忍藩の下級武士

 
2023年5月25日 (木曜日)
 

忍藩の下級武士

 


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デンマンさんのご祖先は忍藩の下級武士だったのでござ〜ますかァ〜?


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違いますよ.。。僕の遠い祖先は百済からやってきた騎馬隊士ですよ。。。663年の白村江(はくすきのえ)の戦いで唐と新羅の連合軍と戦った上級騎馬隊士だったのです。。。卑弥子さんは忘れてしまったのですかァ〜?

 

デンマンの祖先は百済からやって来た


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僕の家は徳川時代には忍城下で“木のくりもの屋”をしていた。僕の祖父の代までこれが続いて、大正時代に作品の品評会があって、これに出品して埼玉県知事からもらった2等賞の賞状が家宝のようにして2階の床の間に飾ってありましたよう。つまり、僕の祖父は腕のいい木工職人だったのですよう。家にも祖父が作ったと言う置物がたくさんありました。僕のオヤジが行田市の博物館にすべて寄付したようです。


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それで徳川以前はどうだったのでござ~♪~ますか?

後北条氏に仕えていた騎馬武者だった。 つまり、『更級日記』の作者が見たと言う騎馬武者の末裔(まつえい)だったのですよう。

つうことわあぁ~。。。デンマンさんの遠い祖先は百済から逃げてきた難民だったのでござ~♪~ますわね?

難民と言うと響きは悪いけれど、唐と新羅の連合軍と戦った騎馬隊の一員だった訳ですよう。

それで、戦いに負けて百済の国が滅びてしまったので仕方なしに日本へ逃れて来たと言うことでござ~♪~ますか?

そう言う事ですよう。

。。。んで、デンマンさんのご実家には家系図が残っているのですか?

そんなモノは残っていませんよう。

。。。んで。。。、んで。。。、どうして上のような事を、さも史実のように言うことができるのでござ~♪~ますか?

僕の体の中にある DNA に僕の祖先から伝わっている遺伝子が刻み込まれているからですよう。

その。。。その遺伝子って。。。いったい、どういうモノでござ~♪~ますか?

“海外飛躍遺伝子”ですよう。うしししし。。。

つまり、デンマンさんの遠い祖先は戦い敗れて百済から“海外”である日本へ渡ってきた。それから、京都に下って行ったけれど、生活の糧を得るためには畑仕事でもして食料を得なければならない。でも、近畿地方には土地がないので開拓団に入って関東まで落ちていったのでござ~♪~ますか?

そうですよう。

でも、結局、後北条氏に仕えたけれど、秀吉の小田原征伐で後北条氏が滅びると、騎馬武者から“くりもの屋”になって忍城下でお店を開いたのでござ~♪~ますか?

その通りですよう。

。。。んで、その“くりもの屋”が大正時代まで続いて、デンマンさんの代になると、1400年近く眠っていた“海外飛躍遺伝子”が眠りから覚めて、デンマンさんは34カ国を放浪した末に、カナダに安住の地を求めて定住した、と言う訳でござ~♪~ますか?

全く、その通りですよう。。。うしししし。。。どうですか?。。。これが、僕のつむぎだした壮大な叙事詩ですよう。


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。。。んで、小百合さんの祖先も百済からやって来て武蔵国に定住したのでござ~♪~ますか?

そうですよう。おそらく、百済から当時の平城京(現在の奈良市)に行ったけれど、土地があまりなさそうなので開拓団に加わって一緒に武蔵国まで行ったのですよう。

どうして、そのような事が分かるのでござ~♪~ますか?

小百合さんの実家は館林にあるのですよう。僕の実家から車で20分から30分ですよう。目と鼻の先ですよう。

そのような近くに住んでいたのにデンマンさんは日本で小百合さんにお会いした事は無かったのでござ~♪~ますか?

不思議な事に小百合さんと僕が初めて出会ったのはカナダのバーナビー市で小百合さんが13年間借りていた“山の家”だったのですよう。


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バーナビー市というのはバンクーバー市の東隣にある町です。上の地図の赤い正方形で示した部分を拡大すると次のようになります。


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この地図の Deer Lake (鹿の湖)の畔(ほとり)に小百合さんが借りていた“山の家”があるのですよう。


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この家でデンマンさんは10数年前に小百合さんと初めてお会いになったのでござ~♪~ますか?

