上原良司の自由主義

 
2022年5月26日 (木曜日)
 

上原良司の自由主義

 


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素晴らしい人生

 


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2022年4月13日 水曜日 午前9時8分

6時55分起床。 気温プラス1度
曇が空を覆っている!
でも、僕はスッキリと目覚めましたよ!
きゃっほおおおォ〜

小百合さん、おはよう!
元気ですか?

今朝もディナーロールにサワークリームをたっぷりと付けて食べました。
小百合さんと一緒に食べたいよ!
きゃははははは。。。

あと一つディナーロールが残っているよ!
そういうわけで、明日は午後からパンと豆腐を買いに そこの安売りマーケット行きます。
半値コーナーで掘り出しモノがあったら買ってきます。

スキーシーズンも終わって、軽井沢でのんびりと過ごしてますか?
冬の疲れをのんびりと過ごしながら癒してね。
骨盤は、怪我もなく大丈夫ですか?
きゃははははは。。。

ところで、昨日、記事を投稿したあとで、いつものようにアクセス解析のリストを見ました。

 


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『拡大する』

 

なんと、『ワンダフルライフ』が読まれているのですよ!

ネット市民の多くが「素晴らしい人生」を送ろうと夢見ているのですよ!

 


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『ワンダフルライフ』

 

そういうわけで、小百合さんも健康で長生きして素晴らしい人生を過ごしてね。
僕も小百合さんの思い出を胸に素晴らしい人生を過ごしますよ!
きゃははははは。。。

ところで4月9日に撮影したクリップをYouTubeにアップロードしてバックグラウンドミュージックを付けて小百合さんが見られるように公開しました。

 

 

この梅に似た花なんだけれど、日本にも同じ木があると思うのですよ。
もしかすると小百合さんの山の家の庭に、同じような花が咲いているかも?

小百合さんは見たことがありますか?
桜ではないよね。
桜の木の肌とは違っている。
梅の木でもないと思う。
枝ぶりが梅の木のようじゃない!
梅の花は、もっと赤味があると思う。
ピンクか?ほのかに赤い色をしていると思う。

この木の後ろの建物は、コミュニティ・センターだけれど、この壁の向こうは、小百合さんが滑ったことのあるスケートリンクですよ。

僕は、毎朝、このスケートリンクを見下ろせる、
2階の観覧用の長テーブルに座りながら記事を書いたり、投稿したりしているのですよ。

時々、小百合さんがこのスケートリンクで滑っている姿を思い浮かべるのです。

でも、このスケートリンクも日曜日に終了して、
体育館に衣替えして、すでに氷は消えてなくなりました。
春です。
でも、まだ、まだ、気温は春らしくない!
早くルンルン気分になれる春になってほしいい。
きゃははははは。。。

ウクライナの戦争も終わってほしいけれど、
コロナ騒ぎも、もうそろそろ終わってほしいよね。
秋までには、コロナが消えてほしいですよ。
そうすれば、ビザなど無しでも日本に帰省できるようになる。
以前の状態に戻って欲しい!

今年の秋、小百合さんと再会したら
また「さきたま古墳公園」でピクニックしようね。

 


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軽井沢の別荘では小百合さんと一緒にジルバ、ボサノバ、サルサ、マンボを踊ろうね。

きゃははははは。。。

 

 

とにかく、小百合さんはコロナには感染しないようにくれぐれも気をつけてね。
じゃあ、気が向いたら、小百合さんも またメールを書いてね。
今日もルンルン気分で過ごしましょう!

 


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デンマンさん。。。どういうわけで、上原良司の自由主義 を持ち出してきたのですか?


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あのねぇ〜、上のメールにも書いたけれど、『ワンダフルライフ』が読まれたのです。。。この記事の中で次の映画を紹介したのです。。。

 

ワンダフルライフ


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『ワンダフルライフ』(After Life)は、是枝裕和監督の、『幻の光』につづき2作目の映画。
ヴェネツィア国際映画祭などで受賞した前作に引き続き、日本国内よりもアメリカやカナダでの評価の方が高く、ハリウッドでのリメイクも決定している。

ドキュメンタリー出身の作風を生かし、出演者に簡単な状況設定のみを与え、即興で作られたシーンが多い。
その手法は第3作目の『DISTANCE』、第4作目の『誰も知らない』でも引き継がれている。

死んでから死後の世界へと旅立つまでの1週間、死者達は「そこ」で一番大切な思い出を選ぶ。

その思い出は、彼らと「そこ」のスタッフ達の手によって映画として再現される。

そして、その記憶が頭の中に鮮明に蘇った瞬間、彼らはその「一番大切な記憶」だけを胸に死後の世界へと旅立っていく

選んでください。貴方の一番大切な思い出はなんですか?


