人生と偏差値

 

2018年9月26日 (水曜日)

 

人生と偏差値

 


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デンマンさん。。。、どういうわけで人生と偏差値というタイトルでオイラを呼び出したのですかァ~?


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オマエは不満なのォ~?

だってぇ~、オイラは偏差値などに全く関心がありません。。。

でも、オマエは人生については言いたい事があるだろう?

もちろん、人生についてなら、いろいろと言いたい事がありますよ。。。 でも、今日はクラシックの話をするだろうと思ったからノコノコとやって来たのですよ。。。

もちろん、クラシックの話をするのだよ。。。

でも、タイトルを見るとクラシックとは関係なさそうじゃありませんかァ!

でも、関係あるのだよ。。。 なぜなら、オマエはかつて次のような記事を書いていたのだよ。。。

1.1 Claudio Monteverdi (1567 – 1643)

これはどうしたことか。どの時代の、どの作曲家の音楽を聴いても、私は、近頃ambivalentな反応をしている自分を感じるのだ。
Claudio Monteverdiの<<Lamento d’ Ariana>>を聴き始めたとき、そのLasciatemi morire、のところで、何か間の抜けた、あるいは、虚ろな響きを聴いて、私は疲れているのか、と途惑った。実は、morire、と唱われる処に平行五度があったのである。Monteverdiのことであるので、これは、彼が意識してのことである、と私は信じる。つまり、これは、見捨てられたAriannaの内面の空虚としての意味がある、いや、生半可なsentimentalisme以上に効果があるとすら思えるのではあるが、私には、何か、かなわないなあ、といった印象を拭いきれない。J.S. Bachも言ったように、やはり、平行五度や平行八度は聴き苦しいのであろう。私は、無論、ここで、Monteverdiに苦情をいっているのではない。このlamentoは、オペラのAriaとしては、超一級である、と私も思う。こうした効果は、所謂絶対音楽では出番が無いであろう。
次なる問題は、私がTeseoに捨てられたAriannaに何処まで切実に同情しなければならないかにあろう。それは、私には荷がかちすぎる。東洋人の男性である私の心が動くなどというのは、もともと無理だったのではなかったか。かといって、好奇心を満たすだけにしても、感覚的には耳障りという障害がある。平衡五度に感動するわけにはいかないのでる。しかし、彼女への同情が無ければ感動も無いであろう。さらに言えば、これは、現代のヨーロッパ人にとっても、いや、baroque初期のイタリア人ですら、程度の差こそあれ同様なのではないか。
作品が立派である、という認識と、それが私(たち)に感動をもたらす可能性は、不幸にして乖離している。このことは、一つの作品の水準は、好きとか嫌いとか、あるいは、その作品の有用性(草子地:つまり、感動を求めてそれを聴こうとする人にとっては、感動そのもの)とは別の平面にある、ということの例証にもなるであろう。
音楽は、けっして、世界共通の言語などではない。異なる時代にも亘る言語ですらなかった。それでは、ヨーロッパ音楽の伝統とは、そもそも、いったい何であったのであろうか。
小澤征爾が言っていたことであるが、彼が若い頃、東洋人がヨーロッパの音楽をする意味、可能性について問われたとき(草子地:そういうことを聞く田舎者は世界のどこにでもいるものである。)、音楽は、世界の共通の言語であるからと、(草子地:当たり障り無く)返事をしていたところが、近頃では、何か自分が壮大な実験をしているのではないか、と思うようになってきたそうである。
壮大な実験、これは、彼だけのことではないであろう。それにしても、ようやく我々が西洋音楽を扱うことに関して欧米(を超える)水準に達した今日の、この倦怠は何であろう。かといっても、我々が邦楽に戻るなどとは、一般的に言って、非現実的であり、できない相談である。バスク語を話せ、と言われた方が、まだしも抵抗が少ないのではないか。
とはいえ、短二度の導音などの無い音楽に、何か、或る懐かしさを感じるのは何故であろう。平行五度の空虚を東洋人でも感知されるのと同様に、その懐かしさを感じとるのには西洋人であっても変りはないであろう。音楽が世界共通の言語などではないとしても、双方がcommuniquerできないほど異質なものを基礎にしているわけではない、といったとしたら、結論としては平凡すぎるのか。
それにしても、不思議なことではある。私自身、長二度や増二度の導音のある音階による音楽など、何時、何処で、聴いたことがあったか、まったく記憶に無いからである。少なくとも、今までに、長、短調の音楽を聴いた回数や時の長さは、旋法や五音音階のそれに較べては比較にならないほど多く、長かったはずである。何故か、調性音楽には、そのような懐かしさは感じさせない風がある。
いつだったか、小澤征爾とH.v. Karajanの指揮するM. Ravelの<<Boléro>>を聴き較べたことがあった。小澤の演奏は、英語で言うtoo squareであったが、Karajanのそれは、フランス人でもないのに、何とも、sexyで妖艶ですらあった。やはり、小澤のような指揮者でさえ日本人では及びがたいところが今なおある。
一方、まだP. Oundjianが第一ヴァイオリンを奏いていたころの東京クオルテットがトロントに来たときのRavelの演奏は、未だかつて聴かれたことのない程の名演であった。ただ、その時の解説者による、何故かOundjianだけに対するインタヴュでの質問で、最後に聞くが、ただひとりで日本人に交じって演奏するのをどのように感じているか、というのがあった。想像力の欠如した、この程度のmentalitéの人間もここでは多いのである。Oundjianが如何に答えるかを期待していたのであろうか。答えようが無いではないか。彼らの演奏以外には。それ以外の、どうでもいいことを聴きたがるのは、下賎な野次馬根性であろう。
そういえば、J.S. Bachは、BWV 855のFugeに於いて、二箇所にわたって壮大に平行八度を用いている(草子地:第19-20小節と第38小節)。これほどあからさまにやられると、良いも悪いもない。ただ、ぎくりとして、あいた口が塞がらない、といった効果がある。このFugeは、この曲集の中で、唯一の二声のFugeである故に、よけいにめだつ。