そうですよう。次のように小百合さんの“山の家”の応接間で会ったのですよう。


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これって、またデンマンさんがコラージュしてでっち上げたのでござ~♪~ますわね?

確かに、上の写真は僕がでっち上げたのだけれど、現実でもねぇ、僕は、こうやって小百合さんと会ったのですよう。

でも、どうして小百合さんの祖先とデンマンさんの祖先が一緒に百済からやって来たと分かるのですか?

小百合さんの DNA にも“海外飛躍遺伝子”が焼きついているのですよう。僕と同じようにして、その DNAの飛躍遺伝子が1400年の眠りから覚めて、小百合さんは佐野からカナダのバーナビーに渡ったわけですよう。そして僕と“山の家”で出会ったのですよう。

ただ、それだけの事でござ~♪~ますでしょう?

ただ、それだけじゃないですよう。ちょっとジューンさんの言ったことを思い出してくださいよう。

 


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こんにちは。ジューンです。

袖触れ合うも他生の縁

(そでふれあうもたしょうのえん)

聞いたことがあるでしょう?

なかなか味わいのある諺ですよね。

袖が触れ合うようなちょっとしたことも、

前世からの深い因縁によって

起こるものである、と言う事です。

わたしは、初め、“袖触れ合うも多少の縁”

だと思ったのですわ。うふふふふ。。。

つまり、袖が触れ合ったのは、

全く偶然ではなくて、少しは

そうなる運命にあったのよう。。。

私は、そのように思い込んでいたのです。

でも、「多少」じゃなく「他生」だと。。。

「他生」というのは「前世」の事だと、

デンマンさんに教わったのですわ。

調べてみたら、「他生」とは

「前世」と「来世」の事を言うのですって。

上の諺では、文脈から

「前世」となる訳ですよね。

この世の事は「今生(こんじょう)」と言うのです。

そう言えば「今生の別れ」と言う語句を

何度か耳にしたことがありました。

仏教の輪廻(りんね)と

関係のある諺なのでしょうね。

わたしは英語には、この諺は

無いと思っていたのですけれど、

調べてみたら、次のようなものがありましたわ。

A chance acquaintance

is a divine ordinance.

Even a chance meeting is

due to the karma in previous life.

つまり、「偶然の出会いは神の定め」

と言う事なのです。

多分、日本の諺を英訳したのでしょうね。

カナダでは耳にしたことがありませんわ。


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『軽井沢夫人@日本王国』より
(2014年3月28日)

 

家系図も残ってないのに、どういうわけでご先祖が百済からやってきた騎馬隊士だと信じているのでござ〜ますかァ〜?

あのねぇ〜、現在の天皇は神武天皇から数えて126代も続いていることになっている。。。卑弥子さんだって、そう信じているんでしょう?。。。でも、神武天皇は神話の中の人物で実在したとは言えない。 この事は歴史研究者の常識になっている!

だったら、デンマんさんのご先祖が百済からやってきたというのも、神話のようなものなのですわねぇ〜。。。

いや。。。神話じゃありません。。。昔から、そう言い伝えられてきたのです。。。

神話も、昔から、そう言い伝えられてきたものでござ〜ますわァ〜。。。

つまり、卑弥子さんは僕の言うことが信じられないのですねぇ〜?

そんなことより、デンマんさんのご先祖が百済からやって来た上級騎馬隊士だとしたら、どういうわけで忍藩の下級武士を取り上げたのですかァ〜?