出典: 「ワンダフルライフ (映画)」
フリー百科事典『ウィキペディア』

 

どうして上の映画を取り上げたのですか?

あのねぇ〜、自分が死のうとしている時に、もし誰かが「これまでの貴方の人生で一番大切な思い出はなんですか?」と訊かれたら、僕はとっさには答えられないと思うのですよ。。。

これまでにデンマンさんは考えてみたことがないのですか?

だいたい、死ぬだろうという発想が まずない。。。もちろん、人間はいつか死ぬのだけれど、僕はこの40年間 風邪を引くことはめったに無いし、病気らしい病気になったこともない。。。

40年間、病院に行ったこともないのですか?

僕はセスナの免許を持っているから、免許の更新のために病院で健康診断を受けるけれど、それを除いたら病気になって病院に行ったこともない。

 


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もちろん、入院したこともない。。。つまり、死ぬだろうという想いに駆られたことがないのですよ。。。当然、これまでの人生で一番大切な思い出はなんだろうか?。。。と考えてみたこともない。。。だから、上の映画を観て考えさせられたのですよ。。。

。。。で、映画を観て何が一番印象に残ったのですか?

次の写真を見てください。。。

 


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この写真のおじいさんは75歳で亡くなって、この1週間滞在所(天国待合所)にやってきたのです。。。左の女性は5年前にな亡くなった このおじいさんの妻です。。。香川京子さんが特別出演しているのです。。。このシーンだけに出ている。。。このおじいさんが記憶に残っているシーンを思い出しているところです。。。

。。。で、次の写真は、どういうことですか?

 


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写真の左側の女性は、実は上のおじいさんの妻の若い頃の写真なのですよ。。。5年前に亡くなった おじいさんの妻が、1週間滞在所(天国待合所)で 「一番大切な記憶」として残したシーンなのですよ。

右側の若い海軍将校は誰なのですか?

この女性の婚約者なのです。。。実は、この海軍将校は1944年のフィリピン沖の海戦で24歳で戦死してしまったのです。。。で、戦死した海軍将校の青年は、その時の年齢で、この1週間滞在所(天国待合所)で職員(カウンセラー)として働いているのですよ。。。

 


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向かって右側の男性が、現在、この1週間滞在所(天国待合所)で働いている その職員(カウンセラー)です。。。実は、この青年が、上のおじいさんの担当者になって、色々と話を聞いている内に、このおじいさんの妻が、自分の婚約者だった女性だと気づいて、所長に「このおじいさんの担当を辞めさせてくれませんか」と申し出るのです。。。

。。。で、左側の若い女性は誰なのですか?

この女性も若い頃に亡くなって、現在、この1週間滞在所の職員になっている。。。実は、この女性は同僚の この青年に恋しているのですよ。。。

あらっ。。。職場結婚するのですか?

どうなるのか? それは小百合さんが この映画を観て見極めてください。。。結末を話したら、この映画を観たい人にネタバレになってしまいますから。。。

。。。で、デンマンさんにとって「一番大切な記憶」だけを胸に死後の世界へと旅立っていくとしたら、その思い出とは何ですかァ〜?

じっくり考えてみたけれど、たくさんありすぎて選ぶのに迷いましたよ! 一つだけ選ぶのは無理ですよ。。。

。。。で、「一番大切な記憶」と上原良司の自由主義 がどのように関わっているのですか?

あのねぇ〜、この上原良司少尉は特攻隊の一員として敵艦に突っ込んで戦死したのですよ。。。僕は、たまたま上原良司少尉の次のクリップを観たのですよ。。。

 


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このクリップを観て、上原良司少尉にとって「一番大切な記憶」とは何だったのだろうか?