蛇足(コーダ):
私は、何々至上主義、といったものが嫌いである。例えば、恋愛至上主義。だいたい、恋愛感情などというものは、ある年頃の男女の肉体に触発された心理現象にすぎないのではないか。そもそも、成熟した夫婦が、夫婦であるのにもかかわらずに仲が良い、などというのは、どこか異常ではないか。長い間、生活を共にしていて、まだ互いにsexualitéを感じたとしたならば、それは近親相姦に近くはないか。J.S. Bachは、前妻、後妻と共に仲が良かった様子であるので、私はここを書いていて、少し、困っているが。
芸術至上主義も同じ。人生は芸術を演出する時空ではない。

6-7ページ
『間奏曲集―主題なき変奏-作品 2』より

デンマン注: 太田将宏が会費を滞納したようで上のリンク先は削除されてます!

あのさァ~、いつも思うのだけれど、オマエの文章はとっても読みづらいのだよ! 英語やドイツ語やフランス語やラテン語が入り混じっている。。。

デンマンさん! 人のことは言えませんよ! デンマンさんの文章だってぇ、長くて読み始めると、じきに飽きてしまうのですよ。。。

それは、オマエの個人的な見解だと思うのだよ! 僕の記事は、日本語が解る世界のネット市民の 多くの皆様に読まれているのだよ!

134ヵ国のネット市民の皆様に読まれていることを自慢したいのですか?

いや。。。 自慢したいわけじゃない! オマエが「デンマンさんの文章だってぇ、長くて読み始めると、じきに飽きてしまうのですよ」と言ったから、僕の長い記事でも まめに読んでくれる常連さんが居る、と言いたかったまでだよ。。。 とにかく、オマエの文章は読みづらいので、多くの人が上の文章を読み飛ばしたと思うのだよ。。。

マジで。。。?