つい最近、たまたま次の動画を観たのですよ。。。

 


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石城日記

 


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『石城日記』(せきじょうにっき)は、忍藩下級武士である尾崎石城が文久元年(1861年)から翌2年(1862年)までの178日間(幕末)の日常を記した絵日記。
全7巻。

江戸時代に武家の日常を記したものとして、元禄期の名古屋藩下級武士の『鸚鵡籠中日記』や幕末期の桑名藩下級武士の生活を記録した『桑名日記』があり、幕末から明治期にかけての生活の変化を女性視点から記した『小梅日記』があるが、具体的な暮らしの様子まではうかがえるものではなく、その点、絵日記形式の『石城日記』は、自宅・友人宅・寺や料亭など、様々な暮らしぶりが描かれている。

 

石城の経緯

通称は隼之助で、石城は字である。
雅号に㐮山・貞幹・華頂・永慶がある(華頂は庄内藩の名山花頂山、㐮山は中国唐山の地名から)。

石城は江戸詰めの庄内藩士浅井勝右衛門の次男であったが、尾崎家の養子となった

忍藩では、御馬廻役で百石の中級武士だったが、安政4年(1857年)、29歳の時、上書をして藩政を論じたため、蟄居となり、十人扶持の下級武士となった 。

上書の内容は不明だが、絵日記内で水戸浪士の所業に共鳴している一文があるため、尊王攘夷に近い心情だったとも捉えられている。
加えて、忍藩が水戸藩とは対立する親藩であったことから、共鳴するような家臣の動きには抑圧的だった。

石城は多くの随筆と詩を書き、軸物絵、屏風絵、襖絵なども描く、文才と画才に優れていた。
中には友人知人の依頼もあり、行灯絵も描いている。
これらの仕事と読み書きの手習いによって禄を下げられながらも生計を立てていた。

このころ、妹夫婦(妹は邦子、夫は進、下級武士)の家に同居するが独身であり、尾崎家を追い出されたともみられている。
石城が33歳時に、絵日記を書く。

 

絵日記からわかる幕末の様子

茶漬けを好んで食し、6月20日の記録では、朝食・午飯・夕食の三食とも茶漬けと記されている。

鎧櫃(甲冑や武具を納めた箱)は玄関近くの壁や棚に置くのが武家の習慣であったが、永い太平の世になったことで床の間に置かれている様子がたびたび描かれている。

当時の炬燵の様子が描かれている。

皇女和宮が中山道を通る際の護衛の準備につき、各武家が忙しい中、武装を手作りしていた様子を記し、石城自身、鎖を鉢巻に縫う様子を描いている(この他、腹巻や鎖帷子も作られている様子が描かれ、軽装とわかる)。

長徳寺の篤雲和尚(別名:泰流軒)が、居合術・棒術・太刀・長刀・柔術を教えており、石城は居合を学んでいる様子が描かれている(石城が正座で、和尚が立ったまま上段に構えている)。

石城は占筮もでき、筮竹を用いて、僧侶の使いを占う様子が描かれている。

酔った石城の鞘から小柄が落ち、小指に刺さるといった武家らしかぬ失態も描いている他、酔ったために落ちてずぶ濡れになり、(武家ゆえに)人目を気にして顔を隠して井戸へ行くなど、酒にまつわる失敗がたびたび描かれている。

 

備考

文久元年6月15日条に、江戸を「江都」と表記している他、17日条では、鰹節を「松魚ふし」と記述している。

3月26日条、昨年から売却してきた書物が408冊にもなることが記されており、膨大な資料を有していたことがわかる。
中国古典や和歌書、『足軽十ヶ条私解 一巻』『武門故実 一巻』、切腹の書一巻など軍事関係書も見られる。

『石城日記』は、慶應義塾大学文学部古文書室に所蔵されており、同所のホームページより日記の閲覧が可能になっている。
(デンマン注:閲覧しようとしたが、現在、検索しても出てこない!)

2014年(平成26年)に国立公文書館で開催された特別展「『江戸のレシピ』-美食から救荒食まで-」には絵日記の画像パネル14点が展示された。


出典:「石城日記」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

あらっ。。。もしかして、この動画の主人公の尾崎石城はデンマンさんのご親戚ではござ〜ませんかァ〜?