つまり、『ワンダフルライフ』の映画に上原良司少尉を重ね合わせたのですわねぇ〜。。。

そういうことです。。。

。。。で、デンマンさんは、上原良司少尉にとって「一番大切な記憶」とは何だったと思ったのですかァ〜?

その前に、上原良司少尉のことについて調べてみましたよ。。。ウィキペディアには次のように書いてありました。。。

 

上原良司

 


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1922年9月27日 – 1945年5月11日

 

上原 良司は、大日本帝国陸軍軍人。 陸軍特別攻撃隊第56振武隊員。
「自由主義者」を標榜する遺書の内容で有名。

上原が書き残した遺書や手記などは、近代日本史上の軍人が書き残した遺稿の中で、最もよく知られているものの一つであり、『きけ わだつみのこえ』などの多くの書籍に掲載され、映画やドキュメンタリー番組で度々取り上げられている。

長野県北安曇郡七貴村(現・池田町)に医師の父・上原寅太郎、母・よ志江の三男として生まれ、旧穂高町(現・安曇野市)有明で育つ。

遠縁にあたる「有明医院」を継いだ上原家は裕福で子供らに文化的な生活を送らせており、近くの乳房川で家族みんなで写真の撮影会をしたり、家の離れに近所の子供たちを集めて肝試し大会を開催したり、広い裏庭ではテニスをやったり、またスキーや登山といった遠出も頻繁に行っていた。

楽器にも親しんでおり、中でも2人の兄はバイオリン、上原はハーモニカの演奏が得意であった。
祖父が俳人だったこともあってか、上原家の子供たちは文才に恵まれ、また、ものを書く習慣が備わっていた。

上原も厖大な遺稿を遺しており、松本中学校に入学したときには「僕が先づ中学校へ来て驚いた事は、他の中学校にはないような、自治といふ精神や古い歴史がある」という気持ちを書き遺し、松本中学校の新校舎が完成したときには近くの松本城と比べて「天守閣を見上げた我々も、こんどは天守閣を見下すようになった。天守閣よ聞け、我が新校舎にはかなわないだろう」などと書いている。

しかし寡黙で控えめな上原は学校で目立つ方ではなく、鉱物研究や籠球にも熱中していたが、周囲から見るとちょっとすました印象であったという。

1941年、慶應義塾大学予科に入学。1942年に慶應義塾大学経済学部に進学するが、大学生活で熱中したのがイタリアの歴史哲学者ベネデット・クローチェだった。
クローチェはベニート・ムッソリーニが進めるファシズム に反対し、自由の尊さを訴えた人物であるが、このことが上原に大きな影響を与えた。

特に歴史哲学者の羽仁五郎のベネデット・クローチェ論の著作『クロォチェ』が愛読書となった。

 

学徒出陣

入学した12月に太平洋戦争が始まったが、この時点で上原は周囲の学友たちと一緒に、ラジオ臨時ニュースの真珠湾攻撃での日本軍の大戦果に大歓声を挙げ、宣戦の詔勅の奉読を脱帽して聞き、東條英機首相の演説を聞いて胸を熱くするなど、一般の学生たちと同じような開戦への感想を日記に記している。

その後、大学生の徴兵猶予停止によって学徒出陣となって、大学を繰り上げ卒業し、明治神宮外苑競技場での学徒出陣壮行会に参加している。

1943年12月1日に陸軍入営。
歩兵第50連隊に配属となり、第2期特別操縦見習士官として熊谷陸軍飛行学校入校、館林教育隊にて操縦訓練を開始した。

軍に入隊前は、一般の学生と同じように日本の勝利を喜んでいた上原であったが、今までの学生生活とは全く異なる厳密な上下位階制且つ命令絶対の世界を体験し、また理不尽な暴力や叱責、無内容な精神訓話や無意味な訓練を強要されるうちに、学生時代に培った「自由主義思想」が強化されていった

上原は上官などに臆することなく、軍内で「自由主義思想」に基づく自分の考えを主張した。
熊谷陸軍飛行学校では、訓練の感想などを記入して上官に提出する「修養反省録」というノートがあったが、上原はその「修養反省録」に「教育隊ニ人格者少ナキを遺憾トスル」などと堂々と上官を批判するような記述を行い、上官からは「貴様ハ上官ヲ批判スル気カ」「学生根性ヲ去レ!」などと朱書きで叱責の返事がなされている。

