エリザベス1世と結婚

 

エリザベス1世と結婚

 


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デンマンさん。。。イギリスのエリザベス1世は、一度も結婚してないはずですわ。。。


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そうです。。。

それなのに、どういうわけでエリザベス1世が結婚したようなタイトルを書いたのですか?

エリザベス1世の父親のヘンリー8世は6度結婚したのです。。。

 


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エリザベス1世は、好色な父親と違い、一度も結婚してません。。。そういうわけでヴァージン・クイーン(処女女王)として名前を残してますよ。。。

本当に処女だったのですか?

いや。。。処女ではなかった。。。

どうして、そう断定できるのですか?

実は、つい最近、バンクーバー市立図書館で DVD を借りて次の映画を観たのですよ。。。

 


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『実際のページ』

 

あらっ。。。デンマンさんは2度観てますわねぇ〜。。。

そうです。。。最初に観たのは 2013年2月23日ですよ。。。今から11年前です。。。

なぜ2度観たのですか? それほど素晴らしい映画なのですか?

いや。。。いい映画には違いないけれど、2度観るつもりはなかったのですよ。。。僕はバンクーバー市立図書館で DVD を予約して映画を観るようにしているのです。。。

 


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『実際のページ』

 

僕は毎日 上のページを見るのです。。。ここにバンクーバー市立図書館の会員が 映画を観てコメントを書き込んだ DVD が表示されるのです。。。例えば、赤枠で囲んだDVDをクリックすると次のページが表示されます。

 


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『拡大する』

『実際のページ』

 

この映画は僕がすでに見た映画なのですよ。。。なぜなら僕がコメントを書いている。。。同じ映画を何度も観ないように、僕は映画を観たら必ずコメントを書き込むようにしているのです。

デンマンさんが「エリザベス」の映画を予約した時には デンマンさんが2013年2月に観た時のコメントが表示されなかったのですか?

表示されなかったのですよ。。。10年以上前のコメントは表示しないようにしているのかもしれません。。。とにかく、そういうわけで「エリザベス」の映画のDVDを予約したというわけです。

。。。で、どういうあらすじなのですか?

予告編があるので観てください。。。

 

 

エリザベス

 


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『エリザベス』(Elizabeth)は、1998年に公開されたイギリスの歴史映画。
監督はシェカール・カプール、出演はケイト・ブランシェットとジョセフ・ファインズなど。
エリザベス1世の前半生の人生を描く

第71回アカデミー賞では作品賞を始めとする7部門にノミネートされ、メイクアップ賞を受賞。
2007年に同じ監督・主演で続編『エリザベス:ゴールデン・エイジ』も公開された。

 

あらすじ

ヘンリー8世がカトリックを捨て、新教である国教会を打ち立てたことで国内外に新旧の宗教抗争がくすぶる16世紀のイングランド。

父王の遺志を汲みプロテスタントであったエリザベスは、カトリックの異母姉メアリー女王にロンドン塔に幽閉されてしまうが、メアリーの病死の後を受けて25歳でイングランド女王に即位する。

ロバート・ダドリーと恋愛関係にあったエリザベスに重臣ウィリアム・セシルは、アンジュー公(後のフランス王・アンリ3世)やスペイン王との結婚で、国の難局をのりきることを進言する。

だがエリザベスは、政略結婚に活路を見出すことはできなかった。

イングランドの国としての状態は決してかんばしくはなく、縁戚関係にもある隣国スコットランドとの戦争にも敗れてしまう。

エリザベスは、大陸より帰還したプロテスタントのフランシス・ウォルシンガムを重用し、イングランドを新教である国教会を中心におくことを宣言する。

ローマ教皇やカトリック列強国がこれを黙って認めるわけもなく、イングランドを取り巻く状況はより一層、緊迫し、エリザベスの暗殺未遂事件まで起る。

形勢を立て直すため、ウォルシンガムはまず、カトリック側と意を通じているスコットランドの施政者メアリ・オブ・ギーズを暗殺する。

カトリックの国内貴族ノーフォーク卿は教皇を後ろ盾としてエリザベスを潰しに出ようとしていたが、エリザベスは先んじて主だったカトリック派を一気に捕縛して処刑する。

ロバートとの愛に破れたエリザベスは髪を切り、国家と結婚すると誓うのだった。


出典:「エリザベス (映画)」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

「ロバートとの愛に破れたエリザベスは髪を切り、国家と結婚すると誓うのだった」、と書いてあるけれど、愛人はロバートだけじゃなく幾人もいたのですよ。。。ヴァージンどころかエリザベスは情事を楽しんでいたのです。。。