僕だってぇ、読みたくなかった。。。 でも、この記事を書く都合があるので、次のように読み易くして読んだのだよ。

1.1 クラウディオ・モンテヴェルディ

    (1567 – 1643)


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これはどうしたことか。
どの時代の、どの作曲家の音楽を聴いても、私は、近頃 好意と嫌悪を同時に持つような反応をしている自分を感じるのだ。

クラウディオ・モンテヴェルディの<<アリアンナの嘆き>>を聴き始めたとき、そのLasciatemi morire(Let me die;死なせて)、のところで、何か間の抜けた、あるいは、虚ろな響きを聴いて、私は疲れているのか、と途惑った。


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実は、morire(死ぬ)、と唱われる処に平行五度があったのである。
モンテヴェルディのことであるので、これは、彼が意識してのことである、と私は信じる。

つまり、これは、見捨てられたアリアンナの内面の空虚としての意味がある、いや、生半可な感情主義以上に効果があるとすら思えるのではあるが、私には、何か、かなわないなあ、といった印象を拭いきれない。
バッハも言ったように、やはり、平行五度や平行八度は聴き苦しいのであろう。
私は、無論、ここで、モンテヴェルディに苦情をいっているのではない。

この嘆きは、オペラのアリアとしては、超一級である、と私も思う。
こうした効果は、所謂絶対音楽では出番が無いであろう。

次なる問題は、私がオデュッセウスに捨てられたアリアンナに何処まで切実に同情しなければならないかにあろう。
それは、私には荷がかちすぎる。
東洋人の男性である私の心が動くなどというのは、もともと無理だったのではなかったか。

かといって、好奇心を満たすだけにしても、感覚的には耳障りという障害がある。
平衡五度に感動するわけにはいかないのでる。

しかし、彼女への同情が無ければ感動も無いであろう。
さらに言えば、これは、現代のヨーロッパ人にとっても、いや、バロック初期のイタリア人ですら、程度の差こそあれ同様なのではないか。
作品が立派である、という認識と、それが私(たち)に感動をもたらす可能性は、不幸にして乖離している。

このことは、一つの作品の水準は、好きとか嫌いとか、あるいは、その作品の有用性(草子地:つまり、感動を求めてそれを聴こうとする人にとっては、感動そのもの)とは別の平面にある、ということの例証にもなるであろう。

音楽は、けっして、世界共通の言語などではない。
異なる時代にも亘る言語ですらなかった。
それでは、ヨーロッパ音楽の伝統とは、そもそも、いったい何であったのであろうか。

小澤征爾が言っていたことであるが、彼が若い頃、東洋人がヨーロッパの音楽をする意味、可能性について問われたとき(草子地:そういうことを聞く田舎者は世界のどこにでもいるものである。)、音楽は、世界の共通の言語であるからと、(草子地:当たり障り無く)返事をしていたところが、近頃では、何か自分が壮大な実験をしているのではないか、と思うようになってきたそうである。

壮大な実験、これは、彼だけのことではないであろう。
それにしても、ようやく我々が西洋音楽を扱うことに関して欧米(を超える)水準に達した今日の、この倦怠は何であろう。

かといっても、我々が邦楽に戻るなどとは、一般的に言って、非現実的であり、できない相談である。
バスク語を話せ、と言われた方が、まだしも抵抗が少ないのではないか。

とはいえ、短二度の導音などの無い音楽に、何か、或る懐かしさを感じるのは何故であろう。
平行五度の空虚を東洋人でも感知されるのと同様に、その懐かしさを感じとるのには西洋人であっても変りはないであろう。
音楽が世界共通の言語などではないとしても、双方がコミュニケーションが取れないほど異質なものを基礎にしているわけではない、といったとしたら、結論としては平凡すぎるのか。

それにしても、不思議なことではある。
私自身、長二度や増二度の導音のある音階による音楽など、何時、何処で、聴いたことがあったか、まったく記憶に無いからである。

少なくとも、今までに、長、短調の音楽を聴いた回数や時の長さは、旋法や五音音階のそれに較べては比較にならないほど多く、長かったはずである。
何故か、調性音楽には、そのような懐かしさは感じさせない風がある。