いや、この尾崎石城は、僕の先祖とは何の関わりもありません。。。上の説明にも書いてあるでしょう! 石城は江戸詰めの庄内藩士浅井勝右衛門の次男であったが、忍藩・尾崎家の養子となったのですよ。。。

つまり、次男以下に生まれると、家督を継いだ長男に小遣いをもらいながら一生を部屋住みとして厄介者の生活を送るか、他家に養子に出されるかの どちらかだったのでござ〜ますわねぇ〜。。。

そういうことですよ。。。

つまり、石城さんは、ゆくゆくは尾崎家の長女と結婚することになるはずだったのですわねぇ〜。。。

そうです。。。でも、良いことばかりは続かない。。。売却してきた書物が408冊もあったということから判るように、石城さんは勉強家だった。。。それだけじゃない、行動家でもあった。。。今で言うならば、左翼の活動家のようなものですよ。。。時代の行く末を見抜いていた。。。もし脱藩して京都に出向いていたら、坂本龍馬や桂小五郎と出会って、歴史の舞台に登場していたかもしれないのですよ。。。でも、安政4年(1857年)、29歳の時、上書をして藩政を論じた。。。そのため、蟄居となり、十人扶持の下級武士となってしまった。。。

それで、やがて蟄居がとけると養父や家族に恨まれて尾崎家から追い出されてしまったのでござ〜ますかァ〜?

そうです。。。上書したところで、藩政を変えることはできないのですよ。。。

なぜで ござ〜ますかァ〜?

あのねぇ〜、絵日記内で水戸浪士の所業に共鳴している一文があるため、(石城は まず間違いなく)尊王攘夷に近い心情だったのですよ。。。でも当時の忍藩は水戸藩の尊王派とは対立する親藩であったから、当然、石城は罰として蟄居となり、十人扶持の下級武士となってしまったのですよ。。。

忍藩は、それほど江戸幕府に忠実だったのでござ〜ますかァ〜?

そうなのです。。。とにかく、あの歴史的に有名な鳥居強右衛門の子孫が家老だった。。。

 

鳥居 強右衛門

 


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鳥居 強右衛門(とりい すねえもん)は、戦国時代の日本の足軽。奥平家の家臣。名は勝商(かつあき)。

鳥居強右衛門が歴史の表舞台に登場するのは、天正3年(1575年)の長篠の戦いの時だけで、それまでの人生についてはほとんど知られていない。

現存する数少ない資料によると、彼は三河国宝飯郡内(現在の愛知県豊川市市田町)の生まれで、当初は奥平家の直臣ではなく陪臣であったとも言われ、長篠の戦いに参戦していた時の年齢は数えで36歳と伝わる。

奥平氏はもともと今川氏や織田氏、松平氏(徳川氏)と所属先を転々とした国衆であったが、元亀年間中は甲斐武田氏の侵攻を受けて、武田家の傘下に従属していた。

ところが、武田家の当主であった武田信玄が元亀4年(1573年)の4月に死亡し、その情報が奥平氏に伝わると、奥平氏は再び松平氏(徳川氏)に寝返り、信玄の跡を継いだ武田勝頼の怒りを買うこととなった。

奥平家の当主であった奥平貞能の長男・貞昌(後の奥平信昌)は、三河国の東端に位置する長篠城を徳川家康から託され、約500の城兵で守備していたが、天正3年5月、長篠城は勝頼が率いる1万5,000の武田軍に攻囲された。
5月8日の開戦に始まり、11、12、13日にも攻撃を受けながらも、周囲を谷川に囲まれた長篠城は何とか防衛を続けていた。

しかし、13日に武田軍から放たれた火矢によって、城の北側に在った兵糧庫を焼失。食糧を失った長篠城は長期籠城の構えから一転、このままではあと数日で落城という絶体絶命の状況に追い詰められた。

そのため、貞昌は最後の手段として、家康のいる岡崎城へ使者を送り、援軍を要請しようと決断した(一方、岡崎城の家康もすでに武田軍の動きを察知しており、長篠での決戦に備えて同盟者の織田信長に援軍の要請をしていた)。

しかし、武田の大軍に取り囲まれている状況の下、城を抜け出して岡崎城まで赴き、援軍を要請することは不可能に近いと思われた。

この命がけの困難な役目を自ら志願したのが強右衛門であった。
14日の夜陰に乗じて城の下水口から出発。川を潜ることで武田軍の警戒の目をくらまし、無事に包囲網を突破した。