隠れたところで淫乱な生活を楽しんでいたのですわねぇ〜。。。

あのねぇ〜、エリザベス1世を暗殺する動きは両手の指では数え切れないほどあった。。。彼女が暗殺されなかったことが不思議なくらいですよ。。。だから、エリザベスが愛人を持つというのはただ単に情事を楽しむだけではなかったのですよ。。。

つまり、情報収集ですか?

そうです。。。エリザベスは人を見る目があった。。。彼女は、大陸より帰還した 見た目はダサいプロテスタントのフランシス・ウォルシンガムを重用した。。。エリザベスは外見では人を判断しなかった。。。ウォルシンガムが秘密警察を立ち上げてエリザベス女王暗殺計画を摘発したので、エリザベスは長い政権を維持できたのですよ。。。

でも、どうして結婚しなかったのですか?

実は、結婚する機会はたくさんあった。

 

エリザベス1世の結婚問題

 


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ダドリーと踊るエリザベス

 

エリザベスの治世初期から彼女の結婚が待望されたが、誰が女王の婿になるかが問題となっていた。

数多くの男性からの求婚があったものの彼女が結婚することはなく、生涯独身を貫いた理由は明らかではない。

歴史家たちはトマス・シーモアとの一件が彼女に性的関係を厭わせた、もしくは自身が不妊体質であると知っていたと推測している。

エリザベスは統治のための男性の助けを必要とせず、また、姉のメアリー1世に起きたように、結婚によって外国の干渉を招く危険もあった

未婚でいることによって外交を有利に運ぼうという政策が基本にあったという政治的な理由や母アン・ブーリンおよび母の従姉妹キャサリン・ハワードが父ヘンリー8世によって処刑され、また最初の求婚者トマス・シーモアも処刑されたことから結婚と「斧による死」が結びつけられた心理的な要因とする説もある。

一方で、結婚は後継者をもうけ王家を安泰にする機会でもあった。

 

レスター伯ロバート・ダドリー

1559年春にエリザベスの幼馴染であるロバート・ダドリー(ジェーン・グレイ擁立事件で処刑されたノーサンバランド公の四男)への友情が愛情に変わり、広く知られるようになった。
彼らの交際は宮廷・国内そして外国でまで話題になった。

また、彼の妻エイミー・ロブサートが「片方の乳房の病」に罹り、女王は彼女が死ねばロバート卿と結婚するだろうとも言われた。
幾人かの高貴な求婚者たちがエリザベスを得るべく競っており、彼らの使者たちは我慢しきれず、よりスキャンダラスな会話を交わし、寵臣との結婚はイングランドにとって好ましくない事態を生じさせると報告している。

1560年9月にダドリーの妻が階段から転落死すると、驚愕すべきことではないが、大きなスキャンダルとなった。
多くの人々が女王と結婚するためにダドリーが妻の死を企てたと疑った。
死因審問は事故であると断定し、暫くの間はエリザベスもダドリーとの結婚を真剣に考えている。

しかしながら、ウィリアム・セシル、ニコラス・スロックモートンそして多くの貴族たちが警告し、明確に反対した。
反対は圧倒的であり、もしも結婚が実行されたら貴族たちは反乱を起こすとの噂まで流れた。

この後、他に幾つか結婚の話はあったが、ロバート・ダドリーは10年近く候補と見なされ続けている。
エリザベス自身は彼と結婚する意志が無くなった後でも、彼の恋愛にはひどく嫉妬した。

