男の美学

 

2018年12月3日 (月曜日)

 

男の美学

 


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デンマンさんは男の美学を追求しているのですかァ~?


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オマエは僕が男の美学を追求していると思ったのォ~?

だってぇ~、タイトルに堂々と そう書いてあるじゃありませんかァ!

僕は特に男の美学を追求しているわけじゃないんだよ。。。

それなのに、どうしてタイトルに 思わせぶりな“美学”などを書き込んだのですか?

実は、オマエが書いたクラシックの記事を読んでいたら“美学”が出てきたのだよ。。。

オイラは美学について記事を書いた覚えはないのですけれど。。。

信用しないのなら次の記事を読んでごらんよ。。。

2.9 Josquin des Prés (1440? – 1521)

もし定量記譜法がなかったとしたならば、対位法の音楽は、これほどまでには発展しなかったであろう、と考えられる。鏡像はおろか、一寸長い主題の場合には、反行や逆行すらも、そして、それらの組合せをふくめて、ということは、必要に応じて、強拍、弱拍を記憶のなかで数えながら音楽を構成することなどは、不可能事だとは断定しないまでも、記憶力の不経済な浪費だ、とはいえよう。
ここで発想を転換すると、逆もまた言えるのである。方法、手段が確立すると、その方法や手段が目的、対象を限定、規定する、という傾向である。例えば、もし、自然発生的な微分音が存在していたとするならば(草子地:私は存在していたと思うが)、一面、記譜方が成立する過程で、それが切り捨てられ駆逐された、という可能性もあるのである。そこに、悪しきacadémismeが発生する基盤ができあがるのではないか。仮に(草子地:仮定法の文である。思考実験である。)、J.S. Bachが、例えば、<<Die Kunst der Fuge>>を書いていた時に、何か勘違いをしたとして、客観的な音楽の秩序は書かれた、あるいは、書かれつつある譜面にある、としたとしても、いざ、ひとたび、彼がペンを取って書き始める、或いは、書き続けるやいなや、Bach自身の全身、全霊がそれに反抗したことであったであろう。聴き手としても、終始一貫した一応の秩序に於いて、何ものかを感じるのではない。平凡な秩序からの逸脱、その裂け目が指示すところに共感した時にこそ、人は感動するのではないであろうか。
以上の意味で、音楽に於ける厳格さを、譜面上の厳格な書法、書式と混同した、二十世紀の所謂<現代音楽>の一派、post-Webernは、見かけとは裏腹に古臭い美学に拠りかかっているようである。彼らの音楽が難解な、と言うと聞こえがよいが、要するに面倒くさいのは、その複雑さにもあるが、むしろ、それらへの共感を呼びようがないがためではないか。複雑さ、と言えば、J. Brahmsでさえ充分に複雑である。A. Webern自身は何と言うであろうか(草子地:彼は、勿論、彼自身は、post-Webernではない、と言うであろう)。
さて、本題に入ろう。今、私は、Josquin des Présの<<Missa L’ homme armé super voces musicales>>の<Agnus Dei>の譜面を眺めている。Ex una voce tresと指示された見事なcanonである。そして、実際に唱われたときの美しさは言語に絶する。問題が、私にとっての問題が、もし、あるとしたならば。それは、思考過程が全て消去された後の数学命題の洗練された解法、とでもいった趣の記譜法にある。私のような者にとっては、(三段の)三声のスコアにでも書き直さない限り、その見事にまで単純化された楽譜では、音楽の像が結び難いのである。開き直って言えば、私だけではなく、現代の通常の楽譜に見慣れた読譜力しかない者にとっては、誰だって、程度の差こそあれ、それに困難を感じるのではないか、と私は自分を慰めているのである。これだったら、J.S. Bachの<<Das Musikalische Opfer>>(BWV 1079)中のcanonの譜面の方がまだ読める、と。
Josquin、或いは、その時代の人々にとっては、如何であったか、或いは、絶間ない訓練で克服できることなのだろうか。この楽譜に限って言えば、三通りの定量記号が初めに記されているので、決して判じ物ではない。私は、素直な人間であるので、彼や彼の時代の人々にはそれができた、と信じることにする。それは、必ずしも、見ずして信じる、というのでもなく、私たちのささやかな経験からも言えるのではないか。
私を含めて、ヴァイオリンからヴィオラに転向した人は、時として、このような、いんちきまがいのことをする。ハ音記号をト音記号に、また調性を属調に仮想して、三度下にshiftしてヴィオラを奏くのである。そうすれば、ヴァイオリンを持ったつもりでヴィオラが奏ける(草子地:しかし、少し困ったこともないわけでもない。譜面が途中で一時的にト音記号に変った瞬間に眩暈がすることと、絶対音感がない限り、実音の感知に霞がかかっていることである。あまりパート練習をしない怠惰な私としては辛いところであった。
よくもステージから下ろされなかった、と今にして思う(草子地:しかし、例えば、L.v. Beethovenの<<Klavierkonzert in Es-dur>>(Op. 73)のH-durの第二楽章などは、今だって、パート練習をするくらいなら、リハーサルで文句をいわれるのを我慢する方を私は選ぶ))。ヴィオラの専門家ですら私に、よくそんなことがとっさにできるわねえ、と言ったことがあったけれど、そんな程度のことは、自然に、瞬時に、苦もなくできるのである。そうでなければ、同時通訳などは不可能ではないか。
逆の例もあげよう。私の娘たちは、ようやく楽譜が読めるようになった途端、暗譜力がてきめんに低下した。それまでは、呆れ返るほどに、よく彼女らの指が音の連なり、重なりを記憶していたのである。いにしえを考えてみるに、文字のなかった時代の、伝説、伝承を伝える人々の記憶力、暗記力は、現代人の我々から見れば、まさに、超人的にみえるではないか。
外から眺めているとしたら、時代、環境、年齢、個人の能力などによって異なるものの、不思議としか言いようがないことを人々はする、できるのである。これは、無意味なことであろうけれども、ずいぶんと長い文を、一度だけ読んで、次に、暗誦で、逆にその終りから文字読みができる人もいるそうである。
Josquinに限らず、人の為すところには奇蹟は無い。むしろ、それ故に、私は彼の作品に驚嘆するのである。