翌15日の朝、長篠城からも見渡せる雁峰山から狼煙を上げ、脱出の成功を連絡。
当日の午後に岡崎城にたどり着いて、援軍の派遣を要請した。

この時、上記の様に信長の援軍3万が岡崎城に到着しており、織田・徳川連合軍3万8,000は翌日にも長篠へ向けて出発する手筈となっていた。

これを知って喜んだ強右衛門は、この朗報を一刻も早く味方に伝えようと、すぐに長篠城へ向かって引き返した。
16日の早朝、往路と同じ山で烽火を掲げた後、さらに詳報を伝えるべく入城を試みた。

ところが、城の近くの有海村(城の西岸の村)で、武田軍の兵に見付かり、捕らえられてしまった。
烽火が上がるたびに城内から上がる歓声を不審に思う包囲中の武田軍は、警戒を強めていたのである。

武田方に捕まった鳥居強右衛門は、籠城する味方を裏切って「援軍は来ない」と報せるよう強いられたが、面従腹背してまんまと城に近付き、「間もなく援軍が来る」との事実を報せて味方を鼓舞した。

強右衛門への取り調べによって、織田・徳川の援軍が長篠に向かう予定であることを知った勝頼は、援軍が到着してしまう前に一刻も早く長篠城を落とす必要性に迫られた。

そこで勝頼は、命令に従えば強右衛門の命を助けるばかりか武田家の家臣として厚遇することを条件に、援軍は来ないからあきらめて城を明け渡すべきと虚偽の情報を城に伝えるよう、強右衛門に命令した。

こうすれば城兵の士気は急落して、城はすぐにでも自落すると考えたのである。
強右衛門は勝頼の命令を表向きは承諾し、長篠城の西岸の見通しのきく場所へと引き立てられた。

しかし、最初から死を覚悟していた強右衛門は、あと二、三日で援軍が来るからそれまで持ちこたえるようにと城に向かって叫んだ。
これを聞いた勝頼は怒り、その場で部下に命じて強右衛門を殺した。

しかし、この強右衛門の決死の報告のおかげで「援軍近し」の情報を得ることができた貞昌と長篠城の城兵たちは、強右衛門の死を無駄にしてはならないと大いに士気を奮い立たせ、援軍が到着するまでの二日間、武田軍の攻撃から城を守り通すことに成功した。

援軍の総大将であった信長も、長篠城の味方全員を救うために自ら犠牲となった強右衛門の最期を知って感銘を受け、強右衛門の忠義心に報いるために立派な墓を建立させたと伝えられている。

 

子孫

強右衛門の子孫は、高名となった強右衛門の通称を代々受け継いだ。
強右衛門勝商の子・鳥居信商は、父の功により100石を与えられ、貞昌の子・松平家治に付属した。

家治が早世すると貞昌の許に戻り、関ヶ原の戦いに従軍、京都で安国寺恵瓊を捕縛する大功により200石に加増された。

その後、貞昌の末子・松平忠明が家康の養子として分家(奥平氏の支流。現埼玉県行田市にあった忍藩で明治維新を迎えた奥平松平家)を興すに至り、鳥居信商を家臣にもらい受けている。

また、13代目の鳥居商次が家老になるなど、子孫は忍藩で厚遇された
強右衛門の家系は現在も存続している。

 

逸話

強右衛門の死については「斬られて死んだ」「磔にされた」の2種類が伝わっているが、一般には「磔にされた」とする逸話が有名であり、磔にされている強右衛門の姿を描いた旗指物の絵が現在に伝わっている。

強右衛門の記録のうち最も古いものは『甫庵信長記』で、『三河物語』がこれに次ぐが、それ以前の『信長公記』などには件についての記述は全く見られない。また、上記の死以外にも、『甫庵信長記』と『三河物語』では内容に異なる部分がある。

強右衛門が長篠城を脱出する際、鈴木 金七郎 重政(すずき きんしちろう しげまさ)という名の足軽が同行、または第二の使者として続いたとする説もある。

『総見記』『常山紀談』『長篠日記』には、金七郎が強右衛門と共に長篠城を脱出し、岡崎城への使者となった旨が記されている。
新城市所在の禅源寺の古文書にも同様の記述があり、川路村(現・新城市川路)にも同様の伝承がある。