1564年にエリザベスはダドリーをレスター伯爵に叙した。
結局、彼は1578年に再婚しており、この結婚にエリザベスは幾度も不機嫌を示し、彼の妻であるレティス・ノウルズを生涯憎んだ。

しかし依然としてダドリーは「(エリザベスの)情緒生活の中心であり続けた」と歴史家スーザン・ドーランは述べている。
彼はアルマダの海戦のすぐ後に死去し、そしてエリザベスの死後、彼女の私物の中から「彼からの最後の手紙」と自筆されたダドリーからの手紙が発見されている。

その他の愛人とされる人物にはエセックス伯ロバート・デヴァルー、ウォルター・ローリー卿などがいる

ローリーは新大陸(アメリカ)にエリザベスに因みバージニア植民地を建設するなどし好意を得ていたが、エリザベスの侍女と極秘結婚したためロンドン塔に幽閉される。

レスター伯の義子であるエセックス伯は晩年の寵臣で、女王が老齢に達していたこともあり寛容であったが、反乱を起こし処刑されている。

 

政治的側面

エリザベスは(しばしば外交上の策略にしか過ぎない)結婚問題を公にし続けた。

ダドリーの求婚は別として、エリザベスは結婚問題を外交政策として扱った

彼女はスペイン王フェリペ2世の求婚は1559年に拒否したものの、数年に亘り彼の従弟のオーストリア大公カール2世との婚姻を交渉している。

議会は繰り返し結婚を請願したが、彼女は常に言葉を濁して答えていた。
1563年に彼女は神聖ローマ帝国の使節にこう語っている。

「もしも私が私本来の意向に従うならば、『結婚した女王よりも、独身の乞食女』ということです」。

同じ年にエリザベスが天然痘に罹ると後継者問題が激化した。
議会は彼女の死による内戦を防ぐために女王に結婚か後継者の指名を迫った。

その4月に彼女は議会を閉会させ、1566年に課税への支持を必要とするまで再開させなかった。
庶民院は彼女が後継者を示すことに同意するまで特別補助金を差し控えると脅した。

1566年議会でロバート・ベルがエリザベスの制止にもかかわらず、大胆にもこの問題を追及すると、彼は彼女の怒りの標的になり「ベル氏とその共犯者は貴族院で意見を開陳して、彼らを納得させなさい」と言われている。

1566年、彼女はスペイン大使に「もしも結婚せずに後継者問題を解決できるならば、そうするだろう」と打ち明けている。
1570年までに政府の高官たちはエリザベスは結婚せず、後継者を指名もしないであろうことを受け入れた。

ウィリアム・セシルは既に後継者問題の解決法を模索していた。
この立場のために、彼女の結婚の失敗により、彼女はしばしば無責任だと非難された。

エリザベスの沈黙は彼女自身の政治的な安全を強化した。
彼女はもしも後継者を指名すれば、彼女の王座がクーデターの危機にさらされると知っていた。

1568年にハプスブルク家との関係が悪化すると、代わりにエリザベスはフランスのヴァロワ家の2人の王子との結婚を考えた。
最初はアンジュー公アンリ(後のフランス国王アンリ3世)であり、その後(1572年から1581年)は彼の弟のアンジュー公フランソワである

この最後の提案は南ネーデルラントを支配していたスペインに対抗するためのフランスとの同盟構想と結びついていた。

1579年にアンジュー公フランソワは求婚のため来英してエリザベスと面会しており、 エリザベスは彼が噂されていたよりは「それほど醜くはない」ので、彼に「蛙 (frog)」の愛称をつけた。

エリザベスはこの求婚を真剣に考慮していたようで、アンジュー公が彼女へ贈った蛙形のイアリングを身につけている。
カトリックのフランス王族との結婚には反対論が非常に強く、結局、この縁談は成立しなかった。

1584年にアンジュー公フランソワは若くして死去し、この報を受けたエリザベスは悲しみ喪に服した

エリザベスの未婚は処女性への崇拝を生じさせた。
詩や肖像画において、彼女は普通の女性ではなく処女や女神として描写された。

当初はエリザベスの処女性を美徳とするものであった。
1559年に彼女は庶民院において「大理石の墓石にこの時代を治めた女王、処女として生き、死んだと刻まれれば満足です」と発言している。