コーダ (蛇足):
私の長女が、パパは英語の言葉をたくさん知っているけれど、ハツゴンが悪いのよねぇ、と言っていた。それを言いたいのなら、ハツオンであろうが。
しかし、それにしても、私の娘たちの年齢に於ける幼児たちの英語とフランス語の習得の早さは、驚異的であった。日本語は、いまひとつであるけれど。

45-46ページ
『後奏曲集―後書きばかり-作品 3』より

デンマン注: 太田将宏が会費を滞納したようで上のリンク先は削除されてます!

確かに古臭い美学が出てきますけれど、オイラは特に“美学”について書こうと思ったわけではないのですよ。。。 Josquin des Prés (ジョスカン・デ・プレ) について書いていたら 成り行きで“美学”を持ち出したわけです。。。

あのさァ~、いつも思うのだけれど、オマエの文章はとっても読みづらいのだよ! 英語やドイツ語やフランス語やイタリア語やラテン語が入り混じっている。。。

デンマンさん! 人のことは言えませんよ! デンマンさんの文章だってぇ、長くて読み始めると、じきに飽きてしまうのですよ。。。

それは、オマエの極めて個人的な見解だと思うのだよ! むしろ独断と偏見だと言っていい。。。 僕の記事は、日本語が解る世界のネット市民の 多くの皆様に読まれているのだよ!

134ヵ国のネット市民の皆様に読まれていることを自慢したいのですか?

いや。。。 自慢したいわけじゃない! オマエが「デンマンさんの文章だってぇ、長くて読み始めると、じきに飽きてしまうのですよ」と言ったから、僕の長い記事でも まめに読んでくれる常連さんが居る、と言いたかったまでだよ。。。 とにかく、オマエの文章は読みづらいので、多くの人が上の文章を読み飛ばしたと思うのだよ。。。

マジで。。。?

僕だってぇ、読みたくなかった。。。 でも、この記事を書く都合があるので、次のように読み易くして読んだのだよ。

2.9  ジョスカン・デ・プレ

    (1440? – 1521)


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もし定量記譜法がなかったとしたならば、対位法の音楽は、これほどまでには発展しなかったであろう、と考えられる。
鏡像はおろか、一寸長い主題の場合には、反行や逆行すらも、そして、それらの組合せをふくめて、ということは、必要に応じて、強拍、弱拍を記憶のなかで数えながら音楽を構成することなどは、不可能事だとは断定しないまでも、記憶力の不経済な浪費だ、とはいえよう。