いつだったか、小澤征爾とカラヤンの指揮するモーリス・ラヴェルの<<ボレロ>>を聴き較べたことがあった。
小澤の演奏は、英語で言うtoo square(単純で直線的で堅苦しい演奏)であったが、カラヤンのそれは、フランス人でもないのに、何とも、セクシーで妖艶ですらあった。
やはり、小澤のような指揮者でさえ日本人では及びがたいところが今なおある。

 


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    小澤征爾・指揮

モーリス・ラヴェル ≪ボレロ≫


    カラヤン・指揮

モーリス・ラヴェル ≪ボレロ≫

 

一方、まだピーター・ウンジャンが第一ヴァイオリンを奏いていたころの東京クオルテットがトロントに来たときのラヴェルの演奏は、未だかつて聴かれたことのない程の名演であった。
ただ、その時の解説者による、何故かピーター・ウンジャンだけに対するインタヴュでの質問で、最後に聞くが、ただひとりで日本人に交じって演奏するのをどのように感じているか、というのがあった。
想像力の欠如した、この程度の思考様式の人間もここでは多いのである。

ピーター・ウンジャンが如何に答えるかを期待していたのであろうか。
答えようが無いではないか。彼らの演奏以外には。
それ以外の、どうでもいいことを聴きたがるのは、下賎な野次馬根性であろう。

そういえば、バッハは、作品855のフーガに於いて、二箇所にわたって壮大に平行八度を用いている(草子地:第19-20小節と第38小節)。


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これほどあからさまにやられると、良いも悪いもない。
ただ、ぎくりとして、あいた口が塞がらない、といった効果がある。
このフーガは、この曲集の中で、唯一の二声のフーガである故に、よけいにめだつ。

 

追記(コーダ):

 

私は、何々至上主義、といったものが嫌いである。
例えば、恋愛至上主義。だいたい、恋愛感情などというものは、ある年頃の男女の肉体に触発された心理現象にすぎないのではないか。

そもそも、成熟した夫婦が、夫婦であるのにもかかわらずに仲が良い、などというのは、どこか異常ではないか。
長い間、生活を共にしていて、まだ互いに性的感情を持ったとしたならば、それは近親相姦に近くはないか。

 


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マリア & ヨハン・ゼバスティアン・バッハ

 

バッハは、前妻、後妻と共に仲が良かった様子であるので、私はここを書いていて、少し、困っているが。

芸術至上主義も同じ。

人生は芸術を演出する時空ではない。


赤字はデンマンが強調)

6-7ページ
『間奏曲集―主題なき変奏-作品 2』より

デンマン注: 太田将宏が会費を滞納したようで上のリンク先は削除されてます!

デンマンさん。。。 オイラは確かに「芸術至上主義も同じ。 人生は芸術を演出する時空ではない」と書きましたが、偏差値については書いてません。。。

もちろん、オマエが偏差値について書いてないことは了解済みだよ。。。

それなのに、どういうわけで人生と偏差値というタイトルにしたのですか?

あのさァ~、オマエが書いた人生と芸術についての趣旨は僕にも解るような気がするのだよ。。。 でも、もし「芸術」を「偏差値」で置き換えてみると、まるで魔法をかけたように、すぐに納得がゆくのだよ。。。

要するに、デンマンさんは「偏差値至上主義も同じ。 人生は偏差値を演出する時空ではない」と言いたいのですか?

その通りだよ。。。

でも、どういうわけで偏差値を持ち出す必要があるのですか?

あのさァ~、これまでにも「現実主義者」と自称する愚か者のことを取り上げたことがあるけれど、この男が偏差値至上主義の呪縛によって 哀れな人生を送っているのだよ。。。

 


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『現実主義者 馬鹿の見本』

 

デンマンさん! オイラはこの“馬鹿の見本”の「現実主義者」と関わりたくないのですよ。。。

オマエのその気持ちは良~♪~く解るよ。。。

せっかく、クラウディオ・モンテヴェルディという作曲家のことをデンマンさんが持ち出してきたのですよ。。。 これから格調高くクラシックのことを語り合おうというのに、この偏差値30台のお馬鹿を持ち出したら、オイラたちの対談が台無しになるじゃありませんかア!