『四戦紀聞』『武徳大成記』には強右衛門の後を追う形で金七郎が派遣されたことが記されている。
しかし、『寛永諸家系図伝』『寛政重修諸家譜』の奥平家系図の記載や『三河物語』には金七郎についての記述は見られない。

また、強右衛門と共に金七郎が使者になったとする上記の各資料においても、援軍要請の役目を果たした後に長篠城へ向かって引き返したのは強右衛門だけで、金七郎はそのまま岡崎城に残り、強右衛門のように英雄として名を残すことはなかったとされている。

強右衛門は死を覚悟で長篠城を脱出する際、「我が君の命に代わる玉の緒の何いとひけむ武士(もののふ)の道」という辞世の句を残したと伝えられる。

主君を助けるためには自分の命を犠牲にすることもいとわない武士道の理想を象徴する和歌とされているが、この和歌の原文が記されている『甫庵信長記』は、強右衛門の死から50年近くも後の江戸時代初期に書かれたものであり、この和歌が実際に強右衛門本人の作であるという保証はない。

旧説では、強右衛門が磔にされるまでのわずかな間、強右衛門の監視をしているうちに親しくなったという「武田家」の家臣・落合左平次道久が、強右衛門の忠義心に感動し、磔にされている強右衛門の姿を絵に残して、これを旗指物として使ったという。

これを描き直した物が現存している。
しかし、近年の研究によって落合はその時点では「徳川家」の家臣で、家康の本隊に所属していたため、強右衛門の最後を見届けることは不可能であり、この旧説は創作である可能性が高い。

強右衛門の主家である奥平家では、家運を高めたこの戦を後に「開運戦」と呼び、家康の縁者となった貞昌は岡崎譜代の家臣に引けをとらぬ待遇を獲得した。

強右衛門の命を賭して主君への忠義を尽くした行為は高く評価され、明治から太平洋戦争時までの国定教科書でも紹介されていた

JR東海飯田線の鳥居駅は、強右衛門の最期の地にちなんでの命名である。
また、強右衛門の妻の故郷である作手村(新城市作手)の甘泉寺には、織田信長が強右衛門を弔うために建立させたと伝えられる墓が今でも残っている。


出典:「鳥居強右衛門」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

初代の鳥居強右衛門の血を受け継いでいる13代目の鳥居商次が忍藩の家老になっているのですよ。。。命を賭して主君(と徳川家)への忠義を尽くさねがならない。。。徳川家に逆らうわけにはゆかない。。。当然、尊王攘夷を唱(とな)える尾崎石城は蟄居を命じられ、下級武士に身分を落とされてしまったのですよ。。。

。。。で、その後どうなったのですか?

尾崎家を追い出された石城は妹夫婦を頼って居候(いそうろう)の身になった。。。でも、「人間万事塞翁が馬」と昔の人が言ったように、尊王攘夷を唱えた石城にも運が向いてきた

 

尾崎石城

文政12年(1829年) – 明治9年(1876年)1月26日

 


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尾崎 石城(おざき せきじょう)は幕末期の忍藩士。石城は字。通称は準之助(はやのすけ)、舒之助。
名は貞幹(さだみき)。他に永慶(えいけい)、永春(えいしゅん)、華頂(かちょう)、襄山(じょうざん)などの画号を持つ。
『石城日記』の著者として知られる。

『忍の行田』(石島薇山著、行田時報社、昭和2年)の「忍藩の人物」に9番目に記された「尾崎隼之助」によれば、

庄内藩士浅井勝右衛門の次男として生まれたのち、忍藩士の尾崎家隼之助勝義の養子となる。
性格は磊落不羈で、読書を好む。酒が好きで、興に乗れば5、6樽を空けた。

御馬廻役(100石)を勤めるが、安政4年(1857年)に上書し藩政を論じたため蟄居となり十人扶持の身分に落とされた。

明治維新の際に、岸嘉右衛門らと共に大いに忍藩のために尽力。
その才識が認められ、明治元年に設立された藩校「培根堂(さいこんどう)」の教頭に任ぜられる。

廃藩置県のあと、明治政府に登用されて宮城県大主典に任ぜられる。
明治9年に、任地にて病没。


出典:「尾崎石城」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

佐幕か尊王か? つまり、徳川家に忠誠を誓うか? それとも徳川家を打倒するか? この激動の時代に時代を見極めていた石城は、岸嘉右衛門らと共に大いに藩政を動かして、新政府側に着くように重役たちに働きかけた。

その働きが認められて、明治元年に設立された藩校「培根堂(さいこんどう)」の教頭に抜擢されたのでござ〜ますかァ〜?

