには因縁がある。
姉妹の父トマス・ハワード(第3代ノーフォーク公)は、かつてヘンリー8世とキャサリーンの結婚に猛反発し、また母エリザベス・ハワードはかつてヘンリー8世の愛妾だった。
しかし、キャサリーンは洗練されたフランス宮廷で育ったアンが、イングランドに馴染めずにいることを気にかけ、側近として厚遇した。
1523年頃、アンは、ヘンリー8世とウルジーによってヘンリー・パーシー卿(後の第6代ノーサンバランド伯)との恋愛を引き裂かれた。
キャサリーンは狂乱状態にあるアンを義姉マルグリットの統治下にあるネーデルラントのメヘレンに預けるよう配慮した。
しかし1525年、イングランドと神聖ローマ皇帝の関係悪化に伴い、アンはイングランドに帰国する。
同年夏頃、およそ25歳のアンはヘンリー8世の心を捉えてしまう。
「離婚」後
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王妃の座を追われるキャサリーンと、公衆の面前で愛をささやく国王とアン・ブーリン(19世紀画)
教皇側に離婚を進める動きは全くないまま、1531年夏頃にキャサリーンはヘンリーと別居させられる。
1531年から法改正などが行われ、1534年にはイングランド国教会が創設されてヘンリー8世はその長となり、ローマ教皇庁から独立を果たす。
一連の動きの中で1532年11月14日に国王とアンは極秘結婚し、翌1533年4月12日に公表された。
このときアンは妊娠しており、生まれてくる子を庶子にしないための措置だった。
『レビ記』を逆手に取ったヘンリー8世はカンタベリー大司教トマス・クランマーに命じ、5月23日に婚姻の無効を宣言させ、キャサリーンはバックデンに隠棲させられる。
カール5世は、オーストリアの拠点ウィーンをトルコ軍に包囲されて以降、オスマン帝国の脅威に直面しており、キャサリーンを救う余力はなかった。
キャサリーンは婚姻の無効を決して認めなかったが、ヘンリー8世からは王太子アーサーの未亡人としてのみ遇され、公式には「Princess Dowager」(王太子未亡人)と呼ばれることとなった。
また、ヘンリー8世との結婚自体が無効であるため、庶子扱いとなった一人娘メアリーとの面会も文通も禁じられた。
1533年6月1日にアンの戴冠式が行われ、9月7日にエリザベス王女(後の女王エリザベス1世)が誕生し、ヘンリー8世は大いに落胆する。
追い討ちをかけるように、翌1534年3月23日、王位継承法の成立によって、メアリー王女の継承権が剥奪された。
しかし、同日、ローマ教皇クレメンス7世はキャサリーンの結婚の正当性を認める判決を下した。
キャサリーンは5月、さらにキンボルトンに移され軟禁状態に置かれる。
監禁に近い生活であったが、近辺の住民と努めて接触し、王妃時代と同様に評判が良く、住民たちは彼女をプリンセス(王太子妃)ではなくクイーン(王妃)と呼んだ。
国内の混乱を知ったキャサリーンは、1535年10月、病を押してそれまで躊躇してきた、ヘンリー8世の破門を教皇とカール5世に極秘裏に上訴する。
1536年1月7日、キャサリーンはキンボルトン城で崩御する。
数日前、ヘンリー8世に宛てた最後の手紙に「イングランド王妃キャサリーン」の署名を残した。
ヘンリー8世は、彼自身とメアリー王女、王妃の従者たちを気遣った手紙に涙したのも束の間、この署名を見て敗北感を味わったとされる。
娘メアリーにはスペインから持参した持ち物のうち、わずかに残った毛皮1枚、金の鎖、十字架のペンダントを残した。
そして、甥である神聖ローマ皇帝カール5世に対し、メアリーの庇護を求める手紙を残した。
葬儀にはメアリーの出席が禁じられ、目立った行事も厳禁とされた。
しかし、キャサリーンを慕う住民たちはそれを無視して進んで葬列に加わり、行列は500人にも及び、キンボルトンから40キロ北のピーターバラ修道院まで代わる代わる棺を担いだという。
奇しくも葬儀の日、アン・ブーリンは男児を死産し、ヘンリー8世の寵愛を失うことが決定的になると、同年5月に処刑される。
その後もヘンリー8世は次々と再婚、そして離別と処刑を繰り返し、1547年に崩御した。
ヘンリー8世の正嫡の男子で唯一生存したエドワード6世が15歳で崩御すると、ジェーン・グレイを巡る混乱を経て、キャサリーン所生のメアリーが王位に即いた。
「ブラッディ・メアリー」(血塗れのメアリー)と呼ばれた女王メアリー1世である。
メアリーが即位すると、キャサリーンの名誉は完全に回復され、ヘンリーとの婚姻関係も有効であるとされた。
出典: 「キャサリン・オブ・アラゴン」
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あらっ。。。デンマンさんはキャサリーン王妃ががヘンリー8世に罪人にされて殺されたと書いてましたけれど、キャサリーンはしぶとく生き抜いたのではありませんか!