あのさァ~、確かに、その通りなのだけれど、オマエが「芸術至上主義も同じ。 人生は芸術を演出する時空ではない」と書いていたので、それを見た時に、むしろ「芸術」を「偏差値」で置き換えた方が、すっきり理解できるじゃないかァ!。。。と思ったわけだよ。。。

それで、あの“馬鹿の見本”を取り上げることにしたのですか?

その通りだよ。。。 この「現実主義者」と名乗る男は、偏差値至上主義を神のごとくに信じているために、日本は「学歴社会」だと100%文句無しに思い込んでいる。

 


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『現実主義者と学歴社会』

 

オイラが大学生の頃には「偏差値」なんて話題にもなりませんでしたよ。

そうなのだよ。。。 ところが、学力検査の結果を表す学力偏差値を導入し、これを入学試験の合格率の判定などに広く使うようになってから、日本の教育が乱れ始めたのだよ。。。

その犠牲者が「現実主義者」と自称する上の“馬鹿の見本”なのですか?

その通りだよ!

 


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この哀れな男は偏差値30台のクソ大学をやっと卒業することができた。。。

つまり、偏差値30台ということは、例えば、全受験生が100万人いた学力試験で、偏差値30台となる者は、100万人 X 13.6%(0.136) = 136,000人ということですねぇ~。。。

さすがは早稲田大学・理工学部・数学科を卒業しただけあって、オマエは筆算がすごいねぇ~。。。 (モナリザの微笑)

この程度ならば、小学生でもできますよゥ。。。

だけど、この“馬鹿の見本”には、この筆算もできないらしいよう。。。 それに、この数式の意味するところも理解できない。。。

マジで。。。?

だから、偏差値30台なんだよ! (笑)

。。。で、何が問題なのですか?

だから、この男は偏差値が30台の 136,000人中でも、136,000番目ぐらいにアタマが悪いわけ。。。

要するに馬鹿なんですねぇ~。。。 うへへへへへへへ。。。

そうなんだよ。。。 しかも、一回りも二回りも馬鹿なのは、伊藤先生のブログにコメントを書いて「オイラは偏差値が30台で 生きる価値のないクズの廃人」です、とまるで自慢するかのように宣言したのだよ!

つまり、この男は偏差値至上主義を神のごとくに信じて、人間の価値は偏差値で決まると思い込んでしまったのですねぇ~。。。

そうなのだよ! 「強迫観念」にちかい、この思い込みにがんじがらめになって、いわば自分で自分の首を絞めているような状態になっているのだよ。

。。。で、デンマンさんは、「人間の価値は偏差値で決まるのじゃないよ。。。 素直な性格だとか、共感する心だとか、クラシックを味わうだけの音楽的感性だとか、愛情こまらかな性質だとか、家族や友人を愛する人間性だとか、学力偏差値では表すことができないモノにこそ、人間の価値が含まれているのだよ!」と、馬鹿でも解るように、この男に語りかけたのですか?

その通りだよ。。。

。。。で、この馬鹿は、デンマンさんが語りかけた事が理解できないのですか?

全く理解できない!

なぜ。。。?

この男は中学生時代の反抗期に精神の発育がすっかり停滞してしまったのだよ!

つまり、家族や他人の言うことにたいして、反抗的な態度をとり続けたのですねぇ~?

そういうことだよ。。。 だから、いまだに反抗的な態度をとり続けている! 止せばいいのに次のような馬鹿な事を伊藤先生のブログに書いている!

引きこもり 現実主義者 偏差値 ネットの嫌われ者 イジメ 自殺

5 無題

 

桜井誠は俺のオジンそっくりです。

自分の考えを「それは違うだろ!」って言われたら、すぐムキになって
ムチャクチャなこと喚き散らして、
自分の考えを無理矢理に押し付けようとする。

 

現実主義者 2017-11-12 21:03:31


『伊藤先生のブログ』より

オマエの元校長先生のおじいさんが正しのだよ!
貴重な助言をしたのだよ!

オマエは、中学生の反抗期のまま、偏差値が30台のままに止まってしまったのだ!
当然、精神年齢もそのときのまま!
相変わらず中学生の悪ガキのコメントしか書けないのだよ!