ここで発想を転換すると、逆もまた言えるのである。
方法、手段が確立すると、その方法や手段が目的、対象を限定、規定する、という傾向である。

例えば、もし、自然発生的な微分音が存在していたとするならば(草子地:私は存在していたと思うが)、一面、記譜方が成立する過程で、それが切り捨てられ駆逐された、という可能性もあるのである。
そこに、悪しきアカデミズムが発生する基盤ができあがるのではないか。
仮に(草子地:仮定法の文である。思考実験である。)、バッハが、例えば、<<フーガの技法>>を書いていた時に、何か勘違いをしたとして、客観的な音楽の秩序は書かれた、あるいは、書かれつつある譜面にある、としたとしても、いざ、ひとたび、彼がペンを取って書き始める、或いは、書き続けるやいなや、バッハ自身の全身、全霊がそれに反抗したことであったであろう。

聴き手としても、終始一貫した一応の秩序に於いて、何ものかを感じるのではない。
平凡な秩序からの逸脱、その裂け目が指示すところに共感した時にこそ、人は感動するのではないであろうか。
以上の意味で、音楽に於ける厳格さを、譜面上の厳格な書法、書式と混同した、二十世紀の所謂<現代音楽>の一派、ポスト・ヴェーベルン学派は、見かけとは裏腹に古臭い美学に拠りかかっているようである。

彼らの音楽が難解な、と言うと聞こえがよいが、要するに面倒くさいのは、その複雑さにもあるが、むしろ、それらへの共感を呼びようがないがためではないか。
複雑さ、と言えば、ブラームスでさえ充分に複雑である。
アントン・ヴェーベルン自身は何と言うであろうか(草子地:彼は、勿論、彼自身は、ポスト・ヴェーベルン学派ではない、と言うであろう)。

さて、本題に入ろう。
今、私は、ジョスカン・デ・プレの《ロム・アルメ(武装した人)》「種々の音高による」の<神の子羊>の譜面を眺めている。

 

  《ロム・アルメ(武装した人)》

  「種々の音高による」

 

“この箇所を3つの音声で”と指示された見事なカノンである。

そして、実際に唱われたときの美しさは言語に絶する。

問題が、私にとっての問題が、もし、あるとしたならば。
それは、思考過程が全て消去された後の数学命題の洗練された解法、とでもいった趣の記譜法にある。
私のような者にとっては、(三段の)三声のスコアにでも書き直さない限り、その見事にまで単純化された楽譜では、音楽の像が結び難いのである。

開き直って言えば、私だけではなく、現代の通常の楽譜に見慣れた読譜力しかない者にとっては、誰だって、程度の差こそあれ、それに困難を感じるのではないか、と私は自分を慰めているのである。
これだったら、バッハの<<音楽の捧げもの>>(作品1079)中のカノンの譜面の方がまだ読める、と。

ジョスカン・デ・プレ、或いは、その時代の人々にとっては、如何であったか、或いは、絶間ない訓練で克服できることなのだろうか。
この楽譜に限って言えば、三通りの定量記号が初めに記されているので、決して判じ物ではない。

私は、素直な人間であるので、彼や彼の時代の人々にはそれができた、と信じることにする。
それは、必ずしも、見ずして信じる、というのでもなく、私たちのささやかな経験からも言えるのではないか。

私を含めて、ヴァイオリンからヴィオラに転向した人は、時として、このような、いんちきまがいのことをする。
ハ音記号をト音記号に、また調性を属調に仮想して、三度下にシフトしてヴィオラを奏くのである。
そうすれば、ヴァイオリンを持ったつもりでヴィオラが奏ける。

しかし、少し困ったこともないわけでもない。
譜面が途中で一時的にト音記号に変った瞬間に眩暈がすることと、絶対音感がない限り、実音の感知に霞がかかっていることである。
あまりパート練習をしない怠惰な私としては辛いところであった。

よくもステージから下ろされなかった、と今にして思う。
(草子地:しかし、例えば、ベートーヴェンの<<ピアノ協奏曲第5番変ホ長調>>(作品73)のロ長調の第二楽章などは、今だって、パート練習をするくらいなら、リハーサルで文句をいわれるのを我慢する方を私は選ぶ)。

 

  《ピアノ協奏曲第5番変ホ長調》

 

ヴィオラの専門家ですら私に、よくそんなことがとっさにできるわねえ、と言ったことがあったけれど、そんな程度のことは、自然に、瞬時に、苦もなくできるのである。
そうでなければ、同時通訳などは不可能ではないか。