そうです。。。僕はアン・ブーリンとキャサリーンを混同していたのですよ。。。とにかく、ヘンリー8世は8人の女性と結婚して、7人を罪人にして殺させてますから、キャサリーンもそのうちの一人だと僕は判断していたのですよ。。。
。。。で、どうしてキャサリーン王女を取り上げたのですか?
上のメールにも書いたけれど、かつて僕は次の記事を書いたのです。。。
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この亀姫も気が強く、強情なところがあった。。。その点でキャサリーン王女とよく似ているのですよ。。。もちろん、政略結婚で自分の意志とは全く関係ない相手に嫁がされた。
亀姫
亀姫(永禄3年6月4日(1560年6月27日) – 寛永2年5月27日(1625年7月1日))は、徳川家康の長女。
母は築山御前(瀬名今川氏)で、松平信康は同母兄。奥平信昌の正室。
永禄3年(1560年)、駿府で生まれた。元亀4年(1573年)ごろに家康が奥三河における武田氏の勢力を牽制するため奥平氏の帰順を試みた際、織田信長の提案で亀姫と新城・城主・奥平信昌の婚約が提示条件の一つとなり、長篠の戦いをめぐる戦功への家康からの褒美として天正4年(1576年)、亀姫は信昌へ嫁いだ。
生涯、信昌に一人も側室を置かせず、自身で4人の男子(家昌・家治・忠政・忠明)と1女(大久保忠常室)を儲ける。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの戦勝により、慶長6年(1601年)夫・信昌が美濃加納10万石に封じられ、三男・忠政共々、加納に移ったことから、加納御前・加納の方と呼ばれるようになった。
やがて忠政、宇都宮藩の嫡男・家昌、信昌と夫子らの相次ぐ死去を受けて、剃髪して盛徳院と号し、幼くして藩主となった孫たちの後見役となった。
寛永2年(1625年)、加納において66歳で死去した。
戒名は盛徳院殿香林慈雲大姉。墓所は光国寺(岐阜県岐阜市)、法蔵寺(愛知県岡崎市)、大善寺(愛知県新城市)にある。4人いた妹たちには全て先立たれている。
宇都宮城釣天井事件と亀姫
亀姫を「宇都宮城釣天井事件」の黒幕とする説がある。
嫡男・家昌の遺児で、わずか7歳で宇都宮藩主となった孫の奥平忠昌は、12歳の時に下総古河藩に転封となった。
忠昌の替わりに宇都宮へ入封したのは本多正純である。
亀姫は正純を快く思っていなかった。その理由は、大久保忠隣失脚事件である。
信昌・亀姫夫妻の一人娘が、大久保忠隣の嫡子・大久保忠常に嫁していたため、大久保氏と奥平氏の関係は緊密であった。
だが、娘婿・忠常が早世し、頼みとする忠隣は不可解な改易となり、心を痛めていた亀姫は、正純とその父・本多正信が奸計で忠隣を陥れた、と見なした。
さらに、忠昌の転封にも亀姫は我慢がならなかった。
年少ゆえの移封であれば忠昌相続時の7歳の時点で行うべきであるところを、12歳まで成長した後の国替えだったからである。
しかも、それまでの奥平氏が10万石であったのに、正純になった途端15万石というのも承服しかねた。
そこで、異母弟の第2代将軍徳川秀忠に、日光へ参拝するため宇都宮城へ宿泊する際、正純には湯殿に釣天井を仕掛け将軍を暗殺するという計画がある、と洩らしたとされる。
釣天井自体は事実無根であったが、正純は配流されることとなった。
その後は、忠昌が再び宇都宮藩へ配されたというものである。
また、下総古河への国替えの引っ越しにまつわる、こんな逸話がある。
本来、私物以外はそのまま新入封の家中のために残して立ち去るように法度で定められているところを、奥平家は障子、襖、畳までも撤去した。
さらに、邸内の竹木まで掘り起こし、一切を持ち去ろうとした。これを聞きつけた正純の家臣が、慌てて駆けつけて国境で呼びとめ、その非を咎めたため返還したという内容であるが、真偽は定かではない。
出典: 「亀姫(徳川家康長女)」
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キャサリーン王女が生まれたのは1487年。亀姫が生まれたのは1560年。 生まれた時代も場所も違うけれど、亀姫とキャサリーン王女は同じような境遇のもとで生まれ、育てられた。。。キャサリーン王女は、当時、世界最強のスペインのクウィーン・イザベラの王女として生まれた。。。亀姫は、将軍になる徳川家康の長女として生まれた。。。つまり、二人共、将来は政略結婚のために使われることになる運命にあったのですよ。。。
そういう境遇にあると、女は気が強くなるものなのでしょうか?