しかし、上原はその叱責に全く臆することなく「人間味豊カナ、自由ニ溢レ、其処ニ何等不安モナク、各人ハ其ノ生活ニ満足シ、欲望ハアレドモ強クナク、喜ビニ満チ、幸福ナル真ニ自由ト云フ人間性ニ満チ溢レテ、コノ世ヲ送ラントスル時代が近ヅキツツアル。ソレハ自由主義ノ勝利ニ依ッテノミ得ラレル。クローチェハ云ヘリ。今国家ニ特殊ナル使命ハアリ得ズ。」などとクローチェや自分が標榜する「自由主義」が勝利すると明記し、さらに上官を激怒させている。

1944年に熊谷陸軍飛行学校を卒業、この頃から上原は自分の考えを「戦陣手帳」と名付けた小さな手帳に記すようになるが、その中には「自由ハ人間性ナルガ故ニ、自由主義国家群ノ勝利ハ明白デアル。日本ハ思想的ニ既ニ敗レテ居ルノダ。何デ勝ツヲ得ンヤ」「日本ノ自由ノタメニ、独立ノタメニ死ヲ捧ゲルノダ」と、すでにファシズムのイタリアや、ナチズムのナチスドイツが敗れようとしているように、同じ枢軸国で国家主義の大日本帝国が、個人主義、自由主義のアメリカや大英帝国に戦争に負けると確信していたが、同時に日本のために飽くまでも命を捧げて戦い抜く決意もしていた。

1944年8月から鹿児島県知覧の第40教育飛行隊に配属となり連日激しい訓練を繰り返した。
この知覧での訓練はかなり過酷であった模様で、11月までの4ヶ月間は筆まめな上原が家族や知人に一切手紙すら出せないような状況であった。

一転して、12月に着任した佐賀県目達原第11練成飛行隊においては、訓練日程も比較的余裕があり、女学校を卒業したばかりの女性事務員たちと交流を持ち、テニスラケットやボールを貸してもらって、慶應義塾大学日吉キャンパスのテニスコートを懐かしみながら友人とテニスを楽しんだりしていた。
目達原基地では1945年3月6日に特攻の志願が募られたときに、上原は一緒に訓練していた80名の搭乗員と特攻に志願した。

特攻を志願した上原は故郷への帰郷を許されて、4月6日に最後の帰郷をした。
上原は家族や親戚や幼なじみと会ったが、誰にもこれが最後とは告げなかった。

しかし幼なじみで親友の犬飼五郎には、「死地に赴くのに喜んで志願する者は一人だっていない。上官が手をあげざるをえないような状況をつくっているのだ。仕方ない と心で泣き泣き手をあげているのが本当の気持ちさ」と語り、家族と一夜を過ごしたときには、酒を飲みながら「日本は敗れる。俺が戦争で死ぬのは、愛する人たちのため。戦死しても天国にいくから靖国神社にはいないよ」と語っている。

軍に入隊当初上原は「修養反省録」に「靖国ノ神トナル日ハ近ヅク」などと書いており、考えが大きく変化したことがうかがえる。

上原は、4月15日に調布飛行場にて、常陸教導飛行師団で陸軍航空士官学校第57期池田元威少尉を隊長として編成された陸軍特別攻撃隊第56振武隊に配属となった。
第56振武隊は隊長の池田以外の隊員は、上原と同期の第2期特別操縦見習士官で編成された全員将校の部隊であった。

上原らは調布飛行場で乗機となる三式戦闘機「飛燕」を受領し、機体の整備と訓練を行った。
ここでは、気の置けない同期生たちとざっくばらんな会話をしていたようで、面会に来た妹の清子が、上原と同期生たちが「俺と上原と一組か。大物をやれよ。小破なんか承知せんぞ」 「当然だ。空母なんか俺一人で沢山だ」「これがニューヨーク爆撃なんていうなら喜んで行くんだがな。死んでも本望だ」「心残りはアメリカを一遍も見ずに死ぬことさ。いっそ沖縄なんか行かず、東の方に飛んで行くかな」「アメリカに行かぬままお陀仏さ」「向こうの奴らは何と思うかな」「ほら、今日も馬鹿共が来た。こんな所までわざわざ自殺しに来るとは間抜けな奴だと笑うだろうよ」などと語り合っているのを聞いている。