逆の例もあげよう。
私の娘たちは、ようやく楽譜が読めるようになった途端、暗譜力がてきめんに低下した。
それまでは、呆れ返るほどに、よく彼女らの指が音の連なり、重なりを記憶していたのである。

いにしえを考えてみるに、文字のなかった時代の、伝説、伝承を伝える人々の記憶力、暗記力は、現代人の我々から見れば、まさに、超人的にみえるではないか。

外から眺めているとしたら、時代、環境、年齢、個人の能力などによって異なるものの、不思議としか言いようがないことを人々はする、できるのである。
これは、無意味なことであろうけれども、ずいぶんと長い文を、一度だけ読んで、次に、暗誦で、逆にその終りから文字読みができる人もいるそうである。

ジョスカン・デ・プレに限らず、人の為すところには奇蹟は無い。
むしろ、それ故に、私は彼の作品に驚嘆するのである。

 

蛇足 (コーダ):

 

私の長女が 「パパは英語の言葉をたくさん知っているけれど、ハツゴンが悪いのよねぇ」、と言っていた。

それを言いたいのなら、ハツオンであろうが。

 


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しかし、それにしても、私の娘たちの年齢に於ける幼児たちの英語とフランス語の習得の早さは、驚異的であった。

日本語は、いまひとつであるけれど。

 

 


赤字はデンマンが強調)

45-46ページ
『後奏曲集―後書きばかり-作品 3』より

デンマン注: 太田将宏が会費を滞納したようで上のリンク先は削除されてます!

つまり、デンマンさんは 「パパは英語の言葉をたくさん知っているけれど、ハツゴンが悪いのよねぇ」、と長女が言ったので、オイラの発音矯正のために わざわざYouTubeのクリップを貼り付けたのですか?

そうだよ。。。 じっくりと見て勉強したらいいよ!

デンマンさん! 人のことは言えませんよ! デンマンさんの発音だって、オイラと比べても50歩100歩じゃありませんか!

僕は、上のクリップを何度も見て勉強したから、オマエの発音と比べたら、数段上を行っているのだよ! とにかく、今日は発音のことじゃないのだよ!

ジョスカン・デ・プレの“美学”についてオイラと議論したいのですか?

いや。。。 実は、僕が日本に帰省している時にオマエの上の記事を読んでいたら、ちょうど次の記事に出くわしたのだよ。。。

上西小百合 舛添要一氏を一喝

「男の美学に反する。本当女々しい」

2018年11月2日 16:55


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前衆院議員のタレント・上西小百合(35)が2日、ツイッターを更新。

舛添要一前東京都知事(69)を一喝した。

舛添氏は1日のイベントで元妻の片山さつき地方創生担当相(59)について「離婚して正解だったかな」などと冗談交じりに話した。

上西はこの発言にかみつき「舛添さんが『(片山さつき議員と)離婚して正解だったかな』だって。どんなことがあったって、別れた前の奥さんのことを悪く言う男の人ってどうなん。何も言わなきゃいいじゃん」と主張。

「“男の美学に反している”とわかっていながらも言ってしまうなんて、本当女々しい」とかつてのパートナーを批判した舛添氏を断罪した。


『東スポWeb』より

男の美学に反している”とわかっていながら前妻のことを悪く言うのは いけないことですよ。。。

オマエも、そう思うわけぇ~?

当たり前でしょう! 自分がしでかした破廉恥なことを棚に上げて、前妻の悪口を言うのは冗談だったとしても 男の美学に反していると思いますよ。。。

その事に関しては僕もオマエと同感だよ!

あれっ。。。 久しぶりにオイラとデンマンさんの考え方が一致しましたねぇ~。。。 うれしい。。。! この際だから、あの“馬鹿の見本”の現実主義者のようにスキップして喜んでもいいですかァ~?

 

現実主義者 学歴社会 ネットの嫌われ者 偏差値 イジメ自殺
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『現実主義者 馬鹿の見本』

 


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わァ~~ うれしいなあああァ~。。。

40過ぎても 結婚できない

オイラのために デンマンさんが

オイラの事で記事をたくさん

書いてくれました。

 

このぶんだと、読者の中から、

オイラにプロポーズしたい女性が

現れると思います。

オイラはウハウハしながら

男性ホルモンを全開しているのです。

きゃははははは。。。

 

こうなったら、もう無条件に

スキップして喜びたいですゥ!