実際二人ともかなり気が強かったのですよ。。。亀姫は、当時としては異例で、夫に妾(めかけ)を持たせなかった。。。亀姫の夫は、いわば家康の部下だから、今で言えば、社長の長女を妻に迎えた出世課長のようなものですよ。。。妻には頭が上がらない。。。だから、「妾を持つな!」と言われれば、もう妻の言うことに従わなければならない! 従わなければ、改易になって他家に預けられて「飼い殺し」にされてしまう。
将軍の娘を妻にもらった部下は大変だったのですわねぇ〜。。。
そうです。。。
つまり、私も気が強いので、わざと嫌がらせで こうしてスペインの王女 と 亀姫 を取り上げたのですか?
やだなあああァ〜、違いますよう!。。。女性が「将棋の駒」のように扱われていた時代にも自分の気持ちに正直に生きた女がいたということですよ。。。だから、小百合さんが18年間、夫と添い遂げたあとで離婚したということは、意味のあることなのです。。。ダラダラと夫の経済力に頼って、離婚したいのに離婚できない妻がたくさん居るのです。。。人生は一度です。。。自分の気持ちに正直に生きるのが女の生きる道です。。。人間の生きる道です。。。
あらっ。。。デンマンさんも私が離婚したことを認めてくれるのですか?
お金目当てで離婚する妻もいるけれど、小百合さんは一銭ももらわなかったのだから、すごいことですよ。。。
一生は一度ですから、間違った結婚で一生を終わりたくありませんわァ〜。。。
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ですってぇ~。。。
あなたも間違った結婚をしてしまったと思いますかァ〜?
ええ。。。「そんなことはどうでもいいよ! オマエの知ったことじゃない! それより他にもっと楽しい話をしろ!」
あなたは、そのような強い口調で あたくしにご命令なさるのでござ〜♬〜ますかァ〜。。。
いけ好かないお方。。。
分かりましたわァ〜。。。じゃあ、あたくしの“ヴィーナスのえくぼ”をご覧に入れますわァ。
(gog60409a.png)
最近 「卑弥子 ヴィーナスのえくぼ」と入れてGOOGLEで検索する殿方が多いのでござ~ますわァ。
つまり、あたくしの“ヴィーナスのえくぼ”を目当てにやって来るのですわァ~。。。
うふふふふふふ。。。
ジムに毎日通って“ヴィーナスのえくぼ”をゲットしたのですわよゥ。
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どうでござ~ますかァ?
ええっ。。。 あたくしのお尻だとは思えないのでござ~ますかァ~?
どうしてよう?
ええっ。。。 スタイルがよすぎると、おっしゃるのござ~ますかァ~?
あたくしが十二単を一枚、一枚脱いでゆくと、最後には上のようなおヌードになるのですわよう。
信じてくださいましなァ~。。。
とにかく、興味深い話題が続きますゥ。
どうか、あなたもまた読みに戻って来てくださいませ。
じゃあ、またねぇ。。。
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RSSリーダーがどういうものなのか?
よく分からない人は次の記事を
ぜひ読んでみてください。
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ところで、英語の面白いお話を集めてみました。
もし、時間があったら読んでみてくださいね。
とにかく、今日も一日楽しく愉快に
ネットサーフィンしましょうね。
じゃあね。
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