これ以降、とりわけ1578年以降、詩人や作家たちはこの題材を取り上げ、エリザベスを称揚するイコンに転じた。
隠喩 (metaphor) や奇想 (conceit) の時代、神の加護の元に彼女は王国そして臣民と結婚した者として描かれた。
1599年にエリザベスは「私のよき臣民、すべてが私の夫だ」と語っている。


出典:「エリザベス1世 (イングランド女王)」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

1579年にアンジュー公フランソワは求婚のため来英してエリザベスと面会したのですか?


 
そうです。。。この時の面会は映画にも出てくるのですよ。。。面白いのでベティさんもじっくりと見てください。。。

 


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あらっ。。。アンジュー公は女装しているのですわねぇ〜。。。

そうなのです。。。フランスの宮廷でも公的な場所以外のプライベートな時には女装して過ごしていたというのです。。。

なぜアンジュー公には女装趣味があったのですか? そう言われてみればデンマンさんも下着女装の趣味がありましたよねぇ〜?

 


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あのねぇ〜、これは下着女装の記事を書いた時に、面白おかしい例として僕がコラージュしてデッチ上げた写真で、僕がマジで下着女装して喜んでいるわけではないのですよ。。。(苦笑)

そのように恥ずかしがらなくてもいいではありませんか? アンジュー公には女装趣味があったのですから、デンマンさんが下着女装したとしても、この記事を読んでいるネット市民の皆さんが
デンマンさんが変態男だとは思いませんわよう。。。うふふふふふふ。。。

別に恥ずかしがっているわけじゃありません。。。僕は、下着女装には全く興味がありません。。。

そうムキにならなくてもいいではありませんかァ〜!

ベティさんが余計なことを言うから、脱線してしまうのですよ。。。僕の記事は、それでなくても長いのです。。。余計な事を言わせないでくださいねぇ〜。。。

じゃあ、話を戻して、なぜアンジュー公には女装趣味があったのですか?

あのねぇ〜、当時のフランスの宮廷では男の子でも幼児の頃は 女の子の服装を着せられて育てられたのですよ。。。日本の皇室でもフランス宮廷を真似したのか 男の子は生まれると女の子の服装をさせられて育てられたという話を聞いたことがあります。。。

つまり、その幼児期の女装時代が懐かしくなり、長じてもプライベートでは女装して過ごしたというのですか?

そういうことですよ。。。少なくともアンジュー公は、そうだったようです。。。

 

フランソワ (アンジュー公)

 


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1555年3月18日 – 1584年6月19日

 

エルキュール・フランソワ・ド・フランス(Hercule François de France、)は、フランス王アンリ2世と王妃カトリーヌ・ド・メディシスの息子。
フランソワ2世、シャルル9世、アンリ3世、およびスペイン王妃エリザベート、ロレーヌ公妃クロード、ブルボン朝のアンリ4世妃マルグリットの弟である。
1560年にエヴルー公、1566年にアランソン公、1576年にアンジュー公、トゥーレーヌ公、ベリー公に叙されたが、アランソン公の称号でしばしば呼ばれる。

長兄フランソワ2世以下、3人の兄は次々と若くして王位に就いては嗣子なしに早世しており、3番目の兄アンリ3世が1574年に即位した際には王位継承権者の筆頭(推定相続人)となったが、アンリ3世に先立って1584年に死去したため、成長した男子の兄弟のうち唯一王位に就かずじまいであった。

アンリ3世は5年後の1589年に暗殺され、王家としてのヴァロワ家は断絶することとなる。

八十年戦争初期の指導者オラニエ公ウィレム1世はアンジュー公フランソワに対し、ネーデルラント連邦共和国の前身となるネーデルラント北部諸州連合の君主位に就くことを要請していた。