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わァ~~ うれしいなあああァ~。。。

ルンルンルン ランランラ~♪~ン

もう一つおまけに

ルンルンルン ランランラ~♪~ン

ああァ~、うれしいなあああァ~。。。

スキップして喜ぶのは“馬鹿の見本”の現実主義者だけでいいのだよ!

オイラがスキップして喜んではいけないのですかァ~?

あのさァ~、喜んでもいいけれど、オマエがスキップして喜ぶことは“男の美学”に反することだろう!? そう思わないのかァ~?

言われてみたら、確かに、そうですよねぇ~。。。 うへへへへへへへ。。。 オイラまで“馬鹿の見本”になるところでした。。。 で、この事を言うために、わざわざ現実主義者を持ち出してきたのですか?

いや。。。 そうじゃないよ! 舛添さんのことだよ! 彼は“男の美学に反している”とわかっていながら前妻のことを悪く言う。。。 つまり、分かっているけど止められないという性格なんだよ! だから、分かっていながら政治資金で家族旅行をしてしまったわけだよ! 当然、“男の美学”にも反することだよ!

 


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はっきり言って、舛添さんも片山さんも “同じ穴の狢(むじな)” だよ!

デンマンさん! そういうようにして離婚した夫婦の悪口を言うのは“男の美学”に反しているのではありませんか?

いや。。。 僕は離婚した夫婦の悪口を言っているのじゃないのだよ!

じゃあ、何をしているつもりなのですか?

昔の人は次のように言ったのだよ。。。

 

“批判のないところに進歩なし!”

“愛なき批判は空虚にして、

 批判なき愛は盲目なり”

 

分かるだろう? 僕は悪口を言ってるのじゃなく、批判しているのだよ! これは“男の美学”に沿った言動なのだよ!


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【レンゲの独り言】


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ですってぇ~。。。

あなたは、どう思いますか?

片山さつきさんも ちょっと見苦しいですわよねぇ~。。。

連日、数々の疑惑により野党議員からの集中砲火を受け続けている片山さつき内閣府特命担当大臣。

そのきっかけとなったのが、週刊文春が報じた国税庁への口利き疑惑でした。

音声データを認めてもなお往生際の悪い片山さつき大臣。

「別に私がそう申し上げてもおかしくないなというものはある」

片山さつき地方創生大臣は11月15日、週刊文春が国税への口利き疑惑をめぐって公開した音声データの声について国会でそう答弁しました。

声の主が片山氏自身であることを認めたと言っていいのです。

 


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ところで、デンマンさんは 太田さんに対して かなり辛らつな批判をしています。

太田さんにしてみれば、コケにされたと思えるので、

次のサイトで抗議録を公開したのですわァ。。。


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『実際の抗議録』

デンマン注:しかし太田将宏が上の抗議録を掲載したサイトは消滅してしまいました!

 

デンマンさんも上の抗議録を読んで ムキになって反論しています。

『嘘を書く日記』

 

太田さんは、これに対しては反論ができないのか、それ以降 無言で通しています。

でも、そのうち 忘れた頃にまたコメントを書き込むかもしれません。。。

あなたは、どう思いますか?

とにかく、ネットには “めちゃキモい”人たちがウヨウヨしています。

太田将宏さんは、まだ良い方ですわ。

中には、まるで得意になって、愚かな事をして遊んでいる オツムの足りない人たちがたくさん居ます。

また、見かけは普通のブログでも、悪徳スパマーが手を変え品を変えて 悪徳サイトへ誘い込もうとしています。

スパムコメントで褒められると、ついついその気になって、

相手のブログへ飛んでゆき、お返しに、あるいはお礼にと思って

読者に登録してしまったりするものですわァ。

どうか スパマーの思う壺にはまらないでくださいね。

悪徳スパマーは悪徳サイトへ誘おうと

てぐすね引いて待っているのですから。。。

悪徳サイトを利用して、

メールアドレスで登録したりすると、

あなたのメールアドレスは第3者や第4者に売られてしまう危険性があります。

あなたは、そのようなスパム・コメントや 成りすましスパマーには

騙されないと思い込んでいるでしょう?

でもねぇ~、もしかすると騙されているかもよ。。。

とにかく気をつけてくださいね。

次回も、さらに面白い話題が続きます。

あなたも、どうか、また記事を読みに戻ってきてください。

では。。。


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