伊藤先生も、愚かなオマエに呆れて、事なかれ主義の どうでもいい返信を書いている!

オマエ!、いい加減気づけよ!
伊藤先生は、オマエをやり過ごしているのだよ!
選挙に出馬することを考えて、できるだけ敵を作らないように。。。

世間に対して、好感を与えるように
どうしようもない、手もつけようもない、助言しても、まったく効き目の無いオマエをやり過ごしているだよ!

オマエは、もう伊藤先生から“よちよちされないのだ!”
“ちゅいちゅいされる”のがせきのやまなのだよ! 気づけ! ボケッ!
(モナリザの爆笑)


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『アタマにくる一言』のコメント欄より
(2018年9月17日)

つまり、この“馬鹿の見本”にデンマンさんは“アタマにくる一言”を言われたので、ムカついてこの記事を書く気になったのですねぇ~?

いや。。。 その程度のことで僕はムカつかないよ!

じゃあ、どういうわけで、この“馬鹿の見本”のことを取り上げて記事を書く気になったのですか?

あのさァ~、人間は神じゃないのだから一人として完璧な人間は居ないのだよ!

その通りです。。。

つうことわァ~、オマエも僕も欠陥のある人間だよ!

でも、オイラもデンマンさんも この“馬鹿の見本”よりはましな人間ですよ。。。

そうかもしれない。。。 ただ、僕が言いたいのは、この“馬鹿の見本”は自分で「偏差値が30台で、生きる価値のないクズの廃人」だと認めているのだよ!

だって、その通りじゃありませんかァ! (笑)

でも、それが違うのだよ! この“馬鹿の見本”にもちゃんと生きるだけの価値がある!

まさかァ~? マジで。。。? それは綺麗事でしょう!?

いや。。。 オマエや僕に生きる価値があるように、この愚か者にも生きる価値がある。。。

信じられません! いったい、どのような生きる価値がある、とデンマンさんは言うのですか?

反面教師として生きる価値があるのだよ!


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【レンゲの独り言】


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ですってぇ~。。。

今日は、太田さんを貶(けな)すと言うよりも

集中的に「現実主義者」と名乗る、あの“馬鹿の見本”を貶(けな)していますわァ~。。。

これまでは、太田さんに対して デンマンさんは かなり辛らつな批判をしています。

太田さんにしてみれば、コケにされたと思えるので、

次のサイトで抗議録を公開したのですわァ。。。


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『実際の抗議録』

デンマン注:しかし太田将宏が上の抗議録を掲載したサイトは消滅してしまいました!

 

デンマンさんも上の抗議録を読んで ムキになって反論しています。

『嘘を書く日記』

 

太田さんは、これに対しては反論ができないのか、それ以降 無言で通しています。

でも、そのうち 忘れた頃にまたコメントを書き込むかもしれません。。。

あなたは、どう思いますか?

とにかく、ネットには “めちゃキモい”人たちがウヨウヨしています。

太田将宏さんは、まだ良い方ですわ。

中には、まるで得意になって、愚かな事をして遊んでいる オツムの足りない人たちがたくさん居ます。

また、見かけは普通のブログでも、悪徳スパマーが手を変え品を変えて 悪徳サイトへ誘い込もうとしています。

スパムコメントで褒められると、ついついその気になって、

相手のブログへ飛んでゆき、お返しに、あるいはお礼にと思って

読者に登録してしまったりするものですわァ。

どうか スパマーの思う壺にはまらないでくださいね。

悪徳スパマーは悪徳サイトへ誘おうと

てぐすね引いて待っているのですから。。。

悪徳サイトを利用して、

メールアドレスで登録したりすると、

あなたのメールアドレスは第3者や第4者に売られてしまう危険性があります。

あなたは、そのようなスパム・コメントや 成りすましスパマーには

騙されないと思い込んでいるでしょう?

でもねぇ~、もしかすると騙されているかもよ。。。

とにかく気をつけてくださいね。

次回も、さらに面白い話題が続きます。

あなたも、どうか、また記事を読みに戻ってきてください。

では。。。


(hand.gif)

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