また、イングランド女王エリザベス1世との結婚の交渉が進められていたことがある。

1579年にアンジュー公フランソワは求婚のため来英してエリザベスと面会しており、 エリザベスは彼が噂されていたよりは「それほど醜くはない」ので、「蛙 (frog)」の愛称をつけた

エリザベスはこの求婚を真剣に考慮していたようで、アンジュー公が彼女へ贈った蛙形のイアリングを身につけている。
カトリックのフランス王族との結婚には反対論が非常に強く、結局この縁談は成立しなかった。

1584年にアンジュー公フランソワは若くして死去し、この報を受けたエリザベスは悲しみ喪に服した。
ジョン・ダウランドのリュート曲「蛙のガリアルド」(Frog Galliard)のタイトルの蛙とは上述の仇名であり、この曲はアンジュー公フランソワとエリザベス女王の悲恋を題材にしている。


出典: 「フランソワ (アンジュー公)」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

アンジュー公が女装していたからといってエリザベスは彼を嫌っていたわけではないのですわねぇ〜。。。

そうです。。。1584年にアンジュー公フランソワが29歳で死去したときには、この報を受けたエリザベスは悲しみで喪に服したのですよ。。。

それなのになぜ結婚しなかったのですか?

カトリックのフランス王族との結婚には反対論が非常に多かったからです。。。

でも、それ以前にもフランソワの兄のアンジュー公アンリ(後のフランス国王アンリ3世)とエリザベスの結婚話が持ち上がっていますよねぇ〜。。。

そうです。。。1570年、アンリからイングランド女王エリザベス1世への求婚の準備が行われたのですよ。。。この時、エリザベスは37歳に近く(アンリは19歳)、王位継承者を生むための夫が必要とされていた。。。でも、この話し合いは実ることはなかった。

 

アンリ3世 (フランス王)

 


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1551年9月19日 – 1589年8月2日

 

アンリ3世(Henri III)は、ポーランド最初の選挙王(在位:1573年 – 1575年)、およびヴァロワ朝最後のフランス王(在位:1574年 – 1589年)。
アンリ2世の四男、母はカトリーヌ・ド・メディシス。
フランソワ2世およびシャルル9世の弟。
ポーランドではヘンリク・ヴァレジ(Henryk Walezy)と呼ばれる。

 

幼少期

アンリはフランス王アンリ2世と王妃カトリーヌ・ド・メディシスの三男としてフォンテーヌブロー宮殿で生まれ、アレクサンドル=エドゥアール (Alexandre-Édouard) の洗礼名を受けた。
兄にフランソワとシャルルがいる。
彼は1560年にアングレーム公とオルレアン公、1566年にはアンジュー公になっている

1559年に彼の名はアンリ (Henri) となった。
彼は母から最も愛され、彼女は彼を「愛らしい目」(chers yeux) と呼んで溺愛し、これは彼の人生のほとんど終わりまで続くことになる。
病弱な次兄シャルルはアンリが成長するにつれ忌み嫌うようになり、彼の健康と活発さに嫉妬した。

 

青少年期

青少年期にはアンリ2世とカトリーヌ・ド・メディシスとの間の子たちの中で最も出来の良い息子と見られていた。
父や兄たちと違い、ヴァロワ家伝統の道楽である狩猟や運動にあまり関心を示さなかった。
もっとも、フェンシングは好み、技量も上達している。

芸術と読書を楽しむことをより好んだ。
これらの嗜好はイタリア人の母の影響によるものである。

少年期の一時期、親に対する反抗としてプロテスタント的傾向を見せるようになった。
9歳の時、自分を「小さなユグノー(プロテスタント)」(un petit Huguenot) と呼び、ミサに出ることを拒み、妹のマルグリットに対してプロテスタントの詩篇を詠って信仰を変え時祷書を焼き捨てるよう奨め、さらには聖パウロの聖像に対して鼻をかむことまでしている。

母は我が子がこのような振る舞いをすることを非常に心配したが、成長するとこのような行動は二度と見せることがなくなり、その代わりに名ばかりのローマ・カトリック教徒になった。