そうです。。。やはり、石城の時代を見る目は確かだったのですよ。。。だから、明治新政府も石城を認めて中央政府に呼び寄せた。。。

その後、石城は明治政府に登用されて 宮城県大主典(だいさかん)に任ぜられてますけれど、これは、どういうお仕事をする役職なのですか?

ちょっと次の人物の略歴を見てください。。。

 

鈴木大亮

 


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明治4年(1871年)11月、黒田清隆の推薦で開拓使十二等出仕となる。

以後、開拓少主典、同主典、同権大主典、同大主典、開拓権少書記官、同権大書記官などを歴任。

1882年2月、開拓使が廃止され農商務省に移り大書記官に就任。

以後、兼大蔵大書記官、北海道庁理事官、農商務省水産局長などを務めた。…


出典:「鈴木大亮」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

十二等出仕というのは、軍隊ならば二等兵から始めるように、最下位のレベルから仕事を始めるということです。。。でも、石城の場合には少主典、主典、権大主典を飛び越えて大主典に任じられたということですよ。。。

3階級を飛び越えたということでござ〜ますわねぇ〜。。。

そういうことです。。。次は、権少書記官になるわけです。。。つまり、宮城県役所の書記の仕事をしたわけなのですよ。。。47歳で亡くなってなかれば、局長になり、やがて知事になっていたかもしれないのです。。。

今ならば働き盛りで亡くなってしまったわけですわねぇ〜。。。

そうです。。。動画にもあるように、極めて粗食な生活をしており、大酒飲みでしたからねぇ〜。。。おそらく、肝臓をやられて、肝硬変か肝炎、肝臓癌で亡くなったんでしょう!?

惜しい人だったのですわねぇ〜。。。

そういうことです。。。やはり、粗食で、大酒飲みはいけないのですよ。。。

デンマンさんも粗食で大酒飲みでござ〜ますかァ〜?

いや、、、僕は良食で、酒は一滴も飲めません。。。僕は長生きしますよ。。。うへへへへへへ。。。

 


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【ジューンの独り言】


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ですってぇ〜。。。

貴方は、粗食で大酒飲みですか?

それとも、デンマンさんのように良食で、酒は一滴も飲まないのですかァ〜?

ええっ。。。「そんなことは、どうでもいいから、何か他に面白い話をしろ!」

貴方は、そのようなムカついた口調で あたくしに御命令するのですかァ〜?

分かりましたわァ〜。。。

じゃあ、ショッキングなニュースでもお伝えします。。。

かつて「セサミストリート」で子どもたちに慕われていた人気者のビル・コスビーは、芸能界では幅を利(き)かせて大きな“権力”を握り、百人近い女性に対してセックスを迫ったのです。。。

 

 

子どもたちに性的ないたずらをしなかったことが せめてもの罪ほろぼしですわァ〜。。。

ええっ。。。「そんな事は、どうでもいいから、もっと他に面白い話をしろ!」

あなたは、そのような強い口調で 更に あたくしに ご命令なさるのですかァ〜?

分かりましたわァ。。。。

では、あなたもビックリするような

忠臣蔵のとっても古い映画をご覧くださいまし。。。

なんと。。。昭和3年(1928年)制作の『忠臣蔵』ですわよう!

無声映画ですけれど、弁士の方がなかなかうまい説明をしてくださいますわ。。。

つい、引き込まれて観てしまうのですわ。。。

浅野内匠頭(あさの たくみのかみ)がどうしてヘマをしでかしたのか?

そのへんのところが詳しく映像に残っております。

観るだけの値打ちがありますわ。。。

では、どうぞ。。。

 

 

ところで、どうして小百合さんが

「軽井沢タリアセン夫人」と呼ばれるのか?