5月3日に上原ら第56振武隊は陸軍の特攻基地である知覧基地に到着した。
知覧町には、上原ら陸軍特別攻撃隊員たちが食事をした「富屋食堂」があったが、上原はそこの女将鳥濱トメに「小母さん、日本は負けるよ」と来店するたびに呟いていたという
鳥濱は上原の呟きを聞くと「そんなことはいってはいけない。ここには憲兵もいるんだから、気をつけなさいよ」と優しく諫めていた。

上原とともに出撃した陸軍所属の特攻機は約80機であったが、機体の故障等で引き返してくる機も多かった。
しかし、上原機が帰還することはなく、沖縄県嘉手納のアメリカ軍機動部隊に突入して戦死したとされた。享年22。

なお、2人の兄、長男・良春は慶應義塾大学医学部を卒業後に陸軍軍医となり、終戦直後の1945年9月にビルマの捕虜収容所で戦病死。次男・龍男も医学部卒業後に海軍軍医となって、1943年9月にニューヘブリデス諸島沖で伊182と共に戦死しており、上原家の3人の兄弟は全員戦争によって命を失った。父寅太郎は大いに悲しみ、いつまでも面影を忘れないために3人の胸像を刻ませた。「有明医院」は妹清子が医師の夫と結婚して引き継いでいる。

 

私生活

上原は複数の女性に恋愛感情を抱いていたという指摘もある。
遺書「所感」の後半に「天国に待ちある人、天国において彼女と会えると思う」と記されているが、その彼女こそが、「きょうこちゃん」こと石川冾子である。
上原は上原家と石川家と家族同然の付き合いをしていくなかで、「きょうこちゃん」に好意を寄せ続けて、日記にもたびたび登場していたが、上原の想いは叶うことなく「きょうこちゃん」は父親が纏めた縁談によって、1943年に陸軍士官の野口美喜雄大尉と婚約している

しかし、「きょうこちゃん」は結婚直後の1944年に結核で病死しており、上原は「きょうこちゃん」の死を知ると、その日の日記に「俺は本日死したり」と記述している
そして、さらに「己ガ冾子チヤンヲ貰ツタラ決シテ死ニハサセナカツタノニ。野口大尉ノ無智。彼ハ真ニ彼女ヲ愛シテヰナカツタノダ。若シ愛シテ居レバ彼女ハ救ヘタノダ。一時ノ慾望。或ハ政略的結婚ノタメニ彼女ヲ死ナセタコトハ許サレヌコトダ。彼女ハ不幸ダツタ」と激情のままに野口を非難するようなことも記述しているが、1944年初めの入籍時点ではすでに「きょうこちゃん」は病魔に冒されており、それを知った上で受け入れた野口に対して、石川家はこの結婚を不幸とは捉えていなかったという

上原は「きょうこちゃん」に秘めた想いを抱きながら、師岡みゑ子とも心をかよわせていた。
上原が諸岡に恋愛感情を抱いたきっかけは、師岡の声が「きょうこちゃん」に似ていたからだという。

戦後に戦記作家となった元陸軍報道班員の高木が、自ら制作に関与しパーソナリティもつとめたTBSラジオの「愛の戦記」という番組において、上原と師岡の恋愛エピソードも紹介された。

この番組は「たくさんの資料で、肉を付け、心を込めて放送します」と高木が脚色を加えることを匂わせており、かなりの脚色が加えられて、事実とは異なっていた。
しかし、上原にとってあくまでも本命は「きょうこちゃん」であり、師岡ものちに「きょうこちゃん」の存在を知って、戦後のインタビューで「正直にいって,冾子さんがいたっ てことがわかり,わたしの気持ちは,良司さんを眺められることができるようになりました。良司さんと冾子のことを知らなかったら,たまらなかったと思うんですよ。冾子さんがいて下さったことで、わたしはある程度解放感を感じました」と答えている。

また、上原の日記には他にも数人の女性の名前が登場しており、「きょうこちゃん」への告白に躊躇しながら、他の女性も気になるといったような、上原の若者らしく揺れ動く気持ちを表している。

しかし、上原は『所感』に代表されるその高潔な思想に相応しい恋愛観を持っていたことにするため、ことさら石川冾子に対する悲恋が強調されて、石川冾子以外の女性についての記述は、上原の日記などを掲載する際には意図的に削除されてきたという指摘もある。


出典: 「上原良司」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

上のクリップを観ると、次のように上原少尉は語っているのですよ。。。

 


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この「天国に待ちある人」というのは、明らかに人妻で結核で亡くなった「きょうこちゃん」なのですよ。。。

すでに婚約者がある「きょうこちゃん」と上原少尉の間には、次のような別れの機会はあったのでしょうか?