アンジュー公となった彼はユグノーとの宗教戦争が勃発すると国王軍の司令官になり、ジャルナックの戦い(1569年3月)とモンコントゥールの戦い(1569年6月)で勝利している。
数千人のユグノーが殺されたサン・バルテルミの虐殺(1572年)にも関与している(もっとも、直接手は下していない)。

 

エリザベス1世との縁談

1570年、アンリからイングランド女王エリザベス1世への求婚の準備が行われた。
この時、エリザベスは37歳に近く(アンリは19歳)、王位継承者を生むための夫が必要とされていた

だが、これらの話し合いは実ることはなかった
歴史家たちはこの時のエリザベスはスペインを挑発することが目的であり、結婚を実現することは意図していなかったと見なしている

この結婚は彼らの宗教観の違い(アンリは公式にはカトリックであり、エリザベスはプロテスタントである)とアンリ本人のエリザベスに対する見方により、実現性のあまりないものであった。

アンリはエリザベスを「下賤の売春婦」(putain publique) と無愛想に呼び、その歳の差(18歳差)を痛烈に嘯いている。
誤聞ではあったが、エリザベスが静脈瘤のために歩行難をきたしているという噂を耳にしたアンリは「脚を痛めた老いぼれ」と呼んでいる。

 

暗殺

宗教内戦の平和的解決を願う国王は、英雄視されるギーズ公と違いカトリック同盟内では評判が悪かった。
1588年5月、国王はギーズ公の野心を察知してパリ入城を禁じたが、逆にパリ市民は国王に対して蜂起し、アンリ3世は身の危険にさらされてシャルトルに逃亡した。

カトリック同盟はギーズ公の主導のもと、ブロワで三部会を招集し、王権の制限を議論し始めた。
これに対する報復として、アンリ3世は和解すると偽ってギーズ公と弟のギーズ枢機卿を暗殺させると、今度はナバラ王のいるプロテスタント陣営と協力関係に入った。

パリ市民とカトリック同盟は憤激し、アンリ3世をもはや国王と認めないと宣言して、ギーズ公の弟マイエンヌ公を新指導者に推戴するに至ったため、王国は完全に二つに割れた。

1589年8月1日朝、アンリ3世はカトリック同盟に属するドミニコ会修道士ジャック・クレマンの謁見に応じたが、この暗殺者に短剣で襲われて重傷を負った。
国王は翌日の深夜2時に死去し、ナバラ王がアンリ4世として分裂した王国の収拾に乗り出すことになった。

 

同性愛

アンリ3世の死後長い間、彼はホモセクシャルか、少なくともバイセクシャルであると考えられていた。
アンリ3世がホモセクシャルであることを示す良質な史料は多くあるものの、この件については依然として議論がある。

J.F. SolnonとJ. Boucherはアンリ3世が多くの愛人を抱えており、ホモセクシャルではないという証拠を発見した。
そこには男性の名前はなく、当時の彼は美しい女性を好むことで有名だった。

アンリ3世がホモセクシャルであると考えられたのは、彼が戦争や狩猟を嫌ったことが女々しく、「同性愛者的」であると受け取られ、この事からユグノーと過激派カトリックといった敵対勢力がフランスの人々を彼に敵対させるよう仕向けるために作った話であると結論付けている。


出典: 「アンリ3世 (フランス王)」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

アンリが同性愛者だったという噂があったから結婚話が破断になったのですか?

いや。。。アンリが同性愛者だったというのは単なる噂だったらしいのですよ。。。なぜならアンリ3世は多くの愛人を抱えていたのです。。。本当の理由はこの時のエリザベスはスペインを挑発することが目的であり、結婚を実現することは意図していなかった。。。つまり、政治的な駆け引きで結婚話を持ち出したのですよ。。。

じゃあ、その後 エリザベスはなぜ結婚しなかったのですか?