 


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あなたは ご存知ですかァ?

実は簡単な事なのですわよう。

小百合さんは軽井沢に別荘を持ったのですわ。

小さな頃から軽井沢に住むことが夢だったのですってぇ~。。。

分からない事ではござ~ませんわァ。

そもそも小百合さんが軽井沢に興味を持ったのは、朝吹登水子のエッセーなどを読んだことがきっかけだったとか。。。

現在、朝吹登水子の山荘、睡鳩荘(すいきゅうそう)は軽井沢タリアセンに移築されて公開されています。


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それで、小百合さんは軽井沢タリアセンを訪れては睡鳩荘に足を運んで少女の頃の事を思い出すのが楽しみなんですってよ。

そういう訳で、デンマンさんが小百合さんのことを「軽井沢タリアセン夫人」と呼ぶようになったのですわ。

軽井沢・雲場池の紅葉

軽井沢のイルミネーション

秋の旧軽井沢銀座ぶらり散歩

とにかく、明日もデンマンさんが興味深い記事を書くと思いますわ。
だから、あなたも、お暇なら、また読みに戻ってきてくださいまし。
じゃあねぇ~~。


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メチャ面白い、


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■ 『きれいになったと感じさせる


下着・ランジェリーを見つけませんか?』

■ 『ちょっと変わった 新しい古代日本史』

■ 『面白くて楽しいレンゲ物語』


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別荘を持つことを夢見る小百合さんの物語』

『熟女下着』ジューンさんの熟女下着 June Adams 下着美人
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『センスあるランジェリー』


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ところで、平成の紫式部こと、卑弥子さんは見かけによらず、京都の女子大学で腐女子に「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授という肩書きを持っています。

卑弥子さんの面白い話をもっと読みたい人は
下のリンクをクリックして読んでみてくださいね。


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『女帝の平和』

『アタマにくる一言』

『悪女レオタード@昌原市』

『スウィートビーン』

『ガチで浦島太郎やし』

『ご苦労さま』

『デンマンのはなし』

『卑弥呼の墓』

『室生犀星と人間学』

『松平春嶽ダントツ』

『英語は3語で伝わる』

『くだらない物』

『漢字で体操』

『面白い漢字テスト』


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『日本のエロい文化』

『女のオナラ』

『紫式部と宮本武蔵』

『頼朝の死の謎』

『パンツと戦争』

『海外美女 新着記事』

『日本語を作った男』

『江戸の敵を長崎で』

『芸術は尻だ』

『尻の芸術』

『左翼的な下着』

『エロい源氏』

『ネット市民は見ている』


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『朝妻船』

『阿修羅を探して』

『羅漢と良寛』

『源氏エロ』

『元寇船』

『ハマガソ』

『歴史ロマン@バンコク』

『平安のキス』

『大久保独裁政権』

『愛情ゲットの呪術』

『源氏物語とおばさん』

『たこつぼ探し』

『光源氏の弟』

『勝負服』

『大伴家持の野心』

『そこが天才の偉いとこか?』


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『生パンツカテゴリー』

『大衆文学』

『車中も亦臭し』

『聖徳太子の母親』

『笑える電報』

『忠臣蔵のウソ』

『天照大神@マレーシア』

『エロ@韓国』

『レオタード姿@女子大』

『美人と接吻』

『パンツに下痢』

『阿仏尼』

『楊貴妃@満州』

『ズロースを探して』

『四睡図』


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『レオタード姿』

『熟女のうずき』

『苫田郡香タ美』

『エロエロ』

『ハーレーダビッドソン』

『貂蝉(ちょうせん)』

『平成の卑弥子』

『北国方言』

『人妻』

『温泉で濡れ濡れ』

『痴漢バス』

『フォローしました』

『どこの応天門』

『浜野矩随』

『空白の150年』

『150年の空白』

『愛情の呪術』

『美術芸術ヌード』

『あんどん かつどん』

『ヌード第1』

『汚いパンツを見て』

『神聖少女』

『良寛さん@台湾』

『入れ墨熟女』

『キャドバリーチョコ』軽井沢タリアセン夫人の小百合さんが扮するゴディバ夫人 Sayuri
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