 


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いや。。。戦前であったら、婚約者がいる「きょうこちゃん」とは上原少尉は会わなかったと思いますよ。。。

デンマンさんが上原少尉の立場ならどうしますか?

戦前ならば、やっぱり会いにゆかなかったと思います。。。でも、現在であれば、婚約者がいようが、夫がいようが会いにゆきますよ。。。だけどねぇ〜、僕は戦争絶対反対だから、兵隊になることはありません。。。だから、そういう場面になることもないのです。。。

でも、赤紙が来たら、デンマンさんだってぇ、お国のために兵隊さんになって命をお国のために捧げるのでしょう?

バカバカしい! 戦争中の上原少尉でも、自由主義が素晴らしいと言っていたのです。。。自由主義が勝利して、日本は負けると言ってたのですよ。。。

でも、上原少尉は自由主義を信じながらも特攻隊の一員としてお国のために死んだのですわ。。。

お国のためじゃありませんよ。。。家族のために、愛する人達のために死んだのです。。。

つまり、デンマンさんは自由主義を信じ守りながら、お国のためには絶対に死なないのですか?

お国のため。。。? バカバカしい! お国を治めている政治家は嘘をつくのですよ! アメリカの元大統領のジョージ・ブッシュを思い出してください! 大量破壊兵器がないにもかかわらずサダム・フセインのイラクは大量破壊兵器があるとマスコミに嘘を付いて、イラク戦争を始めたでしょう! このために多くの死ななくても良いアメリカ兵、イラク兵、イラクの市民が犠牲になって死んでしまった! 政府は嘘をつくのですよ!

 


『政府は嘘をつく』

 

つまり、赤紙が来て兵隊になれという政府の命令がきたら、デンマンさんは戦争をやらない国へ逃げるのですわわねぇ〜。。。

そうです。。。だから、僕は今でもカナダに居るのです。。。日本は戦争をやりますからね。。。

 


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『今、新たな戦前』

 

カナダは国連の平和部隊に兵隊を送り出しているけれど、戦争をやることはありません。。。

でも、戦争を始めようとしたらどうします?

中立国のスイスへ行きます。。。

もし、中立国のスイスが戦争に関わることになったらどうしますか?

その時は地球温暖化を防ぐ研究者のグループに参加するために南極に行きます。。。

とにかく、デンマンさんは、戦争には絶対に関わりたくないのですわねぇ〜?

そうです。。。第3次世界大戦が始まったら小百合さんと一緒に南極へ行ってバーベキューかピクニックをしながら楽しく暮らしましょう!。。。


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【卑弥子の独り言】


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ですってぇ~。。。

もし第3次世界大戦が始まったら、あなたもデンマンさんと小百合さんと一緒に南極へゆき、バーベキューかピクニックをしながら楽しく暮らしたいと思いますか?

ええっ。。。? 「そんなバカバカしいことは どうでもいいから、何か他に面白い話をしろ!」

あなたは、そのような強い口調で あたくしに ご命令なさるのでござ〜♬〜ますかァ?

いけ好かないお方。。。

わかりましたわ。。。

では、デンマンさんが暮らしているバンクーバーに一度も行ったことがない人のためにバンクーバーを紹介するクリップを貼り出しますわ。

ジックリとご覧になってくださいませぇ〜♬〜。

 


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世界で最も住みやすい街バンクーバー


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ビデオを見ても、なんだかワクワクしてくるでしょう?

とにかく、明日もデンマンさんが興味深い記事を書くと思いますわ。

だから、あなたも、お暇なら、また読みに戻ってきてくださいまし。

じゃあねぇ~~。

 


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メチャ面白い、


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