あのねぇ〜、僕は思うのだけれど、エリザベスには愛人が幾人かいたのです。。。でも、その間に妊娠することがなかった。。。つまり、エリザベス自身が自分は子供を埋めない体だと気づいていたのではないか? それならば、結婚しても意味はないのではないか? 結婚しても跡継ぎができないとしたら、結婚する意味がない。。。むしろ恥さらしになる。。。そう思って結婚しなかった。。。それよりも「処女女王」としてこ後世に名を残すことの方が意味があると思ったに違いないのです。。。

【ジューンの独り言】


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ですってぇ~。。。エリザベスは子供が埋めない体だったのでしょうか?

結婚するよりも「処女女王」として名を残す方が意味があると思ったのでしょうか?

あなたは、どう思いますかァ〜?

ええっ。。。「そんな事はどうでもいいから、他にもっと面白い事を話せ!」

貴方は、そのような命令口調で、あたしに命令するのですか?

分かりましたわ。。。

バンクシーが描いた絵は日本でも発見されてます。。。

 


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■ネズミの絵 – 東京都港区の防潮堤。日の出ふ頭2号船客待合所で公開中。

■少女と風船の絵 – 茨城県高萩市の防波堤

■ネズミの絵 – 茨城県水戸市のコインランドリー

■少女と風船の絵 – 千葉県九十九里町の護岸

■ネズミの絵 – 兵庫県西宮市の縁石

■少女と風船の絵 – 東京都足立区青井の青井兵和通り商店街のもんじゃ焼き店の外壁

貴方の家の近くにもネズミの絵が描いてあるかもしれません。。。

探してみてください。。。

うまく見つかれば、宝くじにあったぐらいの金額が懐(ふところ)に入ってきますわ。。。

ええっ。。。「そいうバカバカしい話は、いいから、もっと他に面白いことを話せ!」

あなたが そう言うのでしたら 面白い動画をお目にかけます。。。

一体何をしていると思いますかァ〜? うふふふふふふふ。。。

 


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白い白衣を着ているのは誰だと思いますか?

こういう破廉恥なことをするのは、セクハラなコメントを書き回っている神武君かもしれませんわねぇ〜。。。

 


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『セクハラ止めない神武君』

 

「愚かな神武君の話などどうでもいいから、他にもっと面白いことを話せ!」

あなたは、そのような命令口調で 更に わたしに面白いことを話せと命令するのですかァ~?

分かりましたわァ~。。。

じゃあ、気分を変えるために面白い動画をお目にかけます。。。

 


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貴方は、上のワンちゃんが金魚を食べてしまうと思いましたか?

ええっ。。。「そんな事はどうでもいいから、他にもっと面白いことを話せ!」

あなたは、そのような強い口調で 更に わたしにご命令なさるのですかァ~?

分かりましたわァ。。。

デンマンさんが10年以上も前にアンケートを作りました。

 


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『拡大する』

『もう一度クリスマスのページ』

 

上のリンクをクリックすると、

左側のサイドコラムにたくさんの質問が出てきます。

ひとつひとつ見ながら ぜひアンケートに答えてみてください。

ええ。。。、「そんな暇ないよ!」

じゃあ、たまには、古代のお話も読んでみてくださいね。

意外に面白いですわよ。。。

あなたも古代の謎に挑んでくださいねぇ~。。。


天武天皇と天智天皇は

同腹の兄弟ではなかった。 

天智天皇は暗殺された 

定慧出生の秘密 

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なぜ、蝦夷という名前なの?

平和を愛したアイヌ人

藤原鎌足と六韜

古事記より古い書物が

どうして残っていないの?

今、日本に住んでいる人は

日本人でないの?

マキアベリもビックリ、

藤原氏のバイブルとは?

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『あと1時間で死ぬと判ったら』

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とにかく、今日も一日楽しく愉快に
ネットサーフィンしましょう。
じゃあね。バーィ。


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ィ~ハァ~♪~!

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■ “JAGEL – Soft Japanese Bagel”


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■ 『きれいになったと感じさせる

下着・ランジェリーを見つけませんか?』

■ 『ちょっと変わった 新しい古代日本史』

■ 『面白くて楽しいレンゲ物語』


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■ 『軽井沢タリアセン夫人 – 小百合物語』

■ 『今すぐに役立つホットな